喪失プロムナード 1m
むかしむかし、とある小さな公国に、それそれは美しいお姫さまがおりました。紅茶にミルクをたっぷりと混ぜたような美しい色彩の髪に、空の青をそのまま写したような美しい瞳。お姫さまは、蝶よ花よ天使よと、それはそれは愛されておりました。
しかし、お姫さまのお世話を任されている侍女たちは、それはそれは困っておりました。何故なら、お姫さまが綺麗なのは見た目だけで、心はとても汚かったからです。お姫さまは傲慢で、わがままで、高飛車な悪女でした。
とある日、お姫さまは隣接する大国へ嫁ぐことになりました。お姫さまが一目惚れをした第一王子と、幸せになるためです。
しかし、お姫さまはとうとう幸せになることが出来ませんでした。お姫さまの果てのない欲は次から次へと増して、わがままは酷くなるばかり。悪虐非道の限りを尽くした結果、お姫さまは処刑されることになったからです。
「おまえたち! 私をこんな目にあわせておいて、タダで済むと思わないことね!」
「全員、呪い殺してやるわよ!!」
「私は悪くない! 間違っているのは、この世界の方だわっ!」
柱に手足を縛り付けられたお姫さまは、銀の槍で心臓をひと突きされました。口から沢山の血を流しながらも、お姫さまは最後の最期まで恨み言を唱え続けました。
その呪詛がやっと途絶えた時、銀の槍は引き抜かれました。大量の紅があたりを汚します。全てを浄化するため、聖なる炎が放たれました。お姫さまは燃え盛る光に包まれます。お姫さまは生まれ変わるのです。それはそれは優しいお姫さまに生まれ変わるのです。
祝福の拍手喝采が、この場に溢れ、そして覆い尽くました。
めでたしめでたし。
……と、なるはずだったのに。
「……ん?」
どこまでも深く晴れ渡る青空。本日の天気と同様に、澄み渡った青い瞳。その瞳孔が、今しがた小さく縮まった。
「あれ? なんか、あったかい。……あ、え!? アツイ! えっ!? 足元燃えてるんですけどっ!」
再び動きだした口元には、不浄の赤が滴っている。その場にいた全ての人間が驚き、恐怖し、そして動きを止めた。燃え盛る炎とは裏腹に、その場の空気は凍りついてしまった。
──いま僕の目の前で起きていることは、現実だろうか。
第四王子エルドベールは、その蒼い瞳を見開いた。生ぬるい風が吹き抜け、青年の輝く月のような髪を撫でた。エルドベールは、自身の手にある銀の槍を強く握り直した。ベッタリと付着した粘性のある液体は、彼の手元まで流れ落ちてきていた。純白であったはずのグローブは、今では紅に染まっている。自身の理解を超えた出来事が起きているのだと、エルドベールは確信した。彼はいま一度お姫様へと瞳を向けると、静かに息を呑み込んだ。
誰に望まれるわけでもなく。
お姫様は、生き返った。
◇◆◇
成人男性の三倍以上もある大きな窓。そこには重厚なカーテンが吊り下げられており、光をほとんど透過しない。しかし、音だけは別だった。過度な装飾が施されたそれは単板ガラスで、遮音性は二の次であった。天界から流れ落ちるそれは、窓ガラスを容赦なく叩き続ける。バタバタとリズミカルに紡がれる雨音。それは、エルドベールを浅い眠りから目覚めさせるのに充分だった。
彼は二、三度瞬きをした。カーテンの隙間からは、わずかでも光は見えない。きっとまだ明け方に違いない。青年はそのように思い至ったが、これ以上眠れる気がしなかった。彼は、上半身を起こした。サイドテーブルに手を伸ばして、ロウソクに火を灯した。仄かな光に包まれた室内。壁掛けの時計に目をやれば、短い針はちょうど四を指していた。
──やっぱり、まだ起きるには早かった。むしろ、早すぎだ。
起きたばかりだというのに、何故か肩が凝っていた。疲れも取れた気がしなかった。彼は、両腕を上げて伸びをした。それから、大きく息を吸う。ふと、煙臭さのようなものが、エルドベールの鼻腔をくすぐった。彼は、自身の隣にある膨らみに気がつく。エルドベールは掛布団をめくって、それから溜息をついた。
「どうして僕が、こんな目に」
そこには、お姫様が眠っていた。美しい彼女とは不釣り合いな、汚れたワンピースを身に纏って。ベットの隅で、身体を猫のように丸めている。静かに呼吸音をたてる彼女は、随分とあどけない表情をしていた。
「最悪だ……」
エルドベールは、強い頭痛を感じた。飲み水を取ろうと、冷たい床へと足の先をつける。歩み出そうとした瞬間、左足首を引っ張られるような感覚が襲ってきた。エルドベールは、それ以上どこにも進むことが出来なかった。彼を縛る枷が、それを許さない。
昨日自分の身に起こった全てを思い出し、エルドベールは再び溜息をついた。
───────
────
──
「なんだか、随分と面白いことになっているね。そうは思わないかい。エル」
燃え盛る炎。その中心で騒ぐお姫様。固唾を飲んで見守る他ない周囲。そんな張り詰めた状況とは相容れない、どこまでも柔らかい声音が響いた。もちろんそれには、他を従わせようとする尊大な色は含まれていない。しかし事実、それはこの場の優先順位を、一瞬にして入れ替えてしまった。
「リルベルお兄様……」
