ようこそ地獄へ 結
「お嬢さん、やはりあなたはお優しいですね。友人のために自らの命を差し出すなんて」
──違う。違う。わたしは、わたしは、
「同じような境遇で育ったのに、どうしてここまで違った人格が形成されたのか。私は純粋に興味があるんですよ。ねえ、教えていただけませんか。神之蔵財閥御令嬢の、神之蔵光子さん」
──だめだ。泣くな。泣いちゃだめ。泣いたらだめだってば。泣いちゃだめなのに。どうして、どうして。今ここで心が折れるわけにはいかないのに。
「その女は悪人ですよ。自分の欲のために、幾人もの命を闇へと葬った。本当です。誓って、嘘偽りはありません。お嬢さんは、そんな人間のために命を捨てるのですか」
──わたしは。わたしはただ、
「……違うんです」
ぼろぼろと涙を流した光子の声は弱々しかった。それでも、その響きは部屋中に広がった。
「これは私のためです。生きていけないって思っただけです。もしここで私が美子さんを殺してしまったら、私は普通の生活には戻れない。絶対戻れないし、戻ってもいけない。罪に問われなくても、彼女を殺した事実は一生消えないから。だったら、ここから生きて出られたとしても、その先は地獄じゃないですか」
引き金へと掛けた指先に力を込める。少しずつ少しずつ、その力を強めていく。それは美子に拳銃を向けていた時よりも、随分と簡単に出来てしまった。光子は小さく息をはいた。
──ほら、やっぱり。私は優しくなんてない。ただ、より心が傷付かない方を選択しているだけだ。あの日、私のせいでお母様が亡くなったあの日から、血に濡れた母を見つけたあの時から、私は正しさがわからなくなってしまった。
「随分とつまらない幕引きだな」
誰かの声を、光子は聞いた気がした。それは凛として、鳥が鳴いたような、美しい声音であった。それはチクリ、と光子の心に突き刺さって、決して離そうとはしなかった。
光子は決心が揺らぎそうになって、大きく首を振った。自分を罰するように、下唇を強く噛んだ。それから、震える指先で引き金の感覚を確かめた。
光子は、ゆっくりと瞳を閉じた。一筋の涙が、彼女の頬を伝った。
──さようなら。
それは小さな、小さな波だった。
震えた鎖から伝わる、別の波動。
手首が引っ張られているような、そんな気がした。それはそれは弱い力で。
光子は再び瞼を上げた。涙で歪む視界の先。美子が、光子を見つめていた。しっかりとした、それでいて随分と澄んだ瞳であった。美子は、小さく口を開いた。もちろん声はない。それでも、光子には何と言いたいのかはっきりと分かった。分かって、しまった。お願いを、されてしまった。「だからって、美子さんを殺すことなんて出来ません」と光子が呟くと、美子はわずかに瞳を細めた。
光子はゆっくりと息を吸った。
──だったら、私たちが迎えるエンディングはひとつだけじゃないか。ゲームオーバー。このまま、ふたりとも毒で死ぬ。
光子にはひとつだけ、心残りがあった。正確にいえば、先ほど心残りが出来てしまった。それは「つまらない」というあの言葉。
──ねえ、美子さん。私たちの命って、彼らにとってみればとても軽いんでしょうね。きっと、軽いどころか、重さ自体が全く無い。だから、私たちの命懸けだって、余興に過ぎないんだと思います。彼を楽しませるために拵えられた、ただの余興。明日になれば、彼はきっと私たちの存在なんか忘れて。あの深海のような瞳で、死んだように生きていく。
「わたしは」と、光子は小さく呟いた。自身のこめかみへと向ける装飾銃を、強く強く握り締めた。震えも涙も、既に止まっていた。
──どうせ自分に明日がないなら、最期にでっかい花火を打ち上げてみたい。
「……し」
光子は、頼まれると断れない性質であった。それがどんなに理不尽であっても断ることはできない。例え残業代が正しく払われなくても、労働時間が過労死の危険ラインに達していても、彼女は仕事を断らなかった。美子に頼まれれば、どんなお願いであっても出来る限り、自身の限界まで叶えてあげた。
それは、彼女が自分の心を守るために身につけた術であった。他者からすれば随分と都合の良い、自己防衛機能。そして、その機構は今この瞬間にも発動された。
退屈そうな観客に、とっておきのサプライズを。なんてね。
「……しねっ!!」
