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はりぼてプロムナード  作者: 田作たづさ
ミコと猛毒
2/10

ようこそ地獄へ 傷

残酷描写あり

 光子は最終的に牛肩ロースの薄切り肉を買って、店の外に出た。あたりは既に暗くなっていた。


 ──スーパーで悩み過ぎちゃったなぁ。


 ここから家までは、歩いて10分程度。早く家に帰って夕飯の支度を始めなくては。きっとむくれ顔の美子さんが待っている、なんて考えていたら、光子の足取りは自然と軽くなった。


 ドンッという低い破裂音が、遠くから聞こえた。それは繰り返し、何度も何度も。それが打ち上げ花火であることを、光子はすぐにわかった。先日も家の近くで上がっていたからだ。花火という古風な産物は、直接目にすることによって楽しみたい、と光子は考えている。他の多くも自分と同様の意見だろう、と彼女は思っていた。だから、先日花火の音が聞こえた時、光子は躊躇わずにカーテンを開けようとした。


「開かないでっ!!!」


 金切り声のそれは、多分に怯えを含んでいた。光子が驚いて振り向くと、血の気を失った美子と目が合った。その瞳は細かく揺れていた。


「美子さん……?」

「……あ、いや。なんでもないから。私に断りなく開けようとしたから、頭にきただけよ。良いわよ? 勝手に、見れば」

「あ、あの。そこまで見たいわけではないので」

「あっそう……」

 

 匿い生活が始まって既に半年以上となるが、美子は一度たりとも家の外に出たことはなかった。そして、一切出ようともしなかった。


 光子は、美子が昼間どのように過ごしているのか、敢えて尋ねることはしなかった。しかし一度だけ自宅に忘れ物を取りに行った時には、カーテンを締め切り、美子は布団の中で震えていた。


 そして美子はここ1ヶ月、ほぼ毎日のようにうなされていた。初めの頃には存在すらなかった悪夢が、その強度を確実に増しているようだった。光子は毎夜、美子のうめき声と歯ぎしりで目を覚ました。そして、苦しそうな彼女の肩を揺らして、悪夢の底から掬い上げた。美子の薄っすら開いた瞳には涙が滲んでいて、光子はそれを見るたびに胸が強く痛んだ。


 光子にはなにも言わなかったが、美子がナニカに怯えているのは明らかだった。


「嫌な予感がする」


 夜道を歩きながら、光子は呟いた。そして、次の瞬間には走り出した。スーパーの袋を置き去り、幾分くたびれたビジネスバックを投げ捨て、パンプスを脱ぎ去り必死に走る。普段から運動をしていない光子にとって、それは苦行でしかなかった。次第に、足の痛みは強くなった。それでも彼女は止まらない。


 光子は強く後悔してした。夏の盛りだというのに、肌寒い風が吹き抜けた。全力で走っているのに、身体は全く温まらない。それどころか、鳥肌が立った。耳鳴りもした。予感でしかなかったそれは、口に出したことで確定へと変わる。


 息も絶え絶えになりながら、光子はアパートの前に辿り着いた。這いつくばるように階段を上がりきった。光子はドアノブに手を掛ける。やはりというべきか。鍵は、開いていた。


「み、こさん?」


 カーテンが閉め切られた暗い室内。部屋の中は真っ暗だった。エアコンは動いていないようだが、何故だか室内はひんやりとした。光子は手探りでドア近くのスイッチを押したが、何故だか電気は点かない。彼女はスマートフォンのライト機能を使おうと考えたが、それは先ほど投げ捨てたビジネスバッグに入っていた。


「……みこさん? いないんですか?」


 室内はあまりにも静かだった。光子はそこで、冷蔵庫の運転音が聞こえないことに気がついた。この家の冷蔵庫は古く、運転音はそれなりにうるさかった。それについて美子はよく文句を言っていたし、光子もお金が貯まれば買い替えたいと思っていた。


「……ブレーカー?」


 暗闇の中、光子はゆっくりと進む。自分の部屋に違いないのに、なんだか知らない場所のように思えて仕方がなかった。光子はフローリングを注意深く、滑るように移動していた。しかし、不意に彼女は転んでしまった。なにか大きな障害物に足を取られてしまったらしい。光子は、その物体を手探りで触れた。布のような感触が手のひら全体に伝わる。それ自体に温もりがあった。例えるならば、ちょうど人間の体温くらいの。


