天と地なのに両地点は東急線で繋がっている
メールが気になって仕方ないから、銀座の青島クリニックに連絡してみるか。どうせ電車賃使って銀座に行くなら、別な用事も済ませるか。というわけで、都営浅草線に乗り、東銀座駅で下車した。
ここの降り口はちょうど歌舞伎座と地下で繋がっていて歌舞伎が好きな人にとってはもってこいなのだ。が、いかんせん、久保田は興味がなかった。母親は東京は上野のちょっと先でとれた人間だったこともあり、また、女だったからだろうが、それなりに歌舞伎の演目を見知っていたようだ。戦前の生まれだから、生活だって着物の生活を経験しているし、歌舞伎と共通の落語の世界そのもののような長屋で育ったから、歌舞伎ぐらいあたり前だったのだろう。
しかし、息子の久保田は、からっきしだった。中学の頃、東京都の広報に歌舞伎鑑賞教室募集というのがあって、向上心に燃えていた思春期だったからだろう、はがきを出した。すると運よく当たって、2人分、席が確保されたのだ。本当なら女の子でも誘いたかったところだが、そんな気の利いたこともできず、気の合う男友達と二階席で大人しく見たものだった。
その時は人気絶頂の猿之助(香川照之のおとっつぁん)が出演し、宙乗りをやってくれた。周りは久保田たちと同様、歌舞伎が初めての中学生たちで、サーカスを見るような心地だったはずだ。話の中身より、まずは興味を持ってもらう。そういう方向だったのかもしれない。
そんなこともあったから、同じ日本に生まれ、一応、江戸っ子の端くれなら、歌舞伎の一つも覚えておこうという気持ちに。大人になってからも、歌舞伎座には何度か入った。会社帰りに、週末に、一幕見にトライした。最後の時間、または、その前、もしくは、その前の前、の一場だけを六百円から九百円のチケットで、急階段を一段飛ばしで上がって、客席に向かった。薄っぺらいガイドブックを買って話の筋を多少頭に入れて臨んだりもしてみた。
が、やっぱり、どうも、だめだった。男が声を裏返して女形を演じる、その違和感が抜けないまま、だった。西洋はオペラ、日本は歌舞伎、わからないはずはない。連獅子だ、なんだ、と頑張ったが、やっぱりだめだった。落語は好きだったから、世話物なら、と一本刀土俵入りを天井桟敷のような一番上の一番安い席で試したが、次にまた来たいという気にはならなかった。むしろ、コントのような力士の着ぐるみに目が行ったくらいで、いかに己にセンスがないかを再確認するだけで終わった。
青島のクリニックは歌舞伎座から歩いて一分のところにある。自社ビルの1Fで、父親と二人、診察をしているらしい。ホームページには二人の写真が載っていた。上の階は貸しスペースになっていて、最上階がペントハウスということだった。診察中に行くわけにいかないから、終了時間の夕方6時30分を目途に来たのだが、まだ15分くらいは時間がある。そこで、ビルの5Fに入る海苔屋に煎茶を買いに行くことにした。
親たちはお茶が好きで、築地の場外の大通りの角にある海苔屋の本店で、よく買っていた。常連になると当たり前のようにサンプルを送ってきたりして、当然、その度に、お茶以外の海苔などを買ったりする。が、先方も商売で、この客、ちょっと言えば買ってくれる、しかも、現金で、着払いで、金払いもいい。ならば、とこないだ買ったばかりなのに、一月もしないうちに営業電話が掛かってくる。あまりの頻度に、母親のほうが嫌気がさしたらしく、「あそこもいいけど・・」
