If 幸福な夢は醒めることを知らない 下
玄関の鍵を開ける音が聞こえて、光子はパッと顔を上げた。トマトを洗う手を止め、まな板の上に置く。手をパタパタと振って水滴を払い飛ばすと、エプロンをソファーへと放って玄関へと駆ける。扉が開け放たれた瞬間、光子は愛おしい人に飛びついた。
「おかえりっ! サク君!」
サクは特段、驚きはしなかった。難なく光子の身体を支えて、後ろ手に鍵を閉めた。そして、彼女の唇に触れるだけのキスをした。
「みーこ、ただいま」
サクは光子を抱き上げると、板張りの廊下を進んだ。光子はサクへと甘えるように、自身の頬を寄せる。途中、ほのかに漂うスパイスの香りに気づいて、サクは声を上げた。
「もしかしてカレー作ったのー?」
「うん、そーなの!」
「たいちょーは? だいじょーぶ?」
「大丈夫だよ。なんだか今日は調子が良いみたい」
「ふーん、そっかそっか」
リビングへ到着すると、黒を基調としたダイニングテーブルには既に、皿に盛られたカレーライスが用意されていた。「後はサラダなの!」と言って、光子は楽しそうに足をバタバタとさせた。「暴れないでー」とサクは言って、彼女の身体をそっと床に降ろした。光子は再びエプロンを着けると、キッチンでトマトを切り始めた。
「今日のお仕事はどうだった?」
「うんー。いつもどーり」
サクは、光子を背後から抱きしめた。料理をする光子にとってそれは邪魔でしかなかったが、彼女は苦言を呈さなかった。むしろ、背後のサクに対して笑顔を向けた。
「どんなことしたの?」
「んー、陣取りゲームみたいなぁ」
「ん? ゲームしてたの?」
「まあ、そんな感じー。それと、おそーじかなぁ」
「掃除? 地域清掃とか?」
「まあ、そんな感じー」
「すごいね! 実は私もね、家の掃除したんだよ! ホコリひとつ残ってないはず!」
「偉いねー」
誤魔化された数箇所に関して、光子は追求することをしなかった。ただ彼女は、愛おしい人と共に過ごせる時間を純粋に楽しんでいた。
光子はトマトを全て切り終えると、レタスやきゅうりと共にガラスの器へと盛り付けた。そんな光子の様子を、サクは注意深く観察していた。
「カレーのお肉、牛肉にしたよ。肩ロース肉。サク君、カレーには牛肉って言ってたよね?」
「そーだねー」
「あと、にんじんは嫌いって言ってたから──」
光子から、一瞬で全ての表情が抜け落ちた。彼女の心拍数はどんどん上がり、どす黒いヘドロのような何かが溢れそうになる。脳内にノイズが走った。
「カレーには牛肉だから。美味しい牛肉。後、にんじん入れたら許さないんだから。わかった?」と、言いつけた**の顔が浮かぶ。それは随分とじっとりとした、それでいて子どもっぽい無垢な瞳だった。
──あれ、わたし、なんで。このひとは、サク君じゃ、ない。あなたは、
「みーこ」
サクは自身の青白っぽい手のひらを、光子の目元に重ねた。体温の低いそれで彼女の視界を完全に遮り、光子の耳元へと顔を寄せる。
「落ち着いて、みーこ。これは幻。ただの、悪い夢だよ」
「ゆ、め……?」
「そう、だからー、ゆーっくり深呼吸をして」
「で、も……」
「お願い」
光子は、それ以上反論しなかった。サクに言われた通り、素直に深呼吸を始める。光子は頼まれると断れない性質であった。それは、どんなに特殊な状況においても変わらない。
次第に、光子の身体から強張りは無くなった。どす黒いなにかもどこかへと霧散して、完全に消え失せてしまった。彼女はリラックスして、その体重を全てサクへと預けていた。
「みーこ」
「……んっ」
「寝て起きたら、ぜーんぶ元通りになってる。悪い夢は、すべて消えてる。しあわせな日常が、みーこの望んだ日常だけが、そこにはあるから」
「うん……」
「だから、このまま寝よーね。みーこ」
「え、でも……」
暗い視界の中、光子は微睡むような心地よさを感じていた。それでも、今すぐに寝れるとは到底思えなかった。サクはスッと目を細めると、胸の辺りまで伸びた彼女の髪を優しく撫でた。
「だいじょーぶ。サクがいつもの合図をしたら、みーこは眠る」
