ようこそ地獄へ 1/4
会社を出た時には、とっくに終電がなかった。だから、織神光子は今日も歩いて自宅へと向かっていた。それは、徒歩にて80分以上の道のりであった。
この道に、光子以外の人影はなかった。車も一台として走っていない。加えて周囲に街灯もなく、足元がやっと見えるほどの明るさしかなかった。多くの人は、こういった裏道は好まない。しかし光子は、敢えて人通りの少ない道を選んでいた。
──大通りはだめ。酔っ払いや、気難しい人々と遭遇する確率をグッと引き上げるから。それに人がいない道だからこそ、誰かがいた時に警戒できる。それに私は耳が良いから、きっと、大丈夫。
今日はいつにも増して寒いと、光子は思った。月明かりがないから、彼女はそう感じたのかもしれない。吐いた息は白く染まって、虚しく消えていった。光子はマフラーを耳にも掛かるように結び直した。今日はイヤーマフを忘れていた。
「ゔ……ぐぅ……」
光子はピタリとその足を止めた。この場にあっては困る音。それは確かに、生物が発したものあった。
「だれか、いるの?」
光子は囁くように言葉を発して、耳をすました。返事はなかった。もしかすると野犬だろうか。光子は考えを巡らせ、そして身震いをした。彼女が幼い頃、近くの山で小学生が野犬に襲われて、命を奪われる事件があった。ぐちゃぐちゃに噛みちぎられた自身を想像する。人なんかよりもずっと恐ろしいと、光子は思った。
「ゔぐ……い、だぃ……」
光子は息をのんだ。
──違う。野犬じゃない。人だ。これは人の発する声だ。
それからの光子は俊敏であった。彼女はスマートフォンのライトを頼りに、周囲をくまなく探索した。ビルとビルの隙間、その闇を。しかし、見つからない。消え入りそうな声からして、距離はさほど遠くないはずだ。光子は改めて、ゆっくりと一周回り、あたりを観察した。そして、金属製のゴミ収集庫に歩み寄った。生ごみの強烈な臭いがする。それは随分と大型で、そして中身がわからない仕様となっていた。光子はハンカチで鼻を押さえると、その重い蓋を持ち上げた。
「ッ…………」
光子自身は声をあげたつもりでいたが、実際には音など出ていなかった。ただ目を丸く見開いて、固まっていた。
ゴミ箱の中、多くの生ゴミと一緒に、天使のような女性がいた。年齢は光子と同じ、二十代といったところか。スラリと伸びた美しい足。それが充分に映えるような、短いドレスを着用している。伸ばされた明るい色彩の髪は、艶やかで瑞々しい。そして、なによりも美しい顔立ち。長いまつ毛に通った鼻筋。天使は、血塗れだった。
「だ、だいじょうぶ、ですか?」
光子の声はとても小さかった。上手く呼吸が出来なくて、思ったように声が発せなかった。天使はその瞳を閉じてピクリともしない。もちろん、小さな呼びかけにも反応は無かった。
ハンカチが光子の手の中から滑り落ちる。無意識に息を止め、彼女はゆっくりと、自身の腕を伸ばした。震える指先で、天使に触れる。
「つめたい……」
ハッと息をのむ。すると、腐った悪臭が光子の中へどっと流れ込んできた。
──これ、生ごみだけじゃない。別のなにかが混じっている。気持ちが悪い。きもち、わるい。……あ、そうか。……血だ。血なんだ。これは血の臭いなんだ。
光子はどうしようもなくなって、そして吐いた。街を汚してはいけないと、咄嗟に思ったのだろう。光子は自身のビジネスバッグの中に全てをぶちまけた。それは会社を出る前に食べたコンビニ弁当を全て出し切るまで続いた。
「ねえ、ちょっと」
「……え?」
光子は頭上から誰かに呼ばれ、ゆっくりと顔を上げた。先ほどの美しい天使が、光子を見下ろしていた。光子は驚き固まった。彼女は既に死亡していると、そう思い込んでいたからだ。
「あんたって鈍臭そうね。はーあ、参っちゃうわ」
「す、すみません」