それで、河岸を替えたのだ。日本橋の抱島屋に。抱島屋の地下に入るお茶屋は新宿区に本店がある。いつも接客する年配女性が如才なく、行く度毎に、買い物スタンプを余計にサービスして押してくれたりする。もちろん、行く度毎に、冷たく濃い一杯の試飲もさせてもらえる。デパートは女性にとってはきれいな洋服や食べ物など目と舌と五感を楽しませてくれるものに満ちている。女性店員さんたちは教育もいきとどいているのだろうが、如才なく、また、こぎれいにして、客側は安心して買い物を楽しむことができる。足が不自由になってからは、息子の久保田が代わりに買い物に行ったものだ。漬物を買ったり、おせんべいを買ったり、和菓子を買ったり、パンを買ったり、魚を買ったり、うなぎ弁当を買ったり、おこわ弁当を買ったり、シュウマイを買ったり、中華まんじゅうを買ったり、ベーコンを買ったり。くいしん坊だった母親のために、久保田はよろこんでお使いをしに行ったものだった。ぞうさんババールのように。
しかし、そのうち、親も他界し、抱島屋でも同じように時が流れ、しかもコロナ禍があったりすると、いろいろあるのだろう。お茶の質がガタッと落ちた。毎日飲んでいる客はわかるのだ。あっ、中身のグレードを落したな、と。そうなるとまた、客側は離れて行ってしまうのだ。
それゆえ、久保田はまた、築地の海苔屋に河岸を替えることになった。ここは抱島屋に入るお茶屋よりも、値段だけみると良心的である。あっちは、一パック85G。こっちは一パック100G。それで、同じ1620円。2023年の3月まではともにいい味のお茶を出していたのに、まったく、残念である。新茶と深蒸し茶、それぞれ同じ1620円をひとつづつ買って、外に出た。
蒸し暑かった。かけていた眼鏡が一気に曇った。中学1年に進学して以来、眼鏡をかけた生活を送ってた久保田だった。勉強をしすぎたのからなのか、テレビや漫画を見すぎたからなのかは、はっきりしない。少なくとも、ビニ本を見すぎたためではないことだけが、せめてもの救いだった。あれは、主に東大生を代表とする大学生が好む書物だったようである。当時は。
歌舞伎座から徒歩一分の、居酒屋が隣にあるビルが青山のクリニックだった。自動ドアのボタンを押すと、待合室兼受付が。カウンターのなかには中年の女性が二人、うすいピンク色の制服姿で、どうやら、店じまいの準備をしていたようだった。
「診察をご希望ですか」
すでに営業時間の6時30分になろうという時だったが、営業スマイルは崩さず、色の白いおかっぱ頭の女性が久保田に声をかけてきた。
「いや、私、青山先生の、中学高校時代の同級生で、久保田と言います。今日は診察じゃなくて、ちょっとしたお話をしたくて参りました」
すると、奥に座っていたもう一方の女性が立ち上がり、
「ああ、久保田さん、お久しぶりです」挨拶をしてくれた。青山の奥さんだった。ちょうど、最後の患者らしき背広姿の六十前後の紳士が診察室のドアを開けて出てきたから、「ちょっと、座って待っててください」そういうと、奥さんは代わりに中へと引っ込んだ。
白で統一された清潔感あるクリニックの空間は、心地よい音楽が小さな音量で流れていた。モーツァルトの曲をポップス風にアレンジした耳障りのいい音だった。ここの主のセンスがうかがわれるというものだ。しばらくすると、ご当人が奥から顔を出して、「おお、久保田」と感嘆の声を上げるとともに、来いよと手招きした。
十年以上ぶりの邂逅に互いにむせぶ涙、なんてことは当然あるはずもない。こっちは売れない弁護士。あっちは場所柄か、腕もいいのももちろんあって、商売繁盛の内科医。背も186cm、顔は最近、渋谷区神南からお台場へスカウトされたイケメンアナに似ていたから、余計、銀座界隈のOLや主婦層、さらには、夜の蝶にも人気があるに違いない。診察室に通してもらい、丸椅子に座って向かい合う。まるで、診察を受けに来た患者と先生といった具合だ。
「元気? 心配したよ。年賀状だけだったから」
