西の海を駆け抜けた一陣の潮風
歴史の転換期の一つとなった一場面を私なりに想像してみました。記録に残っていることを元にしていますが、本当のところは潮風に吹かれるままに。
* 公式歴史企画2024「分水嶺」参加作品です。
「な、純乗、なんかおかしくね?」
純友は潮風に吹かれながら隣に立つ弟に問うた。
「何がでしょう、兄者」
海賊追補宣旨という帝の命を受けて、兄弟は土地勘のある伊予の国に来て、日振島の頂上から海を見下ろしている。
「オレら、元はと言えば、都でまともな官職ももらえんで伊予まで来たんだろ?」
「仕方ないでしょう、父がさっさと死んでしまっては。権勢は父の従弟の忠平太政大臣に掌握された」
「にしてもなあ、元を質せばおんなじ『藤原ホッケ』ってヤツだろ?」
純乗は、豪胆勇壮にして悪く言えば単純明快な兄の言葉を可愛らしく思ってしまう。
藤原不比等の子孫だというだけでは要職に就けない時代、いや既に、藤原北家、房前の子孫でも栄達からはじかれる時代なのだ。
ホッケって、魚の名前じゃあるまいし。とはいえ、伊予の海ではホッケは漁れないし、純乗は見たこともない。
「それで何がおかしいと兄者は言われる?」
「海賊をやっつけるのがオレらの仕事なんだろ?」
「そうですね」
稲光のような形をしたここ日振島も、四国側の宇和海も海岸線が入り組んでいて船の停泊にはもってこい、今も漁船なのか海賊なのか定かでない船の行き来が純乗の目に映っていた。
純友は夕陽が西に沈んでいく景色をただ楽しんでいるわけではなく、話を継ぐ。
「都のお偉方が誰を海賊と呼んでるかと言えば」
「租税を横取りする奴らです」
これは純乗にも簡単に答えられる。
「その租税を使って都はのうのうと暮らしてる」
いやそれは、と口ごもってから笑顔を作り、純乗は、
「我々の任官のお給金にもなってるでしょうに」
と躱した。
「あれっぽっちでか。死ねばそれまで、成功すれば次の任官が楽になるってだけだ」
「その通りです」
一生地方官を転々として終わるか、いつか中央に戻り位階を上げてもらえるかは朝廷様の胸先三寸、自分たちの将来はそれほどに心許ない。
「それに引き換え、この広々とした海を見ろよ。オレたちは伊予どころか、佐田の岬を廻れば湖のように静かな瀬戸の海、讃岐にも淡路にも河内にでも行ける。瀬戸を西に行って玄界灘に出てしまえば、高麗にも群雄割拠の大陸にも渡れる」
兄純友は4年余り伊予掾を務める間に、漁船、水軍、海賊に勝るとも劣らない操船術を身につけてしまっていた。
できるというのは恐ろしいことでもある。
「確かにこの日振島は美しいところです」
純乗は兄の語る可能性の大きさに心惹かれながらも、話を若干逸らした。
「西陽が筑紫を浮かび上がらせ、波頭を煌めかせていますな」
船でなら都に戻るも朝飯前、といった発言を避けるために。
「日の沈む方角に大宰府があるのだなあ」
とりあえず純友の意識は九州に向いた。
「菅原道真公も清涼殿に雷を落として少しはご溜飲をお下げになったのでしょうか」
大宰府と聞いて純乗は、6年前、兄も自分も都で暇を持て余すただの若者だった頃に起こった大混乱を思い出していた。
大宰府に左遷された道真公の祟りとして、内裏の中心部に突然の落雷。先帝はお隠れになり、年少の今上帝がお立ちになった。帝は現在でもまだ元服に達しないお歳である。
そんな帝の、というより、摂政の藤原忠平の命で自分たちが伊予の海を眺めているかと思うと、現実主義の純乗でも苦笑を禁じ得ない。
「死んでから右大臣に戻してもらおうが、立派なお宮を建ててもらおうが、意味なくね? 生きていてこそだろ」
純友は、低い家柄ながら自分の技量のみで身を立て、あらぬ疑いをかけられて大宰府に飛ばされた菅原道真に、どこか親近感を寄せているのかもしれない。
「俸給もなし、衣食住もままならず謹慎とは、朝廷も惨いことをしますな」
「何もせず死んでいくなど、オレだったら耐えられん」
純友は無造作に括った髪を風に遊ばせて、疑問も風に乗せた。
「道真公はどちらの味方なんだろな?」
「味方、と仰いますと?」
「お上か民かってこと。都での栄達を求めた右大臣さまだと思えば朝廷側」
「雷を落として都の権勢を戒めたと思えば民側、と兄者は言いたい訳ですか」
純友は海を見つめながら頷いた。
「ああ。そしてこの藤原純友は権勢を奮う藤原北家の一員なのか、あそこで魚を漁ってる者たちの仲間なのか」
