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はりぼてプロムナード  作者: 田作たづさ
ミコと猛毒
6/10

If 幸福な夢は醒めることを知らない 下

 玄関の鍵を開ける音が聞こえて、光子はパッと顔を上げた。トマトを洗う手を止め、まな板の上に置く。手をパタパタと振って水滴を払い飛ばすと、エプロンをソファーへと放って玄関へと駆ける。扉が開け放たれた瞬間、光子は愛おしい人に飛びついた。


「おかえりっ! サク君!」


 サクは特段、驚きはしなかった。難なく光子の身体を支えて、後ろ手に鍵を閉めた。そして、彼女の唇に触れるだけのキスをした。


「みーこ、ただいま」


 サクは光子を抱き上げると、板張りの廊下を進んだ。光子はサクへと甘えるように、自身の頬を寄せる。途中、ほのかに漂うスパイスの香りに気づいて、サクは声を上げた。


「もしかしてカレー作ったのー?」

「うん、そーなの!」

「たいちょーは? だいじょーぶ?」

「大丈夫だよ。なんだか今日は調子が良いみたい」

「ふーん、そっかそっか」


 リビングへ到着すると、黒を基調としたダイニングテーブルには既に、皿に盛られたカレーライスが用意されていた。「後はサラダなの!」と言って、光子は楽しそうに足をバタバタとさせた。「暴れないでー」とサクは言って、彼女の身体をそっと床に降ろした。光子は再びエプロンを着けると、キッチンでトマトを切り始めた。


「今日のお仕事はどうだった?」

「うんー。いつもどーり」


 サクは、光子を背後から抱きしめた。料理をする光子にとってそれは邪魔でしかなかったが、彼女は苦言を呈さなかった。むしろ、背後のサクに対して笑顔を向けた。


「どんなことしたの?」

「んー、陣取りゲームみたいなぁ」

「ん? ゲームしてたの?」

「まあ、そんな感じー。それと、おそーじかなぁ」

「掃除? 地域清掃とか?」

「まあ、そんな感じー」

「すごいね! 実は私もね、家の掃除したんだよ! ホコリひとつ残ってないはず!」

「偉いねー」


 誤魔化された数箇所に関して、光子は追求することをしなかった。ただ彼女は、愛おしい人と共に過ごせる時間を純粋に楽しんでいた。


 光子はトマトを全て切り終えると、レタスやきゅうりと共にガラスの器へと盛り付けた。そんな光子の様子を、サクは注意深く観察していた。


「カレーのお肉、牛肉にしたよ。肩ロース肉。サク君、カレーには牛肉って言ってたよね?」

「そーだねー」

「あと、にんじんは嫌いって言ってたから──」


 光子から、一瞬で全ての表情が抜け落ちた。彼女の心拍数はどんどん上がり、どす黒いヘドロのような何かが溢れそうになる。脳内にノイズが走った。


 「カレーには牛肉だから。美味しい牛肉。後、にんじん入れたら許さないんだから。わかった?」と、言いつけた**の顔が浮かぶ。それは随分とじっとりとした、それでいて子どもっぽい無垢な瞳だった。


 ──あれ、わたし、なんで。このひとは、サク君じゃ、ない。あなたは、


「みーこ」


 サクは自身の青白っぽい手のひらを、光子の目元に重ねた。体温の低いそれで彼女の視界を完全に遮り、光子の耳元へと顔を寄せる。


「落ち着いて、みーこ。これは幻。ただの、悪い夢だよ」

「ゆ、め……?」

「そう、だからー、ゆーっくり深呼吸をして」

「で、も……」

「お願い」


 光子は、それ以上反論しなかった。サクに言われた通り、素直に深呼吸を始める。光子は頼まれると断れない性質であった。それは、どんなに特殊な状況においても変わらない。


 次第に、光子の身体から強張りは無くなった。どす黒いなにかもどこかへと霧散して、完全に消え失せてしまった。彼女はリラックスして、その体重を全てサクへと預けていた。


「みーこ」

「……んっ」

「寝て起きたら、ぜーんぶ元通りになってる。悪い夢は、すべて消えてる。しあわせな日常が、みーこの望んだ日常だけが、そこにはあるから」

「うん……」

「だから、このまま寝よーね。みーこ」

「え、でも……」


 暗い視界の中、光子は微睡むような心地よさを感じていた。それでも、今すぐに寝れるとは到底思えなかった。サクはスッと目を細めると、胸の辺りまで伸びた彼女の髪を優しく撫でた。


