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はりぼてプロムナード  作者: 田作たづさ
ミコと猛毒
9/10

If 割れた硝子は尚も美しい 下

「黒川さん、頼まれていた資料できました」

「ありがとうございます。お嬢さんは仕事が速いですね」


 光子はポッと顔を赤らめると、視線を斜め下へと急落下させた。肩まで伸びた髪が大きく揺れて、その表情を隠す。光子は手に持つ紙の束を黒川へと突きつけた。


「仕事が速くたって、中身がどうかはわかりませんよ」

「では、確認します」

 

 黒川は渡された資料をめくって、一枚一枚内容を確認する。その間光子は、伺うような視線をチラチラと向けながら、どうも落ち着かない様子であった。彼女が動くたびに、レースの裾が小さく揺れる。それはエスポワールが見繕ったもので、嫌がる光子に半ば無理矢理着せ続けているメイド服であった。その丈がだんだんと短くなっていることに、光子はまだ気付いていない。


「よくできています」


 光子の表情がパッと笑顔になる。しかし咲いた花はすぐに散って、彼女はプイッと顔を背けてしまった。


「別に黒川さんのために作ったんじゃありませんからねっ! これは私自身のためです」

「えぇ、そうでしたね」


 あの日、自室から脱走した光子の元へと向かう道中のこと。意地の悪い笑顔を顔面に貼り付けたエスポワールは、黒川に自身のアドバイスを強制的に吹き込んだ。それは「光子ちゃんがここに留まる理由を作ってあげれば良いのよ」というもの。黒川は相手にしていなかったが、エスポワールは自分の助言通りに行動しなければ一生粘着を辞めないと言い出した。それでも黒川が無視を続けていたら「じゃあ、殺すわよ?」と言い始めた。なにを、かは分からない。黒川のことか、それとも光子か、それ以外の誰かか。もしくは黒川が自室で飼育している熱帯魚のことかもしれない。ただひとつ明らかなのは、エスポワールが本気だということ。黒川はこれ以上厄介ごとを増やされるのは面倒だと考えて、そのアドバイスを渋々実行に移した。


「お嬢さんが破壊したシャンデリアと花瓶(サクが悪いことは伏せた)を弁償すれば、この屋敷から出してあげます。だから借金を返し終わるまでの間、私の元で秘書として働いてください」


 このような理不尽極まりない取引に光子が応じるわけがない、と黒川は考えていた。なぜなら、本人にそれらを壊した記憶は全く無いから。そして、この屋敷に閉じ込められ続けることには違いないから。しかし意外にも、光子は二つ返事で承諾した。


「それじゃあ、今勤めている会社に退職届を送りたいです。もしまだ有給残ってれば、それも消化して。それとアパートの家賃が勿体無いので、解約して荷物をここに運びたいです」


 光子からの要求はそれだけだった。彼女が置かれている状況を考えれば、それは極めてクレイジーな要望であると黒川は思った。取引を持ちかけた黒川の方が呆気に取られる状況に、光子は不思議そうに首を傾げる。そんなふたりの様子を、エスポワールはニコニコしながら見守っていた。


「あれから、もう半年経つんですか……」

「黒川さん、なんか言いました?」

「なんでもありません」


 光子が黒川の元で働くことになるとは、彼自身想像もしていなかった。しかしそれは黒川にとって、唐突に舞い降りた祝福であった。なぜなら、光子は秘書として極めて優秀であったからだ。中堅のデジタル機器メーカー(ミッドナイトブラック)で揉まれた経験が、ここで役に立っているのかもしれない。もしくは、全てをそつなくこなせるだけかもしれないが。どちらにせよ、多忙故に寝る時間が取れなかった黒川が、毎日5時間以上の睡眠時間を確保できるようになったのは光子のおかげだった。

 

「他にすることありますか? あるなら、やってあげても良いですけど……」


 光子は顔を伏せて、その瞳だけを黒川へと向けた。厚めの前髪越しに、黒川を見つめる。


「それでは、経理の処理をお願いしても良いですか。記載されている金額をこの資料と照らし合わせて、正しければ割印を押してください」

「わかりました。……あ、先に言っときますけど。これを引き受けるのは自分のためであって、黒川さんのためにするんじゃないですからね! 忙しい黒川さんを思ってのことではありませんから! 勘違いしないでくださいねっ!」


 光子は渡された書類の束と印鑑を手に、スタスタと歩いて行く。しかし彼女のために設置されたデスクまで辿り着くと、小さく背後に振り返った。その瞳には若干の不安が滲んでいる。言い過ぎちゃったかな、の顔である。


「気にしていませんよ」


 黒川の言葉に、光子は瞳を大きく見開いて、口をぱくぱくとさせた。彼女は自分の気持ちが見透かされていることに、分かりやすく動揺していた。


「お嬢さんは本当に」

「は、話しかけないでくださいっ!」

 