純乗は、海賊追補宣旨を拝受してから兄の表情が曇りがちだった理由を悟った。
そしてこの疑問を掘り下げれば掘り下げるほど、兄純友は職務を放棄するだろうと思い至る。
「後ろを見てみろよ、純乗。伊予の本土が横たわってる。残念ながら山地が多く平地が少ない。海岸も絶壁で砂浜が広いわけでもない。段々畑で民は懸命に稲を育て野菜を作る。お上は租税が足らぬなら特産品を収めろという。織物類の他には鰹節、鰹の煮汁、鰒に海藻、それでも無理がある」
「紀国の梅や遠江の柑子のように特別な果樹でもあれば別でしょうが」
「皆、無理をしている。オレは去年まで税金をむしり取る側だった。地方任官が儲かるのは血も涙もなくむしり取れるヤツだけだ。民は国府に納めるだけじゃない、こっちに住む豪族や寺社にも寄進させられる。内裏で管弦でもしている奴らは、そんなことなど斟酌しない」
一本気な兄は伊予の国の田畑を視察し、民に交じって漁業をし、特産品を探し、朝廷が言ってくる税を、耳を揃えて収められるように腐心もしたのだろう。
「気が付いちまったんだよ、純乗。税物を横取りする海賊はやっつけなきゃならない、だがな、その米やら鰹節やらは、元々民のものじゃないのか? 都のほうが伊予の民から品々を横取りしてるんじゃないかって」
「いやでも、兄者、税は納めないと国が立ち行かぬでしょう?」
「都の奴らがここの人々に何かしてくれたか? 確かに大宰府には国を守る役所と兵があるが、守っているのは瀬戸内の向こうに隠れた京の都だ。高麗から来る海賊たちが伊予で略奪したら、実際に身体を張って戦うのは民だ」
純乗は兄の誤謬をやんわりと指摘して方向修正を試みる。
「民を守るのは大切なことでしょうよ。彼らが衣食を生み出しているのですから。でも兄者は海賊と民とをごっちゃにしてませんか? 民が血のにじむ思いで差し出した税物を海賊が奪うのですから、やはりやっつけないと」
「それがな、民の目から見ると違うんだよ。海賊は、近所のお殿さんの息がかかった奴らで、顔見知りなんだ」
「お殿さんとは、こちらの豪族とか富豪といった意味ですか?」
「そうそう、難しく言えばそういう奴ら。そいつらは、新羅から海賊が来た時には船を出し、舎人を出して民を守ってくれたらしい。普段でも、段々畑で水の取り合いになると相談にも乗ってくれる、水路を作るのに人手がいるなら段取りしてくれる。海でなんて、海賊と民は一緒に魚漁ってたりもするんだ。貢租船から奪ったものを融通してたりもする」
「仲がいいんですね?」
純乗は、とうとう自分も兄のような言葉遣いになってしまい微苦笑した。
「それに引き換え受領たち、例えば4年前、伊予掾として赴任したオレなんか、完全無視の仲間外れ」
「そりゃ、お上が派遣したお偉いさんなんだから」
「口利いてもらえるまで1年はかかったぞ?」
世の理を平坦に眺めている純乗にしてみれば、普通の受領たちは、国守も介も掾も郡司も、位階に関わらず威張り散らし、必要最低限しか民と交わらず、口を利くなど穢れるとでも思っている、というのが相場だ。
「民は京の都がどこにあってどんな暮らしをしているかなど知りもしない。だが、近くの屋敷に住んでいるお殿さんのことならわかる。お殿さんへの付け届けは、ちゃんと効果をもたらす。国府に収めた税物は船に乗せられ持ち去られて、自分たちには何の得もない」
ああ、そうか、と純乗は後ろ頭を掻いた。
つましく暮らす伊予の民、差し出す血税がせめて少しは地元に還元され、生活が楽になることを望む。効果の見える相手と見えない相手、どちらに払いたいかという単純な図式だ。
「オレはどっちの味方なんだろうな?」
純友の力のない呟きに弟はにこりと笑って見せた。
「兄者の中では既に答えは出ているようですが?」
「となると、今回の任務は果たせそうにないな」
「仲良くなりすぎたんでしょ。知人友人を斬り殺すなんて兄者にはできない」
それでどうするつもりかと聞こうとして、純乗の頭にハッと閃くものがあり焦り声になった。
「もしかして兄者、お殿さんたちをまとめ上げて海賊を従えて、自分の国を創りたいとか言い出すんじゃ?」
「いや、それはない。そうしたほうが伊予の民は楽に暮らせるような気はするがな。オレは海に出たい。この広がる海全部がオレのものだ。土地に縛られず、一斗一升の米粒を数えるようなことは二度としない。好きに船を進めて、停まった港で魚を水揚げして米や野菜と交換し、食って寝る」
