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田園調布が戸越銀座の軍門に下る日

<あ~ぁ、せっかくの副業にあぶれちゃった>


 『副業』って言ったって、旦那彼氏が隣の部屋から覗いている最中に奥さん恋人といたすだけのこと。それを一回くらい逃したからって、なんであろうか。しかし、本業もまともに務めていないオケラ弁護士にとって、わずかなお給金でもいただけることに変わりないお仕事『〇〇棒稼業』は有難いなんてもんじゃなかった。命綱でもあるし、社会との辛うじての接点、といってもよかった。


 久保田はJR山手線五反田駅の切符売り場の前で茫然と立ち尽くしていた。頭上には大きな路線図が。


<渋谷か・・ あそこもいいけど、人だらけだからなあ。若者ばっかり、バカ者ばっかりで。最近じゃ、駅前のハチ公周辺に、あわよくばのユーチューバーがお店広げてるし。彼らに、またあわよくばの小娘たちも群がってるし。まあ、そういう自分もあわよくばという意味じゃ、おんなじ仲間なんだけど。俳優の佐藤浩市のおとっつぁんで、往年の映画スター・三国連太郎みてぇだなあ。昔、女優との濡れ場で、抜き身で撮影に及ぶっていうからなあ。すげえ度胸だよなあ。さすがに女優もわかるから、血相変えて、「監督っ! この人、本気なんですっ」 あわよくばも、ここまでくれば芸だよね>


たったいま、改札内から大量に人々が吐き出されては、久保田に襲い掛かってきた。うわっ、すごい人の数。そりゃそうだ。会社帰りのサラリーマン、サラリーウーマン、もちろん学生たちも我先にと家路を急ぐべく、都営浅草線へと乗り換えるのだ。それか、徒歩で自宅へ戻るのか。


<いいよなあ、まともな目標のある仕事を持ってさあ。俺なんて、正義の味方になるべく弁護士になったはいいけれど、まったくお客がないんだもんなあ。嫌になっちゃうよ。それで、副業もすっぽかされて>


 現実からまた妄想へ逃げ込む久保田は路線図を見上げながら、


<原宿かあ・・ 原宿も10代の女の子ばっかりだからなあ。まあ、可愛いんだけど、40過ぎ50近いおっさんが手を出すには忍びないしなあ。かといって、その母親たちってわけにもいかないし。まあ、いっそのこと、親子どんぶりって手もないことはないんだけど・・>


 親子どんぶりというワードが勝手に頭のなかに浮かんだところで、急に醤油のにおいが鼻孔を突いた。切符売り場の隣の立ち食い蕎麦屋から流れ出る外気だった。


<そばか。いい匂いだなあ。喰いてえなあ。蕎麦。とはいえ、一杯のかけそばだって、ここのところの物価高で結構な値段なんだよなあ。それに・・待てよ、ネズミが混入しているってことだってありえるからなあ。数年前、駅そばの厨房によくあるおつゆの入ったステンレス製の寸銅鍋のなかの奥のほうに、ぐつぐついい具合に煮込んだネズミの死骸が見つかったなんてニュースが。たしかあれって、具合の悪くなった人は自主的に申し出ればお金を返します、とかあったような。それでお金返してもらっても・・返してもらえないよりはいいけど・・店側のせめてもの良心なんだろうなあ>


「おまたせ~! 待った?」


「うん、ぜんぜん。それより、おなかすいたでしょ、なに食べる?」


 さっきから男が白いイヤホンをしながらスマホに見入っていると思ったら、彼女らしきのが飛びついてきた。双方、学生らしい。親元離れて自由にやってやがるんだな、と横目ににがにがしくもうらやましい久保田だったが、そのカップル、人目もはばからず、二人の世界を築き始めた。


「なんでもいいよ、ひろ君の好きなもので」


「じゃあ、まず、コンビニ、行く」


「いいよ」


 ふたりは当然のごとく、女にひでった久保田のことなど目もくれず、有楽街方面へと消えていった。


<なんだ、結局、やりたいだけじゃないか。男も男だよ。「なに食べる?」なんて白々しくも宣いやがって。決まってんだろうが、まったく。どいつもこいつも、くだらねえ奴らばっかだ>


 ひとしきり、心のなかで吠えるも、やりきれなさが消えるはずもない。


<どうしようかなあ。どこ、いこうかなあ。せっかくだから、歩くか>


 ヤリたいけどヤレなかったときは、人間、歩くに限るのだ。無駄な体力を発散させるに限るのだ。そんなことせずに、電車に乗ったっていいことない。ストレスが内側にたまっていくだけだし、下手をすれば目の前の美人によからぬことをしでかさないとも限らない。それこそ、テレビのニュースで変態野郎のレッテルを張られて、全国に知られて、人生再起不能に陥ってしまうだけだ。久保田は長年の独身生活、彼女いない生活から、自己防衛のやり方を自ら編み出しては、なんとかかんとか、複雑極まりない現代社会を生き抜いていた。よって、さんざん頭の中で欲望と闘った挙句、いつもの結論に達し、五反田駅からまっすぐ北に延びる桜田通りの坂道をゆっくりと歩き始めた。


 この辺りは、もともと五反の田んぼがあったから、その名がついたと言われている。最近ではエッチな代名詞でよく話題に上るのが、土着の人間としてはなんとも可笑しい。自分も男だから、別に、たいして嫌とも思わない。スケベ、結構じゃないか。人間、そういうもよおした気持ちがなきゃ、繁栄してこなかったのだから。むしろ、そういう街だということに、40過ぎまで気づかなかった自分に、少々、腹立たしい思いが残っている、というのが久保田の本音のところなのだ。


 親から実際に言われたかどうかははっきり覚えていない。ただ、盛り場はやくざが寄ってくるからいかないほうがいい、とは何度も注意されてきた。だからだろう。近場の五反田の、その奥の院には、ほとんど足を踏み入れなかったのは。学校卒業して、勤め人になってから、周りの先輩たちに教わった。自分が五反田近辺に住むとわかると、


「あの街は、新しい風俗で有名なんだよ」


 などと、やに下げて、講釈しはじめるのだ。おとなの男どもは。たしかに、久保田もうすうすは知らなくはなかった。エロのDVDなどをいかがわしい本屋で買うと、五反田の風俗店が紹介されていたりして。それも、新手の。「デコチンくらぶ」などという名前で。DVDをチェックすると、なるほど・・・ そういう遊び方があるのね。それくらいの予備知識は20代も半ばだったから、身にはつけていた。が、だからといって、実際に安くないお金を払って、遊びに行く気にはならなかった。なにせ、おつりまでもらう可能性が大だったから。その辺、結構、保守的だったのだ。


 桜田通りの坂を左に折れれば、池田山。そのまままっすぐ進めば高輪台。途中を右に行けば島津山。結構な高級住宅地になっている。とてもとても庶民には手が出ない。まあ、天上界と下界という構図なら、これほどわかりやすい場所も珍しいかもしれない。


 坂の途中に雉子神社があって、この奥に、池波正太郎の小説『仕掛人梅安』の主人公が居を構えていることになっている。神社の隣は、幸福の科学。坂を上りきると都営浅草線高輪台駅で、そこを右に折れて数十メートルで、旧東海道にぶつかる。旧道は片側一車線で広くはないが、台地の稜線を進むことになるから、想像力を巡らせると結構楽しい。ひょっとすると江戸の頃、やじさん、きたさんもここを通ったんじゃないかと。品川宿はすぐそばだから、きっと、旅籠の飯盛り女目当てに心躍らせて道中を急いだんじゃないだろうか。





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