 光子は滑り込むように椅子に座ると、早速作業を開始した。黒川はその後ろ姿を見つめる。彼女の耳が紅く染まっていることに気付いて、黒川は項垂れた。


 ──本当に、絵に描いたようなツンデレですね。


 光子は日に日にお転婆になっていったが、その最終形態がツンデレであった。ただし、本人には全くその自覚がないらしい。先日エスポワールが指摘したところ、光子は真顔で「ツンデレとはなにか」と聞いていた。エスポワールは光子の様子を面白がって、その問いには一切答えなかったし、周囲にも口止めをした。そのため、光子は未だにツンデレがなにか分かっていなかった。


『足りなくなった部分に不純物が混ざってるからさぁ』

『みーこのニセモノ』


 ふと、黒川の脳裏にサクの言葉が蘇った。あの日から一度たりとも思い出すことの無かったそれは、黒川の心を大きく揺さぶった。


 ──サクの言っていることが事実だとしたら、お嬢さんに混じっている不純物とはどういった存在なんですかね。


 黒川の脳裏に、別のイメージが浮かび上がった。それは高飛車で傲慢な、とある女の顔。黒川は、それを打ち消すように首を振った。


 ──ありえない。もしもあれが混じっているなら、お嬢さんをこんなにも、


「あの、黒川さん」


 光子の声は幾分まじめなものだった。黒川の思考が、一気に現実へと引き戻される。話しかけるなと言った手前気まずいのか、光子はおずおずとした様子で、黒川のデスクまでやって来た。


「どうされましたか。もしかして間違っている箇所がありました?」

「いえ、そうじゃないんですけど……」

「けど?」

「私の借金って、後どれくらい残っていますか」


 その問いは、黒川にとって予想外であった。レンズで隠された瞳が小さく揺れる。黒川は一旦目を閉じると、細く息をはいた。それから再び瞼を上げると、動揺を光子に悟られないように努めながら、いつもの調子で発言をした。


「どうして、気になったんですか」


 ──今更、どうして。取引を持ちかけた際もこの半年間も、一切聞いてこなかったのに。


「なんとなく、です……」


 ──よく考えてみれば、今まで全く聞いてこなかったこと自体が異常だったのかもしれない。しかし、それにしたって……


「まだ、かなり残っていますよ。1000万以上は」


 光子の表情が変わる。それを見た瞬間に、黒川の思考はショートしてしまった。なぜなら、彼女のそれは喜怒哀楽のどれにも分類できない何かであったからだ。人並み以上に積み重ねた人生経験を持ってしても、それに名前を付けるのは不可能だった。


「そうなんですね。ありがとうございます」


 光子は礼を言って軽く頭を下げると、自分のデスクへと戻って行った。何事も無かったかのように作業を再開するが、黒川の方はそうはいかなかった。


 ──お嬢さんのことが、分からない。


 音が出ないように大きく息を吐くと、黒川は再び項垂れた。


 ──彼女には、私が培ってきたやり方が全く通用しない。どうしてかは分からないが、いつだって彼女のペースに巻き込まれてしまう。


 黒川はふらりと立ち上がった。それから、音を消してゆっくりと歩き始める。どうしてそんなことをしているのか、本人でも分からなかった。光子のことを驚かせたいが為のちょっとしたイタズラ心か、それ以外の動機か。彼は彼女の背後までくると、ぴたりと立ち止まった。


 黒川は、光子のことを抱きしめた。


「私に触ってんじゃねー!!」


 ……と、言われる予定であった。自分が触れたら彼女は怒るはずだ、と黒川は考えていた。しかし、彼の予想は大きく外れてしまった。現実の光子は、なにも言わなかった。ただじっと、彼の腕に収まっている。そうなると、気まずいのは黒川の方だった。冷静さを取り戻した黒川は、光子から離れようとする。しかし、彼女が燕尾服の袖をしっかりと掴んでしまって、離れることは叶わなかった。


「なんで、ですか。エスポワールや他の者が触れた際は怒っていたじゃないですか。主人様でさえも」


 光子は、他人に触れられることを極端に嫌がっていた。それは折り紙付きで、エスポワールが光子の髪をセットすることすら拒否するほど(ただしこの時は、エスポワールにお金をあげると言われ、渋々承知していた)だった。光子は誰に対しても分け隔てなく、懐いていない猫のような態度をとった。だから黒川は、光子が主人の怒りを買うのではないかと、いつも肝を冷やしていた。


