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それだけで、じゅうぶん

作者: 丸太
掲載日:2025/11/19


何かが足りないと思っていた。

でも、本当は――減っていっていたのは“何か”じゃない。


母の声であり、ぬくもりであり、

僕の声が向かう場所だった。


母のスマホには、僕からの留守電が五件残っていた。


――今日、帰れる?

――また夜勤?

――声、聞きたい。

――ひとりで食べたよ。


最後の留守電だけ、少し間があった。


――……ぼく、がんばってるよ。


母はそれらの留守電を消さずに残していた。



母は看護師で、いつも誰かのために走っていた。


朝にはもう家にいない日も多く、夜も僕が寝るころには帰ってこない。

顔を合わせても、母は疲れた笑顔を見せるだけで、ゆっくり話す時間はほとんどなかった。


母が疲れていることはわかっていた。

でも、僕はその「疲れ」の中身を、深く考えたことはなかった。



冬の朝、母が倒れた。


白い病室で眠っている母を見たとき、僕は思わず足を止めた。


痩せた腕。骨ばった指。乾いた唇。

僕の知っている母より、ずっと細く、弱く、静かだった。


――こんな姿、知らなかった。


いや本当は見ようとしてこなかっただけだった。

母が弱っていくことを、どこかで認めたくなかったのかもしれない。


幼いころ母はよくハンバーグを作ってくれた。

料理は得意じゃなかったのに、それだけは何度も作ってくれた。

焦げたり形が崩れたりしていたけど僕はそれを“母の味”だと本気で思っていた。


今思えば上手だからじゃなかった。

――僕のために一生懸命作ってくれたから特別だったんだ。


でも、いつの間にか、それは当たり前じゃなくなった。

母は忙しくなりエプロンも見なくなり、あの匂いも消えていった。


それなのに僕は何も言わなかった。

気づかないふりをしていた。


「……お母さん?」


呼びかけても、返事はなかった。

僕の声は、どこにも届かないみたいだった。



それから毎日病院に通った。

宿題をひろげながら母に話しかけた。


学校のこと、友だちのこと、今日食べたパンのこと。

そして――母のハンバーグの話もした。

母は返事をしない。

でも話し続けた。

話さないと何かが途切れてしまいそうだった。


ある日、看護師さんが静かに言った。


「反応がなくても、声は届いていることが多いですよ。

大切な人の声は、体もちゃんと覚えているから」


その言葉はあたたかく、静かに胸の中に落ちた。



三週間後の夕方。

窓から差し込む淡い光が病室をやわらかく照らしていた。


「ねえ、お母さん。

僕、ひとりでもがんばってるよ。

でもほんとは、がんばったことを、お母さんに聞いてほしかったんだよ。」


その瞬間だった。

握っていた母の指が、ほんの少し――確かに動いた。


偶然なんかじゃない。

僕の声に触れようとした指だった。


「……お母さん。僕、ここにいるよ。」


返事はなかった。

でも、母の指はゆっくりと、握り返してくれた。


そこには、生きている温度があった。



数ヶ月後、母は家に戻ってきた。


完全に治ったわけではない。

階段はゆっくり。

包丁も前のようには握れない。

言葉も少しずつしか出てこない。


それでも僕の声には、ちゃんと顔を向けてくれる。


それだけで十分だった。


ある日、母が言った。


「……昔みたいにハンバーグ、作ってみようか。

ふたりでならできるかもしれないね」


僕はうなずいて玉ねぎを刻み始めた。

母は横でゆっくりとタネを混ぜていた。


その手は前より細くなっていたけれど、

僕にはその手が、前よりずっとあたたかく見えた。


「ねえ、お母さん」

僕は言った。


「僕、お母さんの子どもでよかった。」


母はゆっくりと笑った。


その笑顔を見て僕は思った。

もうそれだけで、じゅうぶんだった。



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