天使は冷たい瞳で光子を睨みつけた。怖い天使だと光子は思った。しかし「怖い」と「天使」は相反するものであって、同時に存在することなどあり得ないのではないかと考え直す。ならば、この美しい女性は天使ではないなにかだ。光子が適当な表現を探していると、冷たい声が呼んだ。
「ねえ、あんた。救急車や警察呼んだ?」
「あ、いえ、すみません。まだ呼んでません。今すぐ呼びますね」
「は? ちょっとやめてよ、呼ばれたら困るの」
「え? でも怪我が……」
「死ぬような怪我じゃない。それにこの血だって……。だから、とにかく、私が困るんだってば。スマホ、片付けなさいよ」
「わ、わかり、ました」
光子はスマートフォンをバッグに戻そうとして、その手を止めた。黒いロングスカートのポケットに仕舞うと、力を込めて立ち上がった。眩暈がして、少しだけよろめいた。
「あんた名前は?」
「あ、えっと、光子って言います。織神光子です」
「ふーん」
「あの、お名前は?」
「答えたくない」
「すみません」
しばらく二人の間には、気まずい沈黙が流れた。光子は瞳を右往左往させる。そんな姿に、名を明かさない女性は苛ついているようであった。
「好きに呼べば良いでしょ、ほんと鈍臭いわね。イラついてしょうがないわ」
「え、えっと。じゃあ、とりあえず天使様って呼んで良いですか?」
「は? キモいんだけど」
「す、すみません。……だったら、ミコさんって呼んで良いですか?」
「ミコってあんたの名前じゃない」
「いいえ。私の名前は光の子。ミコさんは美しい子って書きます」
「……勝手にすれば」
「あ、ありがとうございます!」
「それじゃあ私を──」
美子はキリッと眼光を鋭くし、光子を睨みつけた。光子は固まる。美子は憂鬱そうに溜息を吐くと、次の言葉を発した。
「あんたの家に匿いなさい」
◇◆◇
「シングルベットは狭いから、光子が床に寝て」
「光子、ごはんまだなの? 早く作りなさいよね」
「光子! シャンプー切れてんだけど! ていうか、なんで私がこんな安物のシャンプー使わないといけないわけ!?」
「ネイル行けないから自分でするかなぁ。──は? この家にマニキュア無いの? なら、光子買ってきなさいよ。トップコートも忘れずに買ってきてよね。私が指定するメーカーのやつじゃないとダメだから。先に言っとくけど、高いわよ」
美子は光子の家に転がり込んだ。そして、光子は美子の召使いとなった。本人達にそのつもりは無かったが、側から見ればそのようにしか表現されない関係であった。光子は頼まれると断れない性質を持っていた。そういった点でふたりの奇妙な関係は破綻せずに済んでいたが、光子自身、久々に友人が出来たようで嬉しかった。8畳1K木造、築20年の安アパート。最初はこの部屋に関して散々文句を言っていた美子だが、半年を過ぎるとたまにしか言わなくなった。
「今日はカレーが食べたいって美子さん言ってたから、早めに退社できて良かった。電車がある時間に帰れるって幸せだなぁ。あ、スーパーで牛肉買って帰らなきゃ」
光子が勤めるのは、中堅のデジタル機器メーカーだ。光子はその事務方である。絵に描いたようなブラック企業体質で、パワハラやセクハラは当たり前。サービス残業も横行していた。そんな折、社内で強い権力を握っていた部長の一人が、痴漢の容疑者として現行犯逮捕された。当初本人は否認していたが、防犯カメラにその証拠が残されていると分かると、全てを自白した。統制が乱れる社内。こういった状況下では、勇者(反乱分子とも言う)が生み出されやすい。彼らは、労働基準監督署に匿名の通報をした。そして、全てが白日の下に晒された中堅デジタル機器メーカー。世間からの圧倒的な逆風。強烈な監視下の元、働きやすい職場へと変わらざるを得なかった。
「どれにしよっかなぁ」
光子はスーパーで、牛肉を眺めていた。「カレーには牛肉だから。美味しい牛肉。後、にんじん入れたら許さないんだから。わかった?」と、言いつけた美子の顔が浮かぶ。それは随分とじっとりとした、それでいて子どもっぽい無垢な瞳だった。