全ての人間が、一斉に頭を垂れた。細やかな刺繍が施された正装に身を包み、口元には優雅な微笑みを堪える男性に敬意と忠誠を示すために。その景色は圧巻であって、滑稽でもあった。当の本人はまるで周囲など見えていないかのように、跪く弟だけを見つめていた。エルドベールはその視線を痛いほど感じながらも、地面の砂利へと目線を向けたまま口を開いた。
「どうして、こちらへ……」
「あぁ、そうだね。愛する弟が任された大役を完遂できるか、気になるのが兄心だろう?」
エルドベールは、伏せていた顔を持ち上げた。兄と目線が重なり合う。人好きのする笑み、のはずなのに。リルべルの底が見えない瞳に吸い込まれてしまう気がして、エルドベールは咄嗟に視線を逸らした。リルべルは楽しそうに笑った。
「そして、困っている弟に救いの手を差し伸べたいと思うのも兄心だよ」
リルベルは、エルドベールとよく似た顔立ちをしていた。ふたりは同じ両親のもとに産まれた血の繋がった兄弟であるから当然かもしれない。それでも、ふたりには決定的な違いがあった。ひとつは、リルベルはエルドベールと違って、あどけなさや危うさが一切無いこと。もうひとつは、自信に満ちたその瞳が深い碧色であること。それはこの国の第一王子であり、そして王位継承権第一位の王太子として申し分のない品格であった。
「──決めたよ。あれは面白そうだから生かそう」
「……本気ですか、お兄様」
「もちろん。不満かい?」
エルドベールは小さく頷いた。それから、強く訴えるような瞳を兄へと向けようとして、それはしばしば彷徨った。最終的には諦めて、言葉に情緒を乗せた。
「あの女が、何をしたのか忘れたのですか」
「あの女……ね?」
リルベルは含みのある言い方をした。微笑みを一旦手放すと、お姫様へと瞳を向けた。
強まった炎は、シンプルなデザインのワンピースと、腰まで伸びた美しい髪を炙っていた。彼女は、縄が切れて自由になった足をバタバタとさせながら、それに争っている。お姫様は笑っていた。困ったように眉を下げながら、それでも声を出して笑っていた。煙を吸ったのか、ゲホゲホと咳をして、思い出したかのように再び笑った。
リルベルは再び、口元に笑みを作った。クスクスと笑うと、何かを小さく呟いた。瞬間、空中に巨大な魔法陣が出現する。その場が閃光に包まれ、そして、風が巻き起こった。随分と柔らかな風だった。リルベルのマントが小さくと揺れる。エルドベールは息をのんだ。
「エル。危ないから、目を瞑っておくんだよ」
エルドベールは兄の助言に従い、瞼をぎゅっと閉じた。無意識に呼吸も止める。素直に従わざる負えない理由を、彼は知っていた。
そして、一秒後。そよ風に過ぎなかったそれは、暴風へと切り替わった。膝をついている状態でも、身体が持っていかれそうになった。耐えられずに、エルドベールは両手を地面へとつけた。そして、安全のために小さくうずくまる。それは、正しく暴力だった。どこからともなく、複数の悲鳴が聞こえた。
「──はい。もう良いよ」
瞼を持ち上げたエルドベールは、恐る恐る顔を上げた。それから、瞳を大きく見開いた。
──やっぱり、すごい。
柔らかな風によって、威勢を増していたはずの聖なる業火。しかしそれは、跡形もなく消えて無くなっていた。あとの煙さえも残らないほどに。
そして、渦中のお姫さまはどうなったかといえば。
──死んだ? いや、ただ気を失っているだけか。魔法に巻き込まれて、どうにかなってしまえばよかったのに。
彼女は俯いていた。糸が切れてしまったかのようにピクリとも動かなかった。魔法陣は既に消えていたが、風だけは残滓として漂っている。天使の羽のような彼女の髪を、風が大きく揺らした。
「じゃあ、エルがお姫様のお目付け役になってね」
「……え? えっ!? なんでそうなるんですかっ!!」
兄からの無茶振りには慣れているはずだった。それでも、この時限りは腹の底から声を出していた。
──本当にあり得ない。流石にあり得ない。まじであり得ない。いつもいつも僕に厄介ごと押し付けて。あの時だって、僕のこと戻すって独断で決めて。僕はそんなこと全然望んでなかったのに。
「……考え直して、いただけませんか」
リルベルのことを罵ってやりたかったが、エルドベールは僅かに残った理性でそれを我慢した。口から出たのは、柔らかく煮込まれた言葉。それがこの国の全てを掌握する者に対する、精一杯の抗議であった。
──許されるか際どいラインの言葉は慎むべきだ。思っていることを全て口に出すのは、馬鹿がすることなのだから。
エルドベールは自らのポリシーを、脳内で何度も何度も繰り返した。それが正しい行動なのだと、自分自身が納得するまで。兄は弟の心情を知ってか知らずか、その笑みを深めた。そして、人の心は何処かへ捨てたとばかりに、残酷な宣言を行った。
「もう決まったことだよ。これは国王代理である私の決定だから。エルドベールに拒否権は無いからね。……あぁ、そうだ。お姫様が逃げるといけないから、エルと鎖で繋いでおこうか。私は優しいから、魔法で透明にして、重さも感じないようにしておくね」




