If 割れた硝子は尚も美しい 中
「ちょっと! 流石に飲み過ぎよ!」
「むりー。のまなきゃやってられないからー」
「最近ずっとここに居るじゃない」
「しごとはちゃんとしてるー」
「サクったら! ここのお酒、全部飲み尽くす気? あんたどれだけ飲んでも酔えないじゃないの」
「ほっといてよー」
サクは琥珀色の液体が入ったグラスを握りしめると、それを一気に飲み干した。それから、バーのカウンターに突っ伏してしまった。
「おーい? サク? サーク?」
いくら呼びかけて身体を揺すっても、サクが反応を示すことはなかった。
──寝ているわけじゃない。これ、完全に無視を決め込む気ね。
サクはありとあらゆる異物に対して強い耐性を持っていた。そのひとつにアルコールも含まれているから、いくら摂取しても身体に影響が出るはずがない。それでも今のサクは呂律が怪しく、頬や耳は薄紅に染まり、目元はとろんと細められていた。それは100人に聞けば100人とも「酒に酔っている」と答える状態だった。
──そういった演技かしら? それとも、自分自身に酔っているとでも?
サクを呆れた顔で見つめるのは、西洋人形のような美少女。少女は大きなピンク色のリボンがあしらわれた、レースたっぷりのワンピースを身に纏っている。彼女は、サクの隣へと腰掛けた。
「エスポワール様も、なにか飲まれますか?」
白髪混じりの男性が、カウンター越しに静かな声で尋ねた。西洋人形のような少女ことエスポワールは、その瞳を細めた。そして、壁いっぱいに飾られた酒瓶を値踏みするように目で追った。
「そうねぇ。じゃあ、サクと一緒のやつで」
「かしこまりました」
「あ、やっぱりファジーネーブルでも良いかしら? 最近の若くて可愛い子は、みんなそれを飲むんですって。そう光子ちゃんに聞いたの」
「えぇ、構いませんとも」
ここでマスター兼バーテンダーを務める男性はもともと、サクやエスポワールと同じような仕事を行っていた。ありていに言うと、人を殺すことを生業としていた。その当時は順風満帆と評価できる充実した日々を過ごしていたが、とある暗殺任務において、圧倒的な実力不足と才能の無さを痛感させられる。その道から足を洗うことを、一切迷うことなく独断にて決断した。
しかし、殉職以外で引退などあり得ないのがこの世界。雇用主と揉めに揉めたが、最終的に命だけは取られずに済んだ。彼の暗殺対象であって彼に引退を決断させた、エスポワールの気まぐれによって。その後はこの屋敷内で永らく使われていなかった一室を与えられ、自身のDIYでバーへと改造。それから40年以上、この閉ざされた箱庭でマスター兼バーテンダーをしている。
「エスポワール様、お待たせいたしました」
「ありがとう」
グラスの中で揺らめくオレンジイエローの液体を、エスポワールはうっとりと見つめた。それから意を決したようにひとくち飲んで、瞳の熱を全て手放した。「これはジュースね」と小さく添えた。
「お気に召しませんでしたか?」
「いいえ、たまには良いと思う」
「それはなによりです」
一旦話が区切れると、マスターは奥の部屋へと消えてしまった。エスポワールはひとり、指の中にあるグラスをゆらゆらと回した。時折、若さについて考えたりもした。
それから少しの間を置いて、マスターは戻って来た。彼はその手に持つブランケットを、サクの身体へと優しくかけた。
「あら、本当に寝てるじゃない。さっきまでは狸寝入りだったのに」
「2週間以上まともに眠れていないと、そう仰っていました」
「あらあら……」
エスポワールは、うつ伏せで小さな寝息を立てるサクを見つめた。彼女はサクが赤子の頃から知っていたが、ここまで精神状態が乱れた姿を見るのは初めてだった。
──やっぱり、原因は光子ちゃんよね。でも、私にはサクの言っていることがさっぱり理解できない。どれだけ注意深く彼女のことを観察したって、同じ結論には至らなかったから。サクの意見は現実的じゃない。だって今の光子ちゃんが、
「マスター、私も一杯いただけますか。ウイスキーをオンザロックで」
「かしこまりました。黒川様」
「珍しいじゃない。あんたがここに来るなんて」
黒川は、エスポワールから3つほど離れたカウンター席に腰掛けた。
「飲まなければやってられませんから」
