それだけで、じゅうぶん
何かが足りないと思っていた。
でも、本当は――減っていっていたのは“何か”じゃない。
母の声であり、ぬくもりであり、
僕の声が向かう場所だった。
母のスマホには、僕からの留守電が五件残っていた。
――今日、帰れる?
――また夜勤?
――声、聞きたい。
――ひとりで食べたよ。
最後の留守電だけ、少し間があった。
――……ぼく、がんばってるよ。
母はそれらの留守電を消さずに残していた。
母は看護師で、いつも誰かのために走っていた。
朝にはもう家にいない日も多く、夜も僕が寝るころには帰ってこない。
顔を合わせても、母は疲れた笑顔を見せるだけで、ゆっくり話す時間はほとんどなかった。
母が疲れていることはわかっていた。
でも、僕はその「疲れ」の中身を、深く考えたことはなかった。
冬の朝、母が倒れた。
白い病室で眠っている母を見たとき、僕は思わず足を止めた。
痩せた腕。骨ばった指。乾いた唇。
僕の知っている母より、ずっと細く、弱く、静かだった。
――こんな姿、知らなかった。
いや本当は見ようとしてこなかっただけだった。
母が弱っていくことを、どこかで認めたくなかったのかもしれない。
幼いころ母はよくハンバーグを作ってくれた。
料理は得意じゃなかったのに、それだけは何度も作ってくれた。
焦げたり形が崩れたりしていたけど僕はそれを“母の味”だと本気で思っていた。
今思えば上手だからじゃなかった。
――僕のために一生懸命作ってくれたから特別だったんだ。
でも、いつの間にか、それは当たり前じゃなくなった。
母は忙しくなりエプロンも見なくなり、あの匂いも消えていった。
それなのに僕は何も言わなかった。
気づかないふりをしていた。
「……お母さん?」
呼びかけても、返事はなかった。
僕の声は、どこにも届かないみたいだった。
それから毎日病院に通った。
宿題をひろげながら母に話しかけた。
学校のこと、友だちのこと、今日食べたパンのこと。
そして――母のハンバーグの話もした。
母は返事をしない。
でも話し続けた。
話さないと何かが途切れてしまいそうだった。
ある日、看護師さんが静かに言った。
「反応がなくても、声は届いていることが多いですよ。
大切な人の声は、体もちゃんと覚えているから」
その言葉はあたたかく、静かに胸の中に落ちた。
三週間後の夕方。
窓から差し込む淡い光が病室をやわらかく照らしていた。
「ねえ、お母さん。
僕、ひとりでもがんばってるよ。
でもほんとは、がんばったことを、お母さんに聞いてほしかったんだよ。」
その瞬間だった。
握っていた母の指が、ほんの少し――確かに動いた。
偶然なんかじゃない。
僕の声に触れようとした指だった。
「……お母さん。僕、ここにいるよ。」
返事はなかった。
でも、母の指はゆっくりと、握り返してくれた。
そこには、生きている温度があった。
数ヶ月後、母は家に戻ってきた。
完全に治ったわけではない。
階段はゆっくり。
包丁も前のようには握れない。
言葉も少しずつしか出てこない。
それでも僕の声には、ちゃんと顔を向けてくれる。
それだけで十分だった。
ある日、母が言った。
「……昔みたいにハンバーグ、作ってみようか。
ふたりでならできるかもしれないね」
僕はうなずいて玉ねぎを刻み始めた。
母は横でゆっくりとタネを混ぜていた。
その手は前より細くなっていたけれど、
僕にはその手が、前よりずっとあたたかく見えた。
「ねえ、お母さん」
僕は言った。
「僕、お母さんの子どもでよかった。」
母はゆっくりと笑った。
その笑顔を見て僕は思った。
もうそれだけで、じゅうぶんだった。




