政略結婚を破棄したペナルティに、元夫の魂を望みます
婚姻の儀が行われた夜、ナルタエム・エルドリスは誓いの言葉の裏で、心の奥に冷たいものを沈めていた。
この結婚は、戦を終わらせるための犠牲。
魔女の血を引く自分と、敵国の将軍が結ばれることで、長きにわたる戦乱がようやく終わる——そのはずだった。
夫となったヴァルク・ラザンは、民から“鉄の英雄”と呼ばれていた。
戦場では神の如き剣さばき、女の前では狼のような眼差し。
粗野だが、最初はそれが魅力にも思えた。
——彼は私を恐れなかった。
——そして、私も彼に希望を見た。
だが一年が過ぎた頃、その希望は裏切りに変わる。
「ナルタエム、悪いが——この結婚は終わりにしたい」
冬の終わり、雪解けの水が城下を流れ始めた夜。
ヴァルクはまるで政務報告でもするかのように、無表情で告げた。
その傍らには、淡い金髪の若い娘。
戦争孤児を養女として迎えたと聞いていたが、いまは彼女の唇にヴァルクの指が触れている。
「……和平は成った。もう“象徴”としての婚姻は不要だ。俺は彼女と生きたい」
ナルタエムは静かにワインを注ぎ、その音を聞いていた。
彼の言葉はすべて、氷の刃のように心に突き刺さる。
「あなたは……平和のために私を娶ったのでは?」
「そうだ。だが、もう戦は終わった。俺にも、俺の幸せを選ぶ権利がある」
その「幸せ」が誰かを踏みにじるものだと、彼は知らないのか。
いや——知っている上で言っている。
ナルタエムは、ゆっくりと微笑んだ。
それは哀しみとも諦めともつかない笑み。
「……わかりました。あなたの自由を、尊重いたします」
「すまない、ナルタエム。本当にすまない。……だが、彼女を責めないでくれ。彼女はただ——俺を愛しただけだ」
愛。
その言葉が、塔の中で凍りつく。
ナルタエムはグラスを傾け、紅い液体の中に映る自分の瞳を見つめた。
その瞳はもう、完全に“人間”の色をしていなかった。
三日後。
ヴァルクと若き娘——名をリーナという——の婚約披露の夜会が開かれた。
戦勝の英雄と新たな恋。人々は拍手と歓声で祝福した。
その最中、突然、会場の中央に黒い蝶が舞い降りた。
一匹、二匹、三匹——やがてそれは群れとなり、天井を覆い尽くす。
貴族たちがざわめき、娘が不安げに振り向く。
そのとき、どこからともなく、低い女の声が響いた。
「——平和を破る者よ。代償を払え」
次の瞬間、蝶たちは一斉に燃え上がり、漆黒の炎となって床に降り注いだ。
悲鳴。
ヴァルクは剣を抜いたが、その刃先は灰になり崩れた。
リーナの頬に炎が触れ、彼女は白い花のように崩れ落ちる。
「リーナ!? やめろ、ナルタエム! やめてくれぇぇ!!!」
叫びも虚しく、彼の胸から紅い光が溢れ出した。
心臓が、魂ごと引き裂かれていく。
——それが、彼女の呪いだった。
「裏切りの誓約」に背いた者は、心臓を代償にして地に堕ちる。
会場が焼け落ちる頃、ヴァルクの瞳だけが、最後まで燃え続けた。
その瞳は苦悶ではなく、奇妙な安堵の色をしていた。
塔の最上階。
ナルタエムは窓辺で、手に残る焦げた指輪を見つめていた。
彼の魂は、すでに小瓶の中。
黒い煙のようなそれが、瓶の内側で蠢き、時折、彼の声で囁く。
「……愛していた。おまえしかいなかった」
「遅いのよ」
ナルタエムは瓶を唇に寄せ、まるで口づけをするように囁いた。
「あなたの魂は、私のもの。——平和のために、永遠に眠ってもらうわ」
瓶を棚に置くと、隣にはいくつもの瓶が並んでいた。
名札には、こう記されている。
『偽善』
『愛の名を騙る男』
『平和を装う裏切り』
塔の奥で、百の瓶が低く唸り声を上げる。
ナルタエムはゆっくりと目を閉じ、静かに微笑んだ。
「……さあ、次は誰が“平和”を語るのかしら」
窓の外では、血のような月が昇っていた。
そして、夜風が囁く。
——彼女は、ただ愛されたかったのだ。
——だが、その願いが叶うのは、いつも“死”のあとだけ。