「あらあら……」
サクと同様の発言をした黒川だが、その表情には確かに疲労の色が滲んでいた。心なしか縁の無い眼鏡は曇り、燕尾服も乱れているように見える。
「光子ちゃん、良い子にしてくれないの?」
「えぇ、そうですね。日に日にお転婆になっています。今日だけで8回、脱走を試みました」
「日に日に、ね……」
黒川は、出されたグラスをじっと見つめた。歪みきった自身が映っていることに気付くと、乾いた笑いと溜息が同時に漏れ出る。手に持つと、氷がグラスにぶつかり、風鈴のような美しい音を奏でた。
「ボスはなんて?」
「彼の方は、あれはあれで気に入っているようです。見ていて飽きないと」
──ボスからしてみれば、愛猫のようなものなのでしょうね。きっと。
「あんなにビビリな性格だったのに、随分と変わったのね。記憶を失ったから、よね?」
「同意見です。あれが抑圧されていない、本来のお嬢さんなんでしょう」
光子はあの日、自分で自分に拳銃を突きつけた日から、記憶の一部を失ってしまった。家族の記憶、そして美子に関わる全ての記憶を。しかし当の本人は忘れていることすら忘れている様子で、喪失感は微塵も感じていないようだった。
そんな訳だから、光子が記憶を取り戻す気配は一切無かった。それどころか、自分が財閥の御令嬢だと聞かされても「そんなわけない」と笑い飛ばす始末。ただし、自身が中堅のデジタル機器メーカー勤務であることだけは明確に覚えているようだった。だから出社をするためにと、何度も屋敷からの脱走を試みていた。
「これから、お嬢さんをどう扱えば良いのでしょう……」
黒川は大きな溜息をついて項垂れた。それは普段の冷静沈着で自信に満ちた彼とはかけ離れた姿であった。
──珍しい。人の心を弄ぶことに長けた黒川が、光子ちゃんに弄ばれてる。彼女にその気は無いんでしょうけど。なんだか、愉快極まれりだわ。
エスポワールはニタニタと口角を上げると、黒川の様子をその瞳に焼き付ける。黒川が顔を上げるまでの数分間、その行為を欠かさずに続けた。
「そうねえ。ボスが今の光子ちゃんを気に入っているのであれば、下手な矯正は出来ないし。記憶が戻れば、扱いやすくなりそうだけど」
「思い出すなんて、絶対にあり得ないよ」
サクは、いつの間にか起き上がっていた。その肩にブランケットを羽織っている。エスポワールと黒川は、サクへと向き直った。先ほどまでサクが纏っていた危うい雰囲気は、今は完全に消え失せていた。
「あれは、みーこじゃないから」
また始まった、とエスポワールは思った。だから、彼女は牽制の意味を込めて露骨に溜息をついた。それはサクから何度も聞かされた、エスポワールには理解できない彼の持論であった。エスポワールはサクの話を軽くあしらうつもりでいたが、黒川は興味を示して話の続きを求めた。現実主義者である黒川がサクの話に食いついたことが意外で、エスポワールは目を大きく開いた。
「みーこの部分もあるけど、足りなくなった部分に不純物が混ざってるからさぁ。あれはサクの好きなみーこじゃない。みーこのニセモノ」
「人格形成に関わる重大な記憶を喪失したから、性格も変わったんじゃないの?」
「みーこのあれは先天的であって、後天的に身に付けたモノじゃないから」
「興味深い、ですね」
エスポワールは頑ななサクの様子に呆れていたが、黒川の表情は真剣そのものだった。感心したように何度か頷くと「もっと」と口を開く。しかし、黒川はその先の言葉を述べなかった。代わりに、自身の背後にある何の変哲もない黒い壁を凝視した。サクとエスポワールも、同様の壁をじっと見つめる。彼らは壁を見ているようで、そうではなかった。正確に言えば、壁のずっと向こう側にいる彼女の影を見つめていた。
「これで、9回目ね」
エスポワールの発言はただの事実に他ならなかったが、黒川にそれは大きくのしかかった。黒川は小さく息を吐くと、どうにか重い腰を上げた。若干のふらつきを見せる彼は、どんよりとした何かを纏わりつかせている。エスポワールは黒川に声をかけた。その声は真剣そのもので、黒川への慈愛と心配に満ちていた。
「ねえ、私が捕獲しに行こうか?」
「結構です」
「そう? ならひとつ、私からアドバイスがあるわよ」
「……なんでしょう」
