田園調布が戸越銀座の軍門に下る日
同じ週末、神奈川県横浜市の住宅に賊が押し入った。住民だった90代の女性は一人暮らしで、手足を粘着テープでぐるぐる巻きにされていた。近隣の人々がおかしい、と察知して通報したから命が助かったものの、もし、野原の一軒家だったら、白骨化していたかもしれない。
ここのところ、「闇バイト」による凶悪事件が頻発しており、警察も躍起になっている。周辺の監視カメラの解析を進めた甲斐もあり、一人また一人とぞろぞろ犯人が逮捕されていった。当たり前である。悪いことをしておいて、うまく逃げおおせるなどと思ったら、大間違いである。
赤坂の芸能プロダクション社長は、いつまで経っても五反田の古書店主が他人〇を寄こさないのでヤキモキしていた。
「どうなってんだ、あのおやじは。こっちは予定組んで撮影しようってのに」
社員兼AV男優兼半グレメンバーの井上拓也も、
「少しどやしつけてきましょうか」と社長に加勢するが、
「やめろ。お前は動かなくていい」一喝された。
それはそうだ。下手に暴力を使ったとしたら警察が嗅ぎつけて必ずやってくる。ただでさえこのアダルト業界はヤクザ・半グレのしのぎだと言われているのだ。経営者としては用心に用心を重ねるに越したことはない。
「しかたない。自前でやるか」
「とおっしゃいますと」
「お前やれ」
「え、オレがヤルんですか。NTRもので」
そう返す井上の顔はうれしさとヤバさが取っ組み合いのけんかを繰り広げているふうだった。笑いながら怒る顔などで今や国民的大俳優となった竹中直人とおんなじ。井上は20代の半グレだったから、頭のなかはヤルことと飯を食うことといい車に乗ること以外に余白がない。一番の関心事は女体だ。だから、うれしいなんてもんじゃない。ましてや一役者としてドラマにかかわることができて、気持ちよく精子を放出して、そのうえで、お給金までもらえるのだ。もちろん、雀の涙程度ではあるにせよ、こんなに幸せなことはないではないか。
しかし、いっぽうで、もし世間にバレたら、どうしよう。警察にマークされてしまうかも。これまでも数えきれないほどの非行を積み重ねてきた。少年院に入り、そこをやっと出たと思ったら、今度は半グレに引きずり込まれて、幹部のつてで、芸能プロダクションで働いている。さんざん裏街道を歩いてきたから、人前に顔をさらすのは極力避けたい。だけど、ヤリたい。ヤリたいけれど、顔出ししたくない。いったいどうすりゃあいいんだ。その懊悩がきっと傍から見て取れたのだろう。社長は一言、
「顔出しはしないから。目出し帽で行くから」
「目出し棒ですか。それはいいアイデアですね」
「いいアイデアだろ、目出し帽」
「ええ、グットアイデアですよ、目出し棒」
ふたりの会話が微妙にかみあっていないのを、お分かりいただけるだろうか。
五反田有楽街の北の端にあるラブホテル『ベル・エポック』(通りに面した壁面に気持ちの悪いトカゲのオブジェが数匹這っていて、夜になると、一匹ずつ点滅する)の寝取り部屋へ社長以下撮影スタッフは集合した。
その日、依頼者の来ないオケラ弁護士久保田祐貴は散歩に出た。だいたいが、近所の文庫の森、戸越公園、さらにはJR大井町駅方面というコースなのだが、久しぶりに北へと第二京浜国道さらに途中から名前変わって桜田通りへと歩いた。JR山手線五反田駅高架下をくぐると、駅前ロータリー。その先は言わずと知れた、五反田遊郭だ。病気が怖くて、お金ももったいなくて、また、あまりに近所すぎて知り合いにもしくは顔を見られた人に商店街あたりですれ違ったらまずいな、という勇気のなさもあって、一度も五反田で遊んだことはなかった。その代わり、風俗関係の無料体験動画は何度も穴のあくほど視聴し続けているのは言うまでもない。それゆえに、実際に遊んだ人以上に、五反田にどんな種類の店があるかは常にアップデートできてきたという自負があった。
中央通りは右にカーブがかかっているというのは周知のとおり。するとすぐの4つ角には客引きが待ってましたとばかりに網を張っては近づいてくる。女性のおねーちゃん系の客引きなら許せるが、強面系のオレオレ系じゃ恐ろしくてしかたない。よって、彼らとは目を合わせることなく、右折してまた左折して、大通りを一本入った並行の裏道を行く。すると、ぽつりぽつりと客と女の子のカップルがホテルへと消えていき、または事が終わったのか裏口から出てきては、ともに「バイバイ」と手をふって別方向へと歩きだしている。女たちは置屋となっているマンションの一室か飲み屋かまたはラブホに隣接した控室へと消えていく。何千人も在籍しているなどと宣伝文句で謳っていたり、ときに手入れなどあるとマスコミの男どもも、「女子大生やOLなど素人女性が何千人も登録していた」などと大々的に書き立てるが、あれもどうかと思う。ほんとに裏取りしてんの? そのまま風俗サイトの文言をコピペして記事に加えてないよね。散歩で定期的に有楽街へ足を運んでかるく十年以上経つ久保田は、新聞社会面に載るこういったベタ記事の、いうなれば興味本位部分については、いつも眉唾だなと半信半疑だ。