「いやね、すいませんね。急に。実は」これこれ、こうこうで、と説明すると、青山医師は、
「いや、知らないなあ。そんなメールは。オレは出してないよ。それに、そんな女性は知らない。『私をたすけて。その後はきつく抱きしめて』なんて、そんな情熱的な女性なら、俺のほうで独り占めするよ、久保田にわざわざ紹介なんてしないよ」そう、けらけらと笑った。
そうか、それなら、いいんだ、とだけつぶやいて、「じゃ、またね、元気で」とつまらない言葉で、中高時代の友達と別れた久保田だった。
そうか、あいつ、知らないか。じゃ、なんで、メールの結びにあいつの名前が記されていたんだろうか。釈然としなかった。ここのところ暑くて、もちろん仕事もなくて、家に閉じこもってばかりの生活だった。「ヒキコモラー」といっていい生活ぶりだった。それが幸いとばかり、銀ブラでもして帰ることにした。
昭和通りを西に渡って、尾張町、つまりは三越方面へ。あっ、そうだ、三越の地下でも行ってみるか。さっき、お茶を買ったばかりだったし。文無しで、たいした趣味もなかった久保田は、それなら、と地下2階のお茶売り場を目指すことに。
デパ地下は混んでいた。外国人観光客も結構いたが、それ以上に日本人の女性たちが大勢、買い物を楽しんでいた。デパートは見るだけでも十二分に楽しい。特に、言い方悪いが、食い意地の張ってる女性たちはそうだろう。エスカレーターで下ったすぐの柱にフロアーの見取り図があったから、お茶売り場を確認した。なるほど、ウインドウの中には、丸い缶に入ったお茶が陳列されている。が、別に缶は要らないのだ。缶を食べるわけではないから。缶代だってお金である。誰が払うのか。全部、こっちが負担するのだ。そんなことを考えているのが表情に浮かんでいたのかどうなのかはわからないが、姉さん被りをした年配女性店員さんが「なにか、お求めですか」と人懐っこそうな笑顔でたずねてきた。
「いえ、観ているだけです。さっき、別のお店で買ったので」期待させるのも悪いから、正直に答えた。とはいえ、念のため、「袋に入った煎茶は、扱ってらっしゃらないですか」ときいてみると、
「あっ、こちらです」
脇の、壁に沿った個所に、棚が出来上がっていた。なるほど。ただ、知覧の文字は見当たらない。あれっ、ないのかな。ちょうど、お客さんも一段落したらしいのを見計らって、店員さんに聞いてみると、もう一人の、店長さんの女性が対応してくれた。
「鹿児島のお茶が、温暖の土地だけあって、おいしくて、いつもいただいているんです」そういうと、
「うちは、宇治のお茶をメインに扱っていまして」
そうなんだ。知らなかった。もっぱらガブガブ飲むのが専門で、茶道を究めているわけでもないから、知らなくて当然か。梅竹園という名前で、本来は問屋なのだという。デパートには東京にはここともう一店舗しか出していないのだと。
すでに2袋荷物にあったが、たまにはいいか、と『煎茶 緑のみぎり 100G』を買ってみた。酒やたばこ、ギャンブルに車に縁がなかったというか、単純に金もかかるし嫌いだしという消極的性格ゆえ一切手を出さなかった。それがため、せいぜい、お茶くらい、自分の範疇でぜいたくしてもいいか、と1620円を現金で支払った。
一階正面玄関から外へ出ると、また一気に眼鏡が曇った。それだけ外は湿度が高いということだろう。それなのに、人がいるわいるわ。ちょうど信号が青だったから日産ギャラリーのほうへ横断歩道を渡る。ここも昔とはずいぶん変わった。中に展示されている車も、まるでスーパーカーのような未来仕様。マイケルJフォックスの映画みたいに、過去へタイムスリップできるんじゃないかという気にさせてくれる、奇抜なデザインの車が飾られていた。