「──しているんです」


 光子は小さく呟いた。黒川は聞き取れなくて、再度言葉を促す。光子は顔を上げて背後の黒川をじっと見つめると、はっきりと言葉を重ねた。


「黒川さんを、特別扱いしているんです」


 黒川の呼吸が止まる。そして瞬間冷凍されてしまったかのように、彼は全く動くことができなくなった。瞬きさえ、忘れてしまうほどに。


「それとですね、黒川さん。私から提案があって」


 黒川はなおも言葉が出ないが、光子が気にしている様子は無かった。彼女は淡々と、発言を続ける。


「シャンデリアと花瓶代は借金なわけですから、私は利息も支払った方が良いと思うんです」


 次に光子は、恥ずかしそうにはにかんだ。そして決意を強く固めるように、一度深呼吸をした。


「金利はトイチでお願いします」

「……え?」


 新たな驚きが供給されたことによって、黒川は呼吸を取り戻した。トイチとは貸金業で使用される用語で、十日で一割の略である。黒川の戸惑いを知ってか知らずか、光子は小さく笑った。


「ちゃんと分かってますよ。トイチだと利息がどんどん膨れ上がって、借金返せなくなっちゃうんですよね? でも、それが良いなって思うんです」

「……どうしてですか」

「だってそうすれば、黒川さんとずっと一緒に居られるから」


 光子は瞳を細めて微笑んだ。これ以上は存在しないであろう、親愛に満ちた美しい笑み。


「あなたって人は……」


 黒川の口から、自然と溜息が漏れ出る。それには、明らかに苦悩が滲んでいた。光子は先ほどまでとは打って変わり、不安に満ちた表情となって黒川を見つめる。


「お嬢さんに対してではありません。この溜息は、私自身に対してですから」


 光子は困ったように首を傾げる。黒川は光子を安心させるように、その髪を撫でた。


 ──これから先も、私はお嬢さんに振り回され続ける。その気が本人に全く無くても、あなたは猛毒だから。しかし、それでも構わない……それが良いと思ってしまう私がいるんです。本当に、自身自身に嫌気が差しますよ。


「私は、おかしくなってしまった。お嬢さんのせいです。絶対に」


 黒川は堪らなくなって、光子の身体を抱きしめた。強く強く、抱きしめた。絶対にこの子を離してたまるものか、と強く思いながら。


「可愛すぎるんですよ。あなた本当に、いちいち可愛すぎる」


 黒川は光子から離れると、彼女の顔を覗き込んだ。彼の眼差しは優しく、そして愛情に満ちていた。光子の頬が、一瞬で赤く染まった。


「か、可愛いって。おだてても何も出ませんからね! それと、こっち見ないでくださいっ!」


 先ほどまでの素直さはどこに捨ててしまったのか。光子は目線を逸らして、それから顔も背けた。光子は再び、お手本のようなツンデレに戻っていた。


「お嬢さん、こっちを向いてくれませんか。お願いです」

「い、いやですっ! 黒川さんのバカ! バカバカバカ!」

「そんなお嬢さんも魅力的ですけど……」


 黒川は、光子の頬に自身の手のひらを添えた。そして、彼女の背けられた顔を正しい向きへと戻した。光子は更に顔を赤らめると、あたふたと動揺を見せる。光子は必死だった。目線が重なり合わないように瞳を右往左往させながら、小さな文句を散々言っていた。それでも、黒川は光子のことを見つめ続けて、決して離しはしなかった。


 ──きっと、サクの言っていたことは当たっている。この子は光子であって、以前の光子では無い。しかし、それでも……


「……やっと、目を合わせてくれましたね」


 しばらくすると、光子は落ち着きを取り戻した。諦めたのか、それとも別の理由か。不貞腐れたような瞳が向けられ、黒川は小さく笑った。なんにせよ、それは黒川の粘り勝ちであった。


「お嬢さん、機嫌を直していただけませんか」


 光子は、返事をする代わりに小さく唸る。不機嫌な猫のようだ、と黒川は思った。彼は一度瞬きをすると、改めて彼女の瞳をまっすぐに見つめた。


「ね? もう意地悪はしませんから。お願いします」


 ふたりは、互いを見つめ合った。時間の流れを忘れてしまったかのように、いつまでも見つめ合った。黒川の熱にあてられたのか、光子の瞳にゆっくりと、親愛の色が浮かび上がる。


「その瞳を、もう一度見たかったんです」


 ──先ほどは、一瞬で消してしまったので。


 黒川は光子が愛おしくて、彼女の頬を優しく撫でた。光子はくすぐったそうに瞳を細めると、黒川の手指へと甘えるように擦り寄った。光子は落ち着きから一歩遅れて、素直さも取り戻したようだった。


「好きです、黒川さん」

「あなたは本当に──」


 落ちたガラスは、粉々に割れてしまった。破片を集めて造られたそれはニセモノ。いつまで経っても、元の形には戻らない。その術は、何処かへ捨ててしまったから。しかしそれでも、それでもなお、彼女は美しい。

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