「だいじょーぶ。サクがいつもの合図をしたら、みーこは眠る」


 光子は、いつもの合図というのが何を指しているのか分からなかった。それでも、口からは無意識に言葉が漏れ出ていた。


「……うん、わかった」

「やっぱり良いね、みーこは」


 サクは光子を抱き寄せる力を少しだけ強めると、彼女の耳元で指を鳴らした。すると、光子の全身からガクッと力が抜けて、彼女は深い眠りへと落ちてしまった。


「さてとー」


 サクは呟いて、力の抜けた光子を両腕で抱き上げた。寝室まで進むと、大きなベットに彼女の身体を下ろして、自身は縁に腰掛けた。


「やっぱー、サクがやると半月くらいしか保たないねー。ごめんね、みーこ」


 ──俺は殺しのほーが得意なんだ。


 血の気が引いた光子の頬を、サクは優しくつついた。ほのかな弾力を感じて、彼は嬉しそうに瞳を細めた。


 ──栄養状態は、今のところ大丈夫そーだね。


「でも今はー、出来るだけお薬使いたくないしー。だからって、他の人に任せるのはやだなぁ。変な気を起こされたら困るー」


 サクは「うー」と小さく唸った。その手の専門家は知り合いにいるが、なにか余計なことまでされそうで、サクは頼む気になれなかった。そしてなによりも、せっかく手に入れた光子を、出来るだけ他人に見せたくはなかった。


「みーこって、カレーに対してすごーく執着してるねー。これで何回目なんだろー」


 サクは白い天井をぼんやりと眺めて、指折りで数え始めた。


 光子は、度々カレーを作った。牛肉が入った、そしてにんじんが入っていないカレーを。その度に、サクはやり直しを強いられた。しかも、百発百中で。光子にとって、カレーがトリガーになることは明らかだった。


 ──もうあの女はいないのに。未だに影を追っているんだね。やっぱり、妬けちゃう。


「そのうち完全に思い出せなくなると思うけどー。そーしたら、カレーだってサクのために作ってくれるようになってさぁ」


 サクは光子の左手を取ると、自分とお揃いの飾りをじっと見つめた。それからサクはベットに寝転がり、隙間が無いように光子へと密着した。自身の片腕を光子の首の下から滑り込ませると、まるで抱き枕かのように、彼女を両腕で抱きしめた。


「……でもねー。サクは、どんなみーこでも好きなんだー。自分のこと責めて責めて、精神滅茶苦茶になってるみーこのことも好き。あれはあれで捨てがたいなー。かわいくてかわいくて、いとおしいから。どーしよっかなぁ」


 サクは光子に頬擦りをした。彼女の髪に何度もキスを落とすと、抱きしめる腕の強さを強めた。それから、名残惜しそうに光子から身体を離した。


「……まあ、どっちにしろ今は我慢だけどねぇ。ストレスは良くないって、そう聞いちゃったんだー」


 光子の閉じた瞳から、涙がこぼれ落ちる。線となって流れるそれを、サクは指で優しく拭った。それから、光子へと覆い被さって、自分の下で小さな寝息を立てる彼女を見つめた。耳に掛けていた白銀の髪が、重力に従ってゆっくりと落ちる。サクの瞳から柔らかな光が消えた。その様子は、普段彼が纏っている雰囲気とは相容れないものであった。


「じゃあ、そろそろ始めようか。起きて、光子」


 サクが指をパチンッと鳴らすと、光子の瞼がゆっくりと開いた。とろんとした瞳を、目の前のサクへと向ける。


「わかる? 俺の名前」

「……?」

「サク、だよ」

「……さ、く、くん」

「そうそう。良い子だね」


 サクはまるで子どもをあやすかのように、光子の頭を優しく撫でた。光子のぼんやりとした瞳が、気持ち良さそうに細められた。


「これから、俺たちが結婚するまでの話をするよ。光子がちゃんと思い出せるように。分かった?」

「……う、ん」

「じゃあまずは、ふたりの出会いから。あれはよく晴れた日だったね。季節は春、暖かい陽気だった。街で光子が俺の前を歩いていて、カバンから電車の定期を落として。それを俺が拾ってあげて。そうしたら光子がお礼をしたいからってカフェに──」


 光子は、サクの語りにうっとりと耳を傾けていた。まるで、おとぎ話を聞いている少女のように。


 彼女が目を覚ますことはない。その術は、既に取り上げられてしまったから。幸福な夢は醒めることを知らない。いつまでも、いつまでも。

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