黒川はエスポワールを煩わしく思ったが、それでも立ち止まった。現在の思考をひと言で表すなら、それは「藁にもすがる思い」であったからだ。しかし振り返ってエスポワールの顔を見るや否や、黒川は出口へと向かって再び歩き出した。
「ちょっと! ありがたーいアドバイス聞いていきなさいよ!」
「不必要だと判断しました」
「なんでそうなるのよ!」
「僅かでも期待をした私が馬鹿でした」
「あ、もしかして顔に出てた?」
エスポワールはクスクスと笑うと、大股で歩く黒川の背を追った。すぐに追いついて、黒川の周囲を何度も周った。レースのスカートをはためかせて、至極楽しそうにくるくると不審な徘徊をした。
「じゃあ、私も光子ちゃんの所へ一緒に行くっ!」
「着いてこないでください。邪魔です」
「邪魔ってなによー! 先輩に向かって邪魔って」
「邪魔です」
「もう絶対絶対絶対着いて行くからっ! どこまでだって着いていく! もう一生粘着してやるもん!」
次第に遠ざかるふたりの声を聞きながら、サクは未だに壁を見つめていた。未練がましく、遠くにいる光子を眺めていた。
「さすがですね」
マスターは冷えた水を曇りひとつないグラスに注ぐと、サクの前へと差し出した。サクは視線を外さずに、マスターへと礼を言った。
「目印が付いてるから、分かりやすいんだー。首元のチョーカーに、ちーさな鈴が付いてるから。それが道しるべだって、本人は気付いてないみたいだけどねぇ。だからマスターでも、耳を澄ませばきっと聞こえるよー」
マスターは目を閉じて耳を澄ませた。加えて、耳元に手のひらをかざしてみる。しかし、鈴の音は全く聞こえなかった。
「老ぼれの耳には、難しいみたいですね」
「そっかー」
サクは立ち上がると、壁際までゆっくりと歩いて行った。それから、指先でスーっと壁紙を撫でた。
「エスポワール様達と、一緒に行かれないんですか」
サクは小さく頷いた。そこで初めて、彼は彼女から視線を外す。肩にかけていたブランケットが床に落ちた。サクは口元に、うっすらと笑みを浮かべる。マスターを見つめるその瞳からは、一切の光が消えていた。
「良いんだー。だって、ニセモノは殺したくなっちゃうからー」
マスターは何も言わなかった。否定も肯定もしなければ、快・不快も表明しない。ただ植物のように、その場に立ち尽くしていた。それが40年以上この箱庭でバーを続けてきた、マスターの処世術であった。
サクの目線がゆっくりと、水が入ったガラスへ移った。結露をしたそれは、まるで泣いているかのようで。サクの瞳に、憂いと悲しみと喪失が、少しずつ混じりながら浮かび上がった。
「あ、マスターごめん。タオルケット落としちゃったー」
「良いんですよ。気にしないでください」
「ありがとー」
サクはブランケットを拾い上げると、その柔らかい布地を撫でた。埃は付着していなかった。
「なにか飲まれますか?」
「じゃーねー、りんごジュースってある?」
「えぇ、ございますよ」
「じゃあ、それでー。みーこが好きだったんだー」
サクはカウンターの幾分高い丸椅子に座り直すと、光子のことを考えた。
あの冬の日。月は出ていなかった。そのせいか、いつにも増して寒いと感じた。白い息を吐きながら、光子のことだけを見つめていた。ボロボロと苦しそうに涙を流す彼女を見て、可愛いと思った。好きだ、と思った。次の瞬間には、この子は自分の運命だ、とサクは確信した。
「お待たせいたしました」
「ありがとー」
サクは、混濁した液体に口を付けた。彼自身は甘いものが好きではなかったが、光子の好物だと思えばそれは特別なものに感じられた。
──仕事の休憩時間に、紙パックの飲んでたなー。たまにご褒美として、高級なの買ってたっけ。よく剥いて食べたりもしてたなぁ。なんで、りんごなんだろー。りんごのどこが好きだったんだろう。なんで梨は好きじゃないんだろー。みーこは、どこに行っちゃったんだろう。
「海外でも行こっかなぁ」
サクは小さく呟くと、すらりとした腕を上げて大きく伸びをした。腕を飾るアクセサリーが重なり合って、シャラシャラと音を出す。口に出してみたら、それは意外と良案に思えた。同時に心も軽くなった気がした。転勤願を明日の朝イチで出して最短で異動、とサクは思案した。
──もう一生、ここには戻らないようにしよっと。