轟く銃声。光子には、全てがスローモーションに見えた。拳銃から発せられた銃弾は、まっすぐにソファーへと腰掛ける彼へと向かった。渾身の力で立ち上がっていた光子は、発砲の反動で体勢を崩し倒れる。その最中、彼の瞳に小さな灯火が宿ったのがはっきりと見えた。光子は嬉しくなって、無垢な少女のようにはにかんだ。
「いったぁ……」
光子は、身体の背面を床に強打した。加えて、頭も床に打ちつけた。それらの衝撃によって身体中が痛いのは、間違いようのない事実だった。但し、痛みの本命は別にある、と光子には分かっていた。もう暫くでこの命は尽きるのだ、と光子は悟っていた。
隣に倒れている美子を、光子はそっと見つめた。彼女の瞳は、もう何も映していなかった。
──おやすみなさい、美子さん。
「みーこ」
頭上から名前を呼ばれて、光子はそれに応えるように、顔の向きを変えた。多くの凶器と狂気が、光子に向けられていた。しかし、光子は全く動じなかった。痛みは、その鋭さを増し続けていた。どうしようもなく、呼吸は浅くなっていた。それでも、今の光子は自分の死を直前に控えて、なにかが吹っ切れたように冷静だった。
──毒、早く回ってくれないかなぁ。
「毒が効いている状態で、よくもまあ、機敏に動けたものです。お嬢さん、私はあなたのことを侮っていたようですね。……さて、一応聞いておきましょうか。どうして、あんな馬鹿なことをしたんですか」
──馬鹿なこと。本当にその通りだ。私はトンデモナイことをしてしまった。今の状況を見れば一目瞭然だ。私は苦しんで苦しんで、多くの後悔を抱きしめながら死んでいくんだ。ほんと、やらかしちゃったなぁ。
光子は現実逃避をするように、どこか遠くを眺めた。
「──待て。その女から離れろ」
それは凛とした、美しい声音であった。全ての人間が、一瞬にして光子から距離をとった。随分とゆっくりとした一定リズムの靴音が、部屋に響く。そして、よく磨かれた革靴が、光子の前で止まった。さらりとした黒髪が小さく揺れ動く。
──ほら。やっぱり、
それはやはり、彼だった。彼は立ったまま、床に寝転ぶ光子を見下ろした。両手は、上質そうな生地で仕立てられたスラックスのポケットへと突っ込んでいた。見下されている気分だ、と光子は思った。
「驚いたか? 俺が生きていて」
光子は返事をする代わりに、小さく首を振った。声はもう出せないほど、毒は彼女の身体を蝕んでいた。
──いいえ。私の弾丸はきっと届かないと、そう思っていました。あなたの余裕そうな表情を目にした時に、そう確信していたんです。
「面白いな」
甘い花のような香りが、光子の鼻腔をくすぐった。そして、純白のレースがふわりと舞い上がった。
──え? えっ!?
光子は驚き、目を見開いた。彼女は、腕の中に抱き上げられたいた。いつの間にか、彼の腕に閉じ込められていた。それは瞬きの間に起きた一瞬の出来事であって、何がどうしてこうなったのか、彼女には全く理解ができなかった。
「──光子」
彼は名を呼び、光子に口付けをした。光子は抵抗を試みたが、毒のせいで身体は動かなかった。されるがまま、口付けはどんどんと深くなった。初めてのキスは、光子にとって随分と苦しくて苦いものだった。
「解毒薬だ。これでもう、キミは死ねない。そして、なにがあっても死なせない」
彼は愛しむように言葉を重ねた。発言と声音の温度感がチグハグで、光子は強い恐怖に襲われた。それなりに経験を積んできた人生の中でも、これほど深い恐れは初めてだった。底なし沼に全力で引っ張り込まれるような、そんな感覚。
「今更後悔しても遅い。あの世になんて逃がさない」
わずかに灯っていたはずの希望を、彼は光子の目の前で握り潰した。
──あぁ、そうか。この人は、お兄様に似ている。
神之蔵財閥の現総帥。それが光子の兄であった。全てが並の光子とは違い、なにもかもを完璧にこなす天才。多くの人間が兄を称賛し、崇め奉った。しかし完璧な兄には、ひとつだけ、人間として大事なものが欠けていた。光子だけはそのことを知っていた。だからこそ光子は兄に対して強い苦手意識があり、極力関わらないように気を付けていた。
「どこを見ている? 他の男について考えるとは、随分と余裕だな」
光子の現実逃避さえ、彼は許さなかった。光子の顎を掴むと、自分の方へと強制的に向きを変えた。深海のようだった暗い瞳は、今や強い熱を帯びている。その熱の全てを、光子へと注いでいた。
──どうしてこうなったの? 私は、なにを間違えた?
