冷静な男
私は生まれてこの方、運が悪い。顔も悪ければ運動神経も頭も悪い。突然のアクシデントにめっぽう弱く、対応力がない。察しも悪い。要するに能力が低いのだ。人から馬鹿にされるか、存在そのものを空気のように扱われる日々。それから……いや、もういい。やめておこう。これ以上考えると消えてしまいたくなる。
せめて、あたふたしない人間になりたい。何が起きても動じない、そんな落ち着いた人間に。
だから私は、会社の同僚の佐々木さんと一日行動を共にすることにした。
彼は社内で『冷静な男』として評判だ。どんな状況でも冷静沈着で、感情を表に出さない。仕事ができて、記憶力も抜群。「佐々木の爪の垢でも煎じて飲め!」と上司からしょっちゅう言われていた。そんな彼から何か学び取れれば、私も少しは変われるかもしれない。
朝、佐々木さんは携帯のアラームが鳴る前に目を覚ました。ゆっくりとベッドから身を起こし、歯を磨き、静かに朝食を摂る。特筆すべき点はない。彼の動作はまるで機械のように正確で無駄がないのだ。
通勤電車の中でも、彼の冷静さは際立っていた。周囲の乗客が押し合いへし合いする中、彼は吊革に掴まり、静かに文庫本を読んでいた。突然、電車が急停車し、車内がざわついても、彼は微動だにしなかった。凄まじい集中力である。
会社に着いてからの行動にも、特に取り上げるところはない。完璧といっていいかもしれない。いつも通り、淡々と仕事をこなす。上司からの無理難題な指示や同僚たちの泣き言にも、彼は眉一つ動かさず冷静に対処していた。
ただ、昼食に冷製パスタを選ぶあたりは、さすがと言うべきか。
そして午後、そんな佐々木さんの真価が試される出来事が起きた。突然、火災報知器がけたたましく鳴り響いたのだ。オフィスは瞬く間にパニックとなり、社員たちは右往左往した。私も興奮し、気づけば佐々木さんのそばにぴったりと張りついていた。
彼は一呼吸置き、静かに立ち上がった。そして、低く落ち着いた声で皆に向かってこう言った。
「皆さん、落ち着いてください。窓を開けて、はしご車が接近できるようにしておきましょう。姿勢を低くして、階段を使って慎重に避難を。ただ、火元の状況次第では、ここに留まるのが最善のケースもあります。、まずは冷静に状況を確認しましょう」
まるでアナウンスのようなその声音には不思議な説得力があり、オフィスの空気は次第に落ち着いていった。
結局、火災報知器は誤作動だった。社員たちは佐々木さんの冷静な対応を称賛し、「どうしてそんなに落ち着いていられるんですか?」と口々に尋ねた。
彼はただ一言、「いや……」と答え、何事もなかったかのようにパソコンに向かい、業務を再開した。
皆が彼に惚れ惚れしていた。もちろん、私もだ。なんという冷静さだろう。しかし、まだ終わらない。帰宅途中の夜道で、彼は新たなトラブルに遭遇したのだ。
「おい、金を出せ」
「ん……?」
後ろから声がかかった。振り返ると、フードを被った男が立っていた。
「金を出せって言ってんだ!」
その手には鈍く光る包丁が握られている。なんと、強盗だったのだ。しかし、佐々木さんはこんな状況でも冷静だった。
「なぜだ?」
「ああ!?」
「なぜ金が要る? 困っているのか? いくら必要なんだ?」
「ク、クソッ!」
強盗は彼の冷静さに圧倒されたのか、後ずさりしてそのまま夜の闇へと消えていった。佐々木さんは一つため息をつき、歩き出した。まるで、ちょっと道を聞かれただけのように。
私は心の底から感動した。……そして、同時に落胆した。
はっきりとわかったのだ。私は彼のようにはなれない、と……。トラブルに直面すると、いつも頭が真っ白になってしまう。体が硬直し、ただただまともに食らうしかないのだ。
けれど……今日は私も少しだけ冷静でいられた気がする。不思議だ。きっと、佐々木さんの姿を近くで見ていたおかげだろう。ありがとう、佐々木さん。
私も変われるだろうか。彼のようになれるだろうか。……いや、きっとなれるはずだ。
佐々木さん、あなたは私の先生だ。あなたに一生ついていきます。
「あ、あああああ!」
ど、どうしたのか。帰宅した途端、突然奇声を上げ、服を脱ぎ始めたではないか。き、着替えるのか?
「はあああ、シコシコシコシコ!」
あ、あ、あ、自分の陰茎を握りしめ、激しく上下に動かして、あ、あ、いったい何が起きているのか。これが彼の本性……? それとも、冷静さの反動なのだろうか。もしかして、普段の沈着の裏には、こんな発散が……?
「俺は冷静! 冷静冷静冷静! 正気正気正気正気!」
しかし、なんとも……これ以上見ていられない……私の見込み違いだったようだ……。
「シコシコシコシコ……消えた……か?」
――消えたな。性的なものに弱いという話は本当だったらしい。それにしても、一日中付きまとわれて気が狂いそうだった。しかも、『一生憑いていく』なんて……ああ、恐ろしい。追い払えて本当によかった。
「でも、あの幽霊、どこかで見た顔のような。誰だったかな……」