田園調布が戸越銀座の軍門に下る日
毛並みの違った男が近づいてきたのだ。一見して、カタギではないとわかる。そっちの世界の人間だな、と。店主は己のタマキンがきゅっと収縮する音をかすかに聴いた。
「おたくさん、ご主人、お店の?」
パナマ帽が店先に立つ店主に声を掛けた。
「は、そうですが、なにか、ご用ですか」
店主だって、この色街で先祖代々お店を開いているのだから、おいそれと、新参者にやられはしない。
そんな心の内を悟ったのか、パナマ帽は、
「いやねえ、人のうわさを聞きつけましてね。こちらは、普通の古本屋さんじゃないとのことで」
なるほど。それなら、とおやじは、最新の注意を払いつつも、男を店内に招き入れた。
昨今、品川区内も、オレオレ詐欺だ、闇バイトだ、などと物騒で、管内の大崎警察署からも直々に注意喚起とともになにかあったらすぐに110番してください、と連絡が入っていたのだ。170cm台のパナマ帽は、年齢からすると50代くらいで、中年ゆえ、お腹も出て、顔もかなり肉がついてきていた。ただ、犯行を行うなら2人組以上だろうし、また、ちょうど、有楽街はかき入れ時で人通りも多い。こんな足がつくような時間帯に犯罪も行わないだろう、との経験則で、店内で話を聞くことにしたのだ。
ただ、いつものようには、お茶を入れたりしなかった。ただ、店の奥のレジがある定位置におやじは腰を掛け、先方は立たせたままで向き合った。
「ウチのことは、どうやって知りましたか?」
まずは、そこからだ。五反田の古本屋が口利き屋をしているというのは、相当なスキ者か事情通でなければ知りえない話だからだ。
「裏のGタワーズさんから、話を聞きまして」
「ふ~ん」
Gタワーズか・・それなら、いや、それがもし本当なら、という仮定の話ではあるが、同町会で、かつ、懇意というか、上得意のGタワーズさんなら、仕方ないか・・ Gタワーズとは、業界最大手のAV女優プロダクション兼制作会社のことである。裏通りの焼き鳥屋の隣にあり、なぜか、階段の勾配がかなりきつい作りになっているビルに入居している。所属しているのは男性ならば一度ならずはお世話になった、または、これからお世話になる女優ばかり。「朝比奈」「天海」「七ツ森」「涼森」「里美」「仲村」「初川」「長浜」など、綺羅星のごとく在籍していた。
「で、どういうご要望で」
「ウチもアダルトビデオを制作してますんで、できることなら、男優という立ち位置で、お願いしたいんです」
ほんとは、こういう依頼は受けたくなかった。しかし、一度、裏のGタワーズの仕事を受けてしまったが最後、もう、業界からの要請は逃げられなかった。あそこは依頼したのに、ウチはだめなのか、と。別に、やくざが脅すというわけではないのだが、整合性の観点からあっちはOKでこっちはダメというのはよくないだろうと。結構、おやじは固いのである。
「では、どんな棒をご所望ですか。ロング、ショート、ワイド、カーブにシュートにつんとしてるのとか、秋の稲穂のようにこうべを垂れているのとか、いろいろタイプは揃えられますが」
「そんなにこだわりはありません。ただ、清潔感のある人であるならば。もちろん、病気のない人ですね」
「もちろんです。その点は、ウチも、この辺の風俗店とおなじように、懇意にしている性病科の先生に検査してもらいますから。その結果票とともに、棒をお宅様へ差し向けますので」
棒を差し向けるとは、なかなか、いい得て妙だなと、双方ともにおっさんの以心伝心で、話はかなりスムースに進んでいるようすだった。
五反田はさすがに歓楽街を控えているだけあって、性病科を掲げている病院がいくつかあった。そのなかでも、テレビによく出る先生が経営しているクリニックで、第三の男の状態を測ることを常としていた。
まずは、問診票を記入してから、先生の診察がある。郵送による検査キットで、という手もあるが、時間も金もかかるから、あるじは通院を義務付けていた。クラミジア、ヘルペス、淋病、尖圭コンジローマ、梅毒、カンジタ、亀頭包皮炎、トリコモナス、毛じらみ、膀胱炎、B型肝炎、HIVが、主なものだが、とくに、梅毒が急増している。(『「性病』の症状と予防法」:セルバ出版発行による)
しかし、というか、当然というか、とにかく幸いにも、この仕事を副業としようとする男たちは、大概、身持ちの堅い連中ばかりだった。それに、経済的にも比較的裕福な層がほとんどだった。というのも、それはひとえに、あるじが面接や興信所などを活用し、男たちの身元をしっかり裏取りするという地道な努力があったからなのだが。ただ、いたづらに、やりたいだけの性欲120%のようなのは選考段階から除いていた。それゆえ、性病を患っているというケースはこれまで一人も、一回もなかったのだ。その点、極めて、安全パイであり、どこの女風よりも、おそらくは心配が要らないであろう。
「こういう商売ですから、一応、いくつか聞いておきたいことがありまして」
おやじは、あとあとトラブルになって、当局の手間を煩わせるのもよろしくないと、入り口はかなり厳しく詰問することにしていた。日本の入管よりもひょっとすると厳しかったかもしれない。
「まず、どんな作品に、この単独さんをお使いなさるおつもりで・・」
