If 幸福な夢は醒めることを知らない 上
エンディング分岐
「これは私のためです。生きていけないって思っただけです。もしここで私が美子さんを殺してしまったら、私は普通の生活には戻れない。絶対戻れないし、戻ってもいけない。罪に問われなくても、彼女を殺した事実は一生消えないから。だったら、ここから生きて出られたとしても、その先は地獄じゃないですか」
自身のこめかみへと向けた拳銃。その引き金へ掛けた指先に力を込める。少しずつ少しずつ、その力を強めていく。それは美子に拳銃を向けていた時よりも、随分と簡単に出来てしまった。
光子は、ゆっくりと瞳を閉じた。
──さようなら。
それは小さな、小さな波だった。
震えた鎖から伝わる、別の波動。
手首が引っ張られているような、そんな気がした。それはそれは弱い力で。
光子は再び瞼を上げた。涙で歪む視界の先。美子が、光子を見つめていた。しっかりとした、それでいて随分と澄んだ瞳であった。美子は、小さく口を開いた。もちろん声はない。それでも、光子にはなんと言いたいのかはっきりと分かった。分かって、しまった。お願いを、されてしまった。「だからって、美子さんを殺すことなんて出来ません」と呟くと、美子はわずかに瞳を細めた。
──だったら、私たちが迎えるエンディングはひとつだけじゃないか。ゲームオーバー。このまま、ふたりとも毒で死ぬ。
──でも、きっと、それで良いのかもしれない。
「美子さん……」
光子は、全ての強張りを手放した。左手で握り締めていた拳銃を床に置くと、美子の隣にばさりと倒れた。やっと重い荷物を手放せたかのように、光子の表情は穏やかだった。
「美子さん……」
光子は、痺れて震える指先を美子へと伸ばした。優しく優しく、美子の手に触れる。爪がなく指が欠損した痛々しいそれでも、やはり人並みに温かかった。
──最期の時間くらい友人と過ごしたいって、そう思ったんです。色々あった人生だけど、もうどうだって良いです。やっぱり、美子さんと過ごせた時間が、人生の中で一番楽しかった。
霞む視界の中、光子は美子だけを見つめていた。美子の口から溢れ出る血液は見て見ぬふりをした。光子自身から溢れ出る涙も、気付かないふりをした。美子の胸が上下するのに、ただ集中をした。それが次第にゆっくりとなって、完全に止まってしまうまで。
──これが、私達の選んだ、私達らしいエンディング。
全てを見届けると、光子の意識は闇へと落ちていった。
──美子さん、私もすぐに。だから、きっと、
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「ありきたりだな」
なにかを諦めたかのような声音。彼は、腰掛けていたソファーから立ち上がった。
「黒川、その女の首を古狸に届けろ。久々に孫娘に会えば、少しは童心を取り戻すだろ」
「承知いたしました。主人様」
彼は、冷めた瞳で美子を見やった。それから、興味が完全に失せたかのように、扉へと向かって歩き始めた。
燕尾服の男性こと黒川は、最敬礼で彼を見送った。その背中が完全に見えなくなっても、顔を上げなかった。
「やったー」
その声は、ひりついた部屋の空気とはミスマッチだった。黒川は、自身の眉間を指で抑えると、大きくため息をついた。
「サク、あなたって人は……」
「みーこのこと、サクが貰って良いよね?」
「……どうぞ」
サクは光子に駆け寄ると、床に膝をつき、彼女を腕の中へと抱き寄せた。まだ僅かに呼吸があることを確認すると、目を細めて嬉しそうに微笑む。彼女の口に解毒薬を注ぎ込んだ。
──この程度の毒でしにそーになるなんて、ほんとーにみーこは弱いね。やっぱり、サクが守ってあげないとだめだ。
「光子ちゃん生きてた?」
「いきてたー」
「もしかしてサク、光子ちゃんに飲ませる毒の量減らした?」
「うーん、どうだろー」
「もう! サクったら!」
サクは悪びれる様子無く無邪気に笑って見せた。それから、光子の乱れた髪に触れた。
──今でもじゅーぶん可愛いけど。この髪飾りは、もっと髪が伸びた時に似合いそーだね。
サクは赤黒いドレスを身に纏った光子を抱えて立ち上がった。ガシャンッ、と鋭い金属音が鳴り響く。いっぱいに伸ばされた鎖は、光子の手首を懸命に引っ張っていた。その様子はまるで、美子が光子を手離さないように、悪あがきをしているようだった。
──やっぱり、この女きらい。みーこはお前のじゃないよ。
「あらあら、ちょっと待ってね。今、光子ちゃんの枷を外すから」
西洋人形のように美しい少女は、懐から小さな鍵を取り出すと、手早く光子の枷を外した。彼女の手首は、紫色に痛々しく変色していた。もうしばらく着けていたら、血が滲んでいたことだろう。
「光子ちゃんったら可哀想。もー、今回は使わなくても良かったでしょうに。やっぱり、あんたもこの枷も悪趣味ねっ!」
「褒め言葉として受け取っておきます。エスポワール」
「ちょっと! さんって付けなさいよ! 私の方が年上でしょ」
「えぇ、善処します」
西洋人形のような少女(?)ことエスポワールの苦言を、黒川は軽くかわした。
黒川にとって、枷と鎖は舞台装置のひとつであって、ゲームを盛り上げるための小道具だった。光子たちの状況が特殊だったために、今回活躍することはなかったが。どちらか一方しか生き残れない状況、もっと端的にいえば殺し合いにおいて、この小道具は重要な意味を持っていた。相手との間合いを限定する。それだけのことで、この茶番を「見るに耐えないもの」から「かろうじて及第点」へと昇華させた。
「解毒薬なんて注射されないのにね。意地悪腹黒メガネよ。ねー? サク!」
「ねー」
サクは、エスポワールの意見にひとまずの同意を示した。それから改めて、光子の顔を見つめた。涙の跡がべったりとあったが、それは随分と穏やかな寝顔だった。まるで、この世界に全くの未練がないかのように。サクは冷ややかに笑った。
──だめだよ、みーこ。そんな顔しちゃ。ぜんぶぜーんぶ、壊したくなっちゃう。自分だけが生き残ったと知ったら、みーこはどんな顔するのかなぁ? すごく、たのしみ。
サクは、片方の腕で光子のだらりとした身体を支えた。それから、空いた手指で床に落ちていた拳銃を握る。既に冷たくなった彼女へと銃口を向け、躊躇いなく銃弾を放った。「出来るだけ形は保ってくださいね」と黒川は言う。サクは何も聞こえていないふりをして、弾丸を装填をした。そして、ただ撃ち続けた。繰り返し、何度も何度も。
それはもう二度と美子が生き返らないように、呪いをかけているかのようであった。