ラブホ『ベル・エポック』の北隣の赤レンガビル、つまりは、『風俗ビル』などがいい例だ。2階はデリヘル事務所だが、入り口の天井から50センチほどのガラスの仕切りには、8店舗くらいの名前が列挙されている。中央通り4つ角近くの、地下にあるピンクサロンもしかり。デリヘルと兼業している嬢が大勢いるようにおみうけする。
そんなふうに観察を続けつつ歩いていると、見知った顔が。
「あっ、あいつ、AV男優じゃないか。となると、あの娘はだれだ? まだ見たことない顔だな。デビューか、それとも、デビュー前に味見か? どいつもこいつも、適当なことしやがって。あっ、二人で手つないで、ラブホ『ベル・エポック』に・・あっ、いま、入った」
実況中継して、どうする。いい歳こいて。自分もやれよ、彼女でも見つけて。そう突っ込みたくなる、でくのぼう、久保田祐貴。
急に下半身が燃え上がってきた。つけてみるか? よせよ、危ない。一人で自問自答する40半ばの独身男。と、そこへ、パトカーが巡回にやってきた。
あっ、パトカーだ。治安もよくないから、警察だって大変だよ。こっちも、ふらふらしてないで、そろそろ家路に着くか。と踵を返して、有楽街を駅前ロータリーまで出た。コンビニのローソンによって、なにか買って帰るかと棚の間を行き来するも、めぼしいものがあるはずもない。だいたい、コンビニは割高だ。最近、セブンは上げ底で弁当なんかは評判悪いし。それゆえ、久保田もしばらく買っていない。それより、大手スーパーマーケットの『ワイフ戸越大崎店』のほうが安いし、夜8時過ぎに行けば、安売りシールを貼って、時間切れの商品を一掃するよう努力している。貧乏人には優しいのだ。どうせなら戸越に戻ってからにするか、と何も買わずにローソンを出た時だった。なにやら、パトカーが店の前に停まっているなあ、と思ったら、出口に大柄な制服警官が一人立っていた。
「ちょっといいですか?」
いきなり、久保田に話しかけてきた。
「えっ、なんですか?」
「所持品検査をしてもよろしいですか?」
「えっ、なんでですか?」
「その肩から掛けられている大きなバック、なにが入っていますか?」
晴天のへきれきだった。何年も前に金融機関からもらった布バックだった。なんでも入れることができて、それでいて頑丈で、重宝していた。だから、この日も、ノートだ本だタオルだドリンクだと入れるだけ入れて持ち運んでいた。それを不審に思ったのだろうか・
しまいには、パトカーからもう一人警察官が下りてきて、二人して、職務質問だけでなく身体検査までさせられるハメとなった。遠巻きに、違法中国人マッサージ女たちに気の毒な目で見られて。さんざんな目にあった。
屈辱だった。なんでこんな思いをしなけりゃならなかったのか。大崎警察署曰く、パトカーに反転したのが決め手となったらしい。久保田はただ、ああ、パトカーが警戒に来たのだから、そろそろ迷惑になるし、帰ったほうがいいかもな、と思って、反転しただけなのだ。が、制服警官は「あやしい」と見たらしい。身体検査もショックだったのだが、定期入れのなかまで見られたうえで、何もないとわかると、二人の警官が笑いながらパトカーに戻っていったことだ。あれは、照れ隠しのつもりだろうか。警官のなかには、警察権力を行使したいがため、警官になるというタイプもいると、なにかのアンケートで読んだことがある。気持ちは人間としてわからないではない。久保田も立場がそうなら、一度くらい、そういうことをやってしまうかもしれない、という気もする。が、やっぱりかなり心に対して打撃だった。数週間、数か月、数年は心の傷を癒すのに時間が必要になるであろう。ただ、言えるのは、いい歳をした大人が用もなく、ただ単に冷やかしで、もの欲しそうな顔をして、有楽街などに出張らないことだ。結局、余計に警察官の仕事を増やしてしまったわけだし、久保田も気分がよくないしで、いいことなんてひとつもない。まあ、ひやかしも金貸しもご利用は計画的に。