「当然のことですが、NTR作品です。小学生のこどもが1人いる家庭の夫婦間での話です。旦那さんが都議会議員、奥さんは大学で教えている。実は、奥さんには研究室の大学院生という若いイケメンのセカンドパートナーがいるという設定です」
また、ろくでもない話を考えやがって。ほんと、アダルト業界はろくなやつがいないな、とおやじは表情こそ変えないが、内心、へどをはきたかった。だいたい、なんだ、セカンドパートナーって。そんなもん、実際にあるわけないじゃないか。そういやあ、かの公共放送も、似たような名前のスキャンダラスなドラマを10年ほど前に放送したことあったよな。なんだっけなあ。『セカンドなんとか』とか。だから、この業界の連中は、頭がおかしくなっちゃうんだよ。ただでさえ、自分たちはテレビ業界の人間だってのぼせ上って特権意識ばっかりで。そこへもってきて、不倫奨励番組のオンパレードだからなあ。おかしくなるだろ。少しは独身のおれにだって、おこぼれくれたってよさそうなもんじゃないか。おやじは、稼業が口入れ屋であるのをすっかり忘れて、憤りを抑えきれないらしかった。
「じゃあ、その奥さんである大学の先生がウチのと相まみえる、と、こういうわけですね」
「いやあ、 その点は、まだ創作中でして」
「とおっしゃいますと」
「もう一組、カップルを登場させようかとも思ってるんです」
「はあ・・」
スワッピングか。ひと昔前、ふた昔前、いや、さん昔前だったか、やけに流行った。おやじは、あまり横文字に興味が持てなかった。日本人なら日本人らしく日本語で勝負すべきではないのかと。
「夫婦の交換ものですか」
「いえ、それとも違うのにしようかと」
わからない。長い間、この仕事をしているあるじだったが、まったく想像がつかなかった。
「すいません。それはいったい、どういう話になっていくんでございましょう」
「もう一組のカップルは、例えば、築地の老舗寿司屋の3代目だったりするんですよ。若旦那が。お相手は同業者の、やっぱり老舗寿司屋の親方の娘さん。若旦那のおじいさんの代からのお店が築地魚河岸の場外の斜め前にあって、若旦那も当然、銀座なんかで結構遊んでるんです。だけど、一通り遊んだ後は、もう飽きちゃって。変わったのをトライしたいな、と思うじゃないですか、人間だれしも」
思うかねえ、そんなこと。まあ、銀座の並木通りあたりの高級クラブなんかに一度たりともご相伴にあずかったことなどないあるじは、違った世界には違った趣味の人たちがいるもんだ、と単純におどろいた。
「それで、若旦那は、自分の家庭は絶対壊すつもりなどない。子供だって、まだ小さい。最近、天現寺のトコロテン式小学校に入学させたばかりだ。お金もかかる。奥さんはもっぱら坊やにかかりっきり。旦那の世話なんてこれっぽっちも焼いてくれない。まあ、そのほうが若旦那としては都合がいい。いざというときは、『お前が、おれのことちっともかまってくれなかったから、外で慰めてもらったんだ』などと嘘の涙をちょっと流して駄々っ子を演出すればいいだけの話。奥さんだって、ほんと、この人って、こどもみたいねえ。私がいないと何一つできないのね、と母性本能が湧いて出て、その晩は二人そろって仲良くお休みになる。万事問題解決だ」
「ちょっと待ってください。それじゃ、なんにも面白くないじゃないですか、映像を見ているこっち側は。どうするんですか」
「まあ、待ってくださいよ。そういう夫婦円満を描くいっぽうで、もうひとつの世界、いまでいうところの、パラレルワールドっていうんですか。始まるんですよ」
店の前のドン・キホーテ前では、柄の悪い客引きがサラリーマン5人の集団をまとめて吊り上げようと腐心していた。どうせ、壱番街の地下のガルバに違いない。キャストの女の子全員がビキニ姿で接待してくれる『ガルバ浦島太郎』に。
「若旦那は都議会議員と小学校からの友達だった」
「トコロテン式の」
「そう。トコロテン式で小学校から大学まで一緒。看板の経済学部。それでいて、二人とも、部活動はスキー部だったから、金のかかる遊びばっかり覚えて。都議会議員のほうは、やっぱりおじいさんの代から政治家で。いうなれば悪友ですね。銀座での遊びも一緒」
「なるほど。ありがちな話ですね。大学は出たけれど、使い物にならない人間が出来上がったと」
「そうです。まあ、それでも、おいおい、政治も覚え、すしの握り方や接客も覚えていくことになるんでしょうが。若旦那が議員に持ちかける。『今度、君ら夫婦の営みを見せてくれよ』と」
ばかな。あるじはつくづく、自分の稼業がいやになった。オレはなんてくだらない仕事を生業としているのかと。もう少し、ましな仕事を受け継ぐことができたらどれだけよかったか。この仕事は胸を張って言える仕事ではない。それゆえ、これまで、身近な友達・知り合いに、打ち明けたことなどなかった。本音で語り合えたことがなかった。これは色街で生まれた人間の宿命なのではないか、と感情を押し殺して生きてきたこの65年の人生だった。
「わかりました、だいたい。それじゃあ、いつがよろしいですか? それによって、こっちもみつくろいますので」
話を最後まで聞くのがばかばかしくて、あるじは途中で審査を打ち切った。ああ、ばかばかしい。パナマ帽が夜の街へと消えた後、冷蔵庫に冷してあった緑茶の茶葉を急須に入れて、じっくりと一番茶を飲んだ。
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