──安いし、切り落とし肉で良いかな。なんで私がって、また怒るかな。
光子はひとつのパックを手にして、そして固まった。パックの端に溜まる赤い液体。鮮やかな赤色を見ると、光子はどうしても思い出してしまった。美子に出会ったあの日のことを。
美子は血塗れであったが、自分自身の怪我は軽い打撲と、擦り傷程度であった。べっしゃりと濡れたその血は、美子自身のものではなかったらしい。光子はそれとなく事情を尋ねたが、はぐらかされるばかりであった。だから光子は次第に、美子が凶悪な殺人犯なのではないかと疑い始めた。しかし、美子と出会った前後で傷害や殺人のニュースは確認できなかった。光子はどうしても気になって、美子がベロベロに酔ったタイミングで同じ質問をしてみた。意外なことに、美子は泣き崩れた。「ごめんなさい、私のせいで。みんな、みんな。お父様、お母様ごめんなさい。私が馬鹿だった」と、いつまでも呟いていた。翌朝、美子は全く覚えていないようであったが。その時の様子から、少なくとも美子自身が誰かを殺傷したわけではないのだろうと、光子は勝手に納得した。
「ねーえ、こっちのほーが美味しそーだよ?」
その声は、光子を思考の海から掬い上げた。角を削ぎ落としたような独特の話し方だ。もしくは、砂糖を入れた上に蜂蜜もメープルシロップもぶち込んだホットミルクのような。そんなことを、光子はうっすらと考えた。
突然、光子の目前に誰かの顔が迫る。ピントが合わない位に近かった。相手の呼吸を間近に感じる。光子は咄嗟に後ろに下がろうとして、脚がもつれてしまう。尻餅をつくかと思ったが、尚もピントの合わない誰かに腰を支えられた。
「おーっとー。危なっかしいー」
「あ、すみませ……」
「うんー、いいよー」
「……あの、はなれて。も、もし良ければ、離れてくれませんか?」
「オッケーオッケー」
適切な距離でその人を見るが、光子にとっては初対面の人物であった。初対面と言い切れるのには、それなりの理由がある。髪は白く、華奢だが背は高くて、多くのアクセサリーがジャラジャラと光っている。このように特徴的な人物を忘れるはずがないと、光子はそう考えた。その人は声からして男性であったが、顔は中性的で整っている。年齢は不明瞭であったが、自分よりは歳下であろうと、光子は思った。
「ねーねー」
「え、あ、はい?」
「こっちの肉にしなよー。そっちはさー、赤いの、ドリップ?が出てるしー」
青年はステーキ肉を差し出してきた。光子は驚いたが、特段害を与えるつもりは無さそうに見えて、無下にはできなかった。
「あの、今日はカレーなので。ステーキ肉は要らないんです」
「えー? ステーキの方がきっとおいしーよ?」
「えーっと……」
光子は考えた。
──夕食をステーキにすれば、美子さんは喜んでくれるだろうか。それともカレーにしなかったことをプンプンと怒るだろうか。
ステーキ肉をチラリと覗く。青年の青白っぽい手の中にあるそれは、このスーパーで最も値の張るものであった。
「あの、美味しそうですけど、ごめんなさい。その金額は予算オーバーです」
光子は申し訳なさそうに、そう答えた。素直な気持ちを伝えたい方が良いと、なんとなくそう思った。
「そっかー。じゃあサクが買っといていーい?」
「サク?」
「んー? 俺の名前」
「あー、サク君って言うのか。どうぞどうぞ」
「ありがとー」
サクと名乗った青年は、光子の隣を通り過ぎた。光子はその姿を目で追う。どうやらレジへと向かったらしい。光子は、そっと胸を撫で下ろした。どうやら彼を傷付けずに、全ては丸く収まったらしい。光子は再び、牛肉と睨めっこを始めた。
◇◆◇
サクは不意に立ち止まる。遠くに見える光子の横顔を見ると、目を細めて微笑んだ。「たのしみー」と小さく呟くと、手元にあるステーキ肉のパックを指先で撫でた。
「今夜一緒に食べよーね、みーこ」