中央通りを進み、前・松坂屋、現・GINZA6を過ぎたところで左折し、2,3本行った通りを右折。すると、左手には着物姿の女性二人が食事を済ませた客を見送っている。へえ、さすが、銀座はいいもんだなあ、とすっかりおのぼりさん気分の久保田は、天ぷら屋へと向かった。が、頭のなかは、食欲よりも色欲に占拠されつつあった。
今からウン十年も前に時計の針を戻したとおもいねえ。久保田も正確には覚えていないが、たしか、新橋寄りの、つまりは銀座8丁目7丁目6丁目あたりの、裏通りでのことだった。白いTシャツにジーンズ、真っ赤な肩掛けリュックといういで立ちで銀座を歩いていた時のこと。はた、ととある御仁を見かけたのである。当時、ニュースを普通に見るような人間なら、「あれっ、H高Y樹さんじゃないか」とだれもが気づくような報道マンだった。神南の放送局を退職した後だったか、それとも在職中だったかは記憶にないが、とにかく、いつもテレビで見る茶色の色眼鏡をそのまま掛けて、妙齢の着物美人と立ち話に興じていたのだ。そうだ、まさに興じていたといっていい。なぜなら、カメラの前でレポートしてみせる、きちんとした日本語を使った会話ではなく、はっきりいってぞんざいな、よく言えば、ざっくばらんな物言いを若い女性に対してしていたわけだから。相手の女性もまんざらではなかったようで、二人のなかにはまったく遠慮という文字が存在していないかのようだった。
あくまでも純粋で疑うことを知らなかった若者だった久保田は、まだおてんとう様が高い日の午後、銀座の裏通りで偶然出会った憧れのジャーナリストに少々面食らった。
あれっ、H高さん、なんでこんなところにいらっしゃるんだろう。
それはそうである。これまでH高さんといえば、アメリカ総局で、ワシントンやアメリカ空母の甲板上からさっそうとレポートを日本中の視聴者へ届けてくださった方だ。それが、どうして、あろうことか、銀座の裏通りで、しかも着物を着た女性と、肝胆相照らすと言っていいほどのバリヤーのない関係のなか、立ち話をしているのだろう。
ああ、そうか、わかったぞ。久保田はおもわず、膝を打った。そうだ、この女性は姪御さんなんだ、そうだそうだ。きっと、江戸っ子の姪御さんが親戚にいて、その職場に顔を見せてやった、とこういうことなんだな。なるほど。
「おじさま、いつも、拝見してますのよ」
「そうかい。どうだい、俺のレポートは」
「いつも明解で、ほれぼれしますわ。とくに、アメリカのホワイトハウス前からの中継なんか、私の友達も、みんな感心しちゃって。一度は会ってみたいわ、ねえ、今度お食事会でも開いてよ、お願いって、せがまれちゃって大変なんですよ」
そんな会話が即座に浮かんできたのだが、それにしては、なんか、二人の雰囲気が、顔が、形が、表情が、血の繋がった親族のようには見えなかった。そこが、どうにも、久保田は腑に落ちず、その後、10年以上にわたり悩まされるはめとなった。
ただ、もちろん、そんなことより、嬉しさのほうが何百倍も大きかったことは事実である。『H高レポート』をこんなに間近で見ることができたのはまことに得難い体験であることに変わりはない。お金をいくら積んだって積みたりないと断言できる。いや、もしかしたら、罪足りないのは、ご本人だったかもしれない。何十年後に、こうやって、しっかり、白日の下にさらされるわけだから。そんなことないか。
天ぷら屋の店内は小学校の教室よりも狭いようなスペースにカウンターとテーブルがあって、おそらく20名くらいで満員なのだろう。この店、ついこの間まで、中央通りに大きくお店を構えていたのだ。久保田も父親と母親と三人でよく食べに来た。良心的な商売をしているいいお店だった。が、どうしたわけか、その土地も人手に渡り、いまでは、2本3本も奥に入ったビルの1Fでの商いとなっていた。