少年のような夢を語る兄に、純乗は片眉を上げてからかう。
「義姉上さまやお子さまはどうされますんで?」
「お前はどこかに邸宅を構えてオレの家族の面倒も見ろ。地面の上のほうが好きだろう?」
ハハハハハと純乗の大笑が辺りに響いた。兄純友は宣旨以来、本気で頭を使ってここまで考え併せていたというわけだ。
「そうですね、戦うなら私は水軍より陸軍を望みます。馬から落ちるだけなら死にませんが、海に落ちたら死にそうなので」
兄がくいっと顔を振り向け、純乗の顔を覗き込んでいた。
「戦う、だと?」
「そりゃ、戦いませんと。海賊追補の任務を放棄するわけですから、朝廷からお咎めを受けますでしょう? まずは伊予の国府から、兄上追討の兵が来ます」
「オレは海に出てしまえば捕まらない自信はあるぜ?」
「兄上が逃げれば私と義姉上たちは皆殺しですわ」
「そうか……」
純友の考えは変なところで抜け落ちている。
「戦う、か……。謀反というわけだ、大罪だな」
「ですね。兄者が考え直してくれると私の人生も楽ですが。仲良しの海賊たちを討つ振りをしておいて、説得して貢租船を襲う回数を減らしてもらうとか、なあなあで任期を終えましょうよ」
「バカだな、今回は任期はないんだよ。海賊行為がなくならなきゃ次の任官はない。純友は怠けていると言われ、新任の者が派遣されてくる。海賊も潰されるしオレも処罰される」
「となると、戦うか逃げ出すしかなさそうですねぇ」
純乗は努めてのんびりとした口調で言葉を続けた。
「私の官職は大宰少弐、これから筑紫、大宰府へ向かう身だ。道真公の眠る安楽寺天満宮に、どちらのお味方をされるかお伺いを立ててみましょう、民か帝か、兄者か摂政殿か」
弟のこの発言は、純友の曇っていた表情に一陣の潮風と生気を吹き込み、生来の明るさを取り戻させた。
二者択一、分岐点を示しているようで実は、自分たちの水の流れる方向が明確になったから。
兄の笑顔に弟も微笑んで言った。
「もし天神様のご加護が得られるなら、戦っても逃げても、我らの先に光明が見えるやもしれませぬ」
「よろしく伝えてくれ。オレにはそなた様のような学は無いから、漢籍を読んだり詩歌を書いたりして死を待つことはできないと口添えしてくれよ」
兄の言葉に純乗はふっと笑った。
「戦うには小回りの利く船に武器、逃げるには大きめの船が要るでしょうから、兄者はその算段でもしていてくだされ」
――◇――
純友が蜂起したのは939年、この会話から3年後になる。もちろん純乗は兄の右腕として共に闘った。
純友は水軍の機動力を発揮し、すぐさま淡路の朝廷側兵器庫を襲い武器を奪う。続いて伊予・讃岐の国府を襲い船、官物を略奪し焼き討つ。そして瀬戸内海を縦横無尽に転戦した。
だが、朝廷が東国平将門の乱平定に送っていた軍を西に集中させる941年、本拠地日振島自体が朝廷軍に奪われてしまう。
二人はそこで終わったわけではないが。
菅原道真公の加護を得たためか否か定かではないが、純友軍は瀬戸内を西進し、大宰府を占領する。純乗が大宰少弐在任中にどんな策略を巡らし根回しをしていたかを知る者はいないとしても。
ただ、陸での戦いが好きな純乗は、大宰府に留まらず柳川方面に軍を進めたらしい。そこでの敗退が純友軍の負けを決めてしまった。
純友は捕らえられ宇和島の獄中で病死したとするのが定説ではあるが、船団を組んで南の海に逃れたと信じる者もいる。
朝廷の権力は絶対ではないと見せつけて、豊後水道を抜ける潮風のように生きた純友たち。
何もせずに死んでいくのがイヤだと言った男は、必ず海で逃げおおせたはずだと主張して、この歴史の転機の話を終えよう。
―了―
*藤原純乗が大宰少弐の官職にあった時期が調べきれませんでした。
**愛媛県で柑子、みかんが育てられるようになったのは結構近世らしいです。租庸調の庸(特産品)リストには遠州には柑子があるのに、伊予にはありませんでした。
***この頃の朝鮮半島は新羅が滅亡して高麗になった途端、中国は五代十国の時代です。
****太宰府天満宮のこの頃の名前が安楽寺天満宮です。大宰府のお役所と天満宮は距離にして2キロくらい離れているかと。
*****足摺岬に一度行ったことがありますが、海が瀬戸内とはもう別物で綺麗で荒くて威厳があって素敵でした。