「間違えたもなにも。キミだよ、光子。キミが選んだ結末だ」
彼は光子の耳元に顔を寄せた。彼の吐息が耳にかかると、光子の全身は粟立った。
──わたし、このままじゃ、ぜんぶ、奪われちゃう。
「だから、ちゃんと責任とってくれよな。キミが、俺を選んだんだ。キミが、俺を変えてしまった。俺はもう、キミ無しでは生きられそうにない」
光子は、小さく首を振った。
──わたしは、わたしの主権を、奪われたくない。
「もう遅いって、言っているだろう?」
彼はクスクスと笑った。底冷えするようだ、と光子は思った。
「キミは自分が優しくないと思っているが、それは大きな間違いだ。優しいか否かは、本人の主観で決まるものではない。その人間が行った行動で、周囲が客観的に判断するんだ」
光子はもう何も聞きたくなくて、その目を瞑った。それでも、彼の声は生理食塩水のように、光子に馴染んで離さなかった。
「光子は、他人の願いのためなら自らを犠牲にする。他人が死ぬより、自分が死ぬことを選ぶ。どんなに理不尽な状況でも、自分に原因があると考える。そんな人間は、万人から『優しい』と評価される。それは、極めて尊いことだ。そう、キミは優しい。そして──」
「い、や……」
「──非常に愚かだ。俺のような人間とは、とことん相性が悪い」
光子はポロポロと涙を流した。それは随分と純粋で美しい涙だった。彼はそれを指で掬って、おもむろに自身の口へと運んだ。「甘いな」と、小さく呟いた。
「光子、瞼を上げて俺を見ろ」
「……ッ」
「早くしろ」
光子は、自身の喉が握られているような感覚に陥った。詰まるような息苦しさを感じ、それは一瞬毎に強くなった。だから、渋々瞼を上げた。そして、すぐに後悔した。彼の瞳から、熱が抜け落ちていたからだ。深海のような暗い瞳は、ただ光子だけを映していた。
「俺の全てはキミのものだ。キミの願いなら、どんな手段を使ってでも叶えると約束しよう。優しい俺が、キミの望む全てを与える」
「だ、め……」
「だから──」
光子は力の限り首を振った。
──お願い。お願いします。どうか、その先は、その先の言葉だけは言わないで。どうか、どうか。お願いします。お願いします。
「光子、そのお願いだけは聞いてやれないな」
「う、そ、つき……」
彼は、光子を抱きしめる腕の力を強めた。彼女の存在を全身で再確認すると、その口角を少しだけ持ち上げた。それから、光子の泣き腫らした目元に、優しく口付けを落とした。
「──キミの全てを、俺に捧げてくれ。
俺からキミへの、一生のお願いだ」
光子は押し黙った。お願いと言われれば、彼女は断れない。それが「一生のお願い」ともなれば、それはもはや呪いでしかないが。彼はもっとも残酷な形で、光子のことを縛りつけた。
「ありがとう」
彼女の返事を待たず、彼は囁いた。
これは大変なことになりましたね、と困ったように誰かが言った。サクのほーが先に見つけたのにー、と悲しそうに誰かが言った。残念だけど諦めなね、私も諦める、と慰めるように誰かが言った。
美しい純白のドレスを身に纏ったお姫様は、震えが止まらなかった。止まらないどころか、どんどんとそれは酷くなる一方だった。王子様はお姫様の冷めた手を取ると、自身の指先を絡めた。そして、光のない瞳を細めて、幸せそうに微笑んだ。
「ようこそ、終わりのない地獄へ。かわいいかわいい、俺のお姫様」