「おっかえりぃー!」


 突然、部屋の電気が点いた。光子は、瞳の奥に痛みを感じた。たまらず、両手で目を覆う。


「帰るの待ってたんだよ? 遅かったね!」

「だ、れ……ですか?」


 問う光子の声は震えていた。美子の声ではない。そのことだけははっきりと分かったからだ。


「うんうん! そうよね、初めましてだもんねっ!」


 嬉しそうな笑い声が、光子の耳に届く。姿は見ていないが、声からして少女だった。


「ほらっ! 光子ちゃん、目を開けてみなよ。面白いものが見れるよ?」

「……え?」


 光子はゆっくりと瞼を開く。ぼやけた視界に映り込んだそれは赤色。赤く染まった布。そして、手のひら全体にべっとりと付着した赤い液体。


 光子は咄嗟に目を瞑った。強く強く瞑った。彼女の息遣いはどんどんと荒くなった。


 ──温もりがあった。だから、今ならまだ間に合うかもしれない。この行動は間違ってる。間違ってる。間違ってる。


 しかし、どうしても光子の身体は動かなかった。脳がそれを理解することを、猛烈に拒んでいた。


「あれれ? なんで見てくれないの? せっかく、その女を可愛く仕上げてあげたのに」


 鼻につく嫌な臭い。


 ──知っている。私は、この正体を知ってしまっている。


「えー? 無視? 光子ちゃんったらひどい! 悪い子ね!」


 コツ、コツと断続的に音がした。少女が部屋を歩いているのだ、と光子には分かった。


「まずはね。喉を潰したの。それから、逃げられないように両手両足の骨を折ったのよ。だって、大きな声出されたらまずいでしょ? このアパート壁が薄そうだから。近所迷惑、だもんね?」


 靴音は続く。光子の閉じた瞳から、涙が滲みでた。


「次はね。爪を1枚ずつ剥いでいったの。5分に1枚ずつ。光子ちゃんが帰ってくるまで続けるねって言ったら、汚い顔で泣き喚いていたわよ」


 靴音は続く。光子の閉じた瞳から、とめどなく涙が溢れてきた。


「爪って、手足合わせても20枚しかないでしょ? だから足りなくなっちゃって、次は指を切り落とすことにしたの」


 足音は止まった。光子は、蹲って静かに泣いていた。


 ──ごめんなさい。ごめんなさい。美子さんごめんなさい。私が遅いせいで。早く帰ってくれば、私がもっと早く帰ってくれば。全部、わたしのせいだ。


「光子ちゃん」


 光子の身体がびくりと跳ねた。自分の名前が耳元で呼ばれたことに、彼女は驚き恐怖した。


「意地悪してごめんね。でも、光子ちゃんがいけないのよ? あまりにも可愛らしい反応するもんだから」


 ふわりと温かい何かが、光子の身体を覆った。ゆっくりとした鼓動が、光子の背中に伝わった。チョコレートのような甘い香りが鼻腔をくすぐる。少女が自分を抱きしめているのだ、と光子は暫くしてから理解した。奇妙な状況であったが、光子には抗議する威勢も振り払う体力も残されていなかった。


「良いこと教えてあげる。その女、死なないよ。ちゃんと、止血したから」

「……え?」

「今は麻酔でスヤスヤ眠っているだけ。だから、ほら。怖がらずに、その可愛らしい瞳を私に見せて?」


 少女は、光子の身体を優しく抱き起こした。


 光子は爪が皮膚に食い込むほど、指先を強く握りこんだ。そして、唇を強く噛み締めた。しばらく経って、光子は小さく息を吐いた。やっと、決心が固まった。彼女は、その瞼を再び持ち上げた。


「美子さん……」


 美子は、やはり目を逸らしたくなるような無惨な有様だった。生きているのが不思議、という言葉が光子の脳裏をよぎった。それでも意識のない美子の呼吸は穏やかで、そのチグハグな状況が光子を困惑させた。光子はそっと、美子へと手を伸ばすが────


「光子ちゃん」


 それよりも先に、光子の頬を温かい手のひらが覆い、顔の方向を変えた。その先には、少女がいた。光子の予想通り、やはりそれは少女であった。しかし少女といっても、余りにも美しい少女だった。それは、西洋人形を思わせる風体であった。少女は、ふわりと光子に微笑みかけた。この少女が美子を傷付けたことが、光子は信じられなかった。少女は美子よりもずっと小さく、そして華奢であったから。


「ほんとうに……」

「うん?」

「本当に、あなたがやったんですか?」


 少女の身に纏うそれは、白を基調としたロリータファッションであった。しかし、全く汚れていなかった。血で、汚れていなかった。そういった点からも、光子は少女が残酷な行為に及んだとは到底思えなかった。


「うん、もちろん」


 少女は笑みを深めた。光子の小さな希望にひびが入った。しかし、まだ壊れてはいない。


「だって、服が……」

「汚れてないから?」

 