光子は、いつもの合図というのが何を指しているのか分からなかった。それでも、口からは無意識に言葉が漏れ出ていた。
「……うん、わかった」
「やっぱり良いね、みーこは」
サクは光子を抱き寄せる力を少しだけ強めると、彼女の耳元で指を鳴らした。すると、光子の全身からガクッと力が抜けて、彼女は深い眠りへと落ちてしまった。
「さてとー」
サクは呟いて、力の抜けた光子を両腕で抱き上げた。寝室まで進むと、大きなベットに彼女の身体を下ろして、自身は縁に腰掛けた。
「やっぱー、サクがやると半月くらいしか保たないねー。ごめんね、みーこ」
──俺は殺しのほーが得意なんだ。
血の気が引いた光子の頬を、サクは優しくつついた。ほのかな弾力を感じて、彼は嬉しそうに瞳を細めた。
──栄養状態は、今のところ大丈夫そーだね。
「でも今はー、出来るだけお薬使いたくないしー。だからって、他の人に任せるのはやだなぁ。変な気を起こされたら困るー」
サクは「うー」と小さく唸った。その手の専門家は知り合いにいるが、なにか余計なことまでされそうで、サクは頼む気になれなかった。そしてなによりも、せっかく手に入れた光子を、出来るだけ他人に見せたくはなかった。
「みーこって、カレーに対してすごーく執着してるねー。これで何回目なんだろー」
サクは白い天井をぼんやりと眺めて、指折りで数え始めた。
光子は、度々カレーを作った。牛肉が入った、そしてにんじんが入っていないカレーを。その度に、サクはやり直しを強いられた。しかも、百発百中で。光子にとって、カレーがトリガーになることは明らかだった。
──もうあの女はいないのに。未だに影を追っているんだね。やっぱり、妬けちゃう。
「そのうち完全に思い出せなくなると思うけどー。そーしたら、カレーだってサクのために作ってくれるようになってさぁ」
サクは光子の左手を取ると、自分とお揃いの飾りをじっと見つめた。それからサクはベットに寝転がり、隙間が無いように光子へと密着した。自身の片腕を光子の首の下から滑り込ませると、まるで抱き枕かのように、彼女を両腕で抱きしめた。
「……でもねー。サクは、どんなみーこでも好きなんだー。自分のこと責めて責めて、精神滅茶苦茶になってるみーこのことも好き。あれはあれで捨てがたいなー。かわいくてかわいくて、いとおしいから。どーしよっかなぁ」
サクは光子に頬擦りをした。彼女の髪に何度もキスを落とすと、抱きしめる腕の強さを強めた。それから、名残惜しそうに光子から身体を離した。
「……まあ、どっちにしろ今は我慢だけどねぇ。ストレスは良くないって、そう聞いちゃったんだー」
光子の閉じた瞳から、涙がこぼれ落ちる。線となって流れるそれを、サクは指で優しく拭った。それから、光子へと覆い被さって、自分の下で小さな寝息を立てる彼女を見つめた。耳に掛けていた白銀の髪が、重力に従ってゆっくりと落ちる。サクの瞳から柔らかな光が消えた。その様子は、普段彼が纏っている雰囲気とは相容れないものであった。
「じゃあ、そろそろ始めようか。起きて、光子」
サクが指をパチンッと鳴らすと、光子の瞼がゆっくりと開いた。とろんとした瞳を、目の前のサクへと向ける。
「わかる? 俺の名前」
「……?」
「サク、だよ」
「……さ、く、くん」
「そうそう。良い子だね」
サクはまるで子どもをあやすかのように、光子の頭を優しく撫でた。光子のぼんやりとした瞳が、気持ち良さそうに細められた。
「これから、俺たちが結婚するまでの話をするよ。光子がちゃんと思い出せるように。分かった?」
「……う、ん」
「じゃあまずは、ふたりの出会いから。あれはよく晴れた日だったね。季節は春、暖かい陽気だった。街で光子が俺の前を歩いていて、カバンから電車の定期を落として。それを俺が拾ってあげて。そうしたら光子がお礼をしたいからってカフェに──」
光子は、サクの語りにうっとりと耳を傾けていた。まるで、おとぎ話を聞いている少女のように。
彼女が目を覚ますことはない。その術は、既に取り上げられてしまったから。幸福な夢は醒めることを知らない。いつまでも、いつまでも。