 光子は、血の気の引いた真っ青な顔で小さく頷いた。少女はうっとりと、まるで幸せな夢を見ているかのように瞳を細めた。


「嬉しい」

「……え?」

「だって、私の努力が光子ちゃんに伝わったんだから。私、頑張ったのよ。光子ちゃんに初めて直接会うんだから、こんな女の血で汚れるなんて、絶対に嫌だったの。穢れのない一番素敵な私で、絶対絶対会いたいなって!」


 光子は眩暈がして、追い討ちで吐き気も襲ってきた。光子の小さな希望は、粉々に打ち砕かれてしまった。自分の常識が通じない状況が、酷く心身を疲弊させた。余りにも悪びれていない少女の姿に、光子は自身が間違っているのかもしれないと思い始める。


 ──でも。それでも、


 やはり、腑に落ちない点はいくつもあった。そして、それらを確かめない訳にはいかない、と光子は思った。


「なんで……」

「ん?」

「なんで、止血したんですか?」


 ──この子にはきっと、目的があるはずだ。


「まあ、たしかに。傷付けたのに手当するなんて、普通はしないわよね? 私だって、こんなことはそうそうないのよ。いつもは殺して、ポイって。それで終わりなの」

「それなら、どうして?」

 

 光子の声は震えていた。瞳には不安と恐怖が滲んでいた。少女は愛おしそうに、光子の頬を撫でた。


「今そこの女に死なれたら困るの。それは今じゃない。お楽しみはこれからなのよ。……そういった意味では、死ねない、が正しいかもしれないわね?」

「それって──」


 どういう意味かと尋ねようとしたが、光子は次の言葉を発することが出来なかった。玄関のドアが突然開き、誰かが入ってきたからだ。光子は咄嗟に玄関へと目をやる。そこには、スーパーで光子に声を掛けた白髪の青年がいた。


「もうっ! サクったら遅い!」

「ごめんー。でもねー、みーこが悪い」

「……え?」


 サクは両手いっぱいに荷物を抱えていた。それらは光子が置き去り、投げ捨て、そして脱ぎ去った物たちであった。


「それ……」

「かいしゅーするの、地味に大変だったよー。スマホはバキバキに割れちゃっててー。せっかく買い替えたのにー。もう、使えない」


 サクはなんの躊躇いもなく、白いスニーカーを履いたまま室内へと上がった。そして光子の手を取ると、その上に壊れたスマートフォンを乗せた。光子はお礼を言おうと口を開いたが、暫くしてから閉じた。彼女は、奇妙な点に気付いてしまった。


 ──どうしてサク君は、私の名前を知っているの? まず、なんで家を知っているの? よく考えれば、この少女だってそうだ。今、私たちに何が起きているの?


「やっぱりー、血が出てる。靴脱いで走るからー」


 サクの目線は、光子の足に釘付けであった。彼女のストッキングは足裏の部分が大きく破れて、伝線も広がっていた。そして足の裏は皮が剥けて、痛々しく血が滲んでいた。青年は自然な動作で光子の左足を取ると、それらをまじまじと見つめた。光子は、黙っていた。まるで他人事のように、一連の様子をただ眺めていた。余りに突拍子の無いことが重なり合った結果、今の光子は心ここに在らずの状態であった。


「しょーどく液ある? みーこ」


 パチリ、と光子はサクと目が合った。そこで初めて、自分自身の現状に気が付いた。彼女は足を引っ込めようともがいたが、どれだけ手を尽くしてもその願いは叶わなかった。涼しい顔をしたサクがもう一度同じ質問をしたので、光子はめくれたスカートを押さえながら、首を小さく振った。消毒液は使用期限が切れて、先月捨ててしまった。


「ふーん、じゃあー。……舐めるしかないかなぁ」


 光子は驚いて、首を大きく振った。絶対にやめてほしくて、すがるような瞳をサクに向ける。「そっかー。残念」とサクは言った。さほど残念には思っていないような、ケロッとした表情をしていた。


「サクったら、潔癖症のくせしてそんなこと言うなんて。光子ちゃんのこと、そんなに気に入ったの?」

「うん、みーこが好き。大好き。あの日から、ずーっと良いなーって思ってた」

「……え?」


 一般的に、好意を示されれば嬉しいものである。しかし、この時光子に湧いた感情は、恐怖と困惑のみであった。


 ──あの日って、この人達は、いつから私を知っているの?


「ほら、サク! 早くしないとボスが待ってる」

「あーうん。わかったー。じゃあ──」


 光子の腕に、ちくりとした痛みが走った。腕に目をやろうとするが、それよりも前に視界が歪む。ふらりと崩れた身体は、誰かに支えられた。


「──おやすみ、みーこ。良い夢を」

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