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田園調布が戸越銀座の軍門に下る日

本部長夫婦はほんとに初めて来たのかどうかはわからない。が、後ろ姿を眺めていると、きょろきょろと、まるで観光地にでもやってきたようなふうだった。太鼓腹部長はときどき、奥さんの手をとっては、道の真ん中をスキップなどしているではないか。なかなか見かけない光景だった。60過ぎ、いや、太鼓腹部長はとうに70の半ばに達しているはずだ。そんな夫婦をここまでふわつかせるほどの魅力がこの商店街にあったなんて・・ 田園調布と戸越銀座とのあまりのギャップが、スキップとして表出しているのは紛れもない事実なのだから。

ほんとに、来たことなかったのかもしれないな。久保田は、いままでの悪態をちょっと申し訳なく感じた。が、たとえそうだとしたって、それにあまりある意地悪を見せつけられたのだから、そうすぐに反省するなんて、それこそ、バカの貧乏人のルーティーンだ。だから、バカで貧乏人は現状で満足しちゃって底辺から絶対に這い上がれないのだ。いかん、いかん。この程度で、庶民の分際で、上層部の人間たちに対して、申し訳なさなど感じること自体、どだい間違っているのだ。結局、かつての上司とは挨拶を交わさなかった。が、これでいいのだ。まだ、そこまで人間が練れていないのだから、無理に繕う必要もない。久保田は、いつの日か、対人間として、田園調布と差しで向き合いたいと切に願った。


「それじゃあ、まず、一回、やってみましょう」

 そう言うや、腹の突き出た中年男、食堂『丸太屋』主人は、グレーのマットにごろんと横になった。足元には50センチ四方の鏡が置かれている。足元と鏡の間に、SNSに応募してきた女子大3年生の新人が、エステシャンらしい白を基調としたボディコンふう制服でひざまずいていた。

 都営地下鉄大江戸線・メトロ南北線麻布十番駅商店街出口から地上へ出るとすぐ目の前が桜田通り。その通りを南へ、つまり、五反田・戸越方面へ100メートルほど戻った所。首都高速真下二の橋の真ん前マンションの一室である。ここなら、場所柄、男どもがくるはずだ。芝公園テレビ、六本木テレビ、赤坂テレビを始めとした業界のスケベ連中たちは言うに及ばず、芝公園、三田、六本木のサラリーマン、いや、地方から東京へ出張にお越しの際にはぜひ当店までお越しください、と宣伝するのに絶好の地の利。芝の増上寺をお参りするもよし、東京タワーで見物するもよし、麻布の暗闇坂あたりを歩いてはあるはずのない落語「黄金餅」のなかに出てくる釜無村の木蓮寺をのこのこ訪ねるもよし、六本木で一杯引っかけてはラウンジ嬢のおしりやおっぱいをめでるもよし、なにをするにも、便利になった場所だ。地下鉄が敷かれるつい数十年前は、陸の孤島などと揶揄された十番だが、だいぶ便利になったといっていいだろう。事実、先達のテレビマンが副業に始めて儲かりすぎて逮捕された、なんてニュースも世間を賑わしたばかりである。

風俗営業の届け出も麻布警察署に済ませたし、後は、税務署への申告さえ、嘘偽りなく処理すれば、それこそ、合法的に、うっはうっは、がっぽがっぽ、お金が転がり込んでくるはずだ。そう、皮算用してみたのだが、実際は、なかなか。マッサージの女の子も、いまのところ、一人しか面接に来てくれていなかった。唯一来たのが、少々、おつむのおあったかい、ボインちゃんだったのだ。

「あの~、社長さん」

 多少、不服そうな表情で、彼女がたずねる。社長はすでに枕に頭を乗せて、天井を向いてはスタンバイしていた。

「なに」

 社長は、彼女に目をくれることもなく、天井に目をやったまま対応している。

「私の後ろの鏡って、なんか意味あります?」

 おぼこ娘なのか、おぼこ娘ふうなのかは測り様がないが、いかんせん、そう質問してきた。

「そりゃあ、こういうお店だからさあ、すべてにわたって、お客さんをリラックスしてあげないといけないからねえ。五感で味わっていただかないと」

「はぁ~」いまだ、不服そうである。「丸見えなんじゃないんですか、これって・・? わたしが前かがみになって、社長のことをマッサージしてると・・」

 痛いところを突いてきた。こういうとき、メンズエステの経営者なら、どう返すべきなのだろうか。これまで戸越銀座で大衆食堂しか経営してこなかったから、分野が違いすぎて、とっさには応対できない。

「まあ、おいおい、わかるよ」

 こういうところが、甲羅を経た人間のずるいところである。

「そうですかぁ~」

 応募してきた子も、少々おつむがこれなのか、多少見えたって、コンビニやマクドナルドのバイトよりはるかにいいお給金だから、いいかって、いうことなのか。まあ、だいたい、そんなところなのだろう。経営者と従業員とで、俗にいう『研修』を始めようとするところだった。

 社長はといえば、奥さんには友達とゴルフに行ってくる、という言い訳で朝っぱらからクラブ担いで抜け出してきたから、そのクラブは、借りた麻布十番のワンルームマンションの端っこに横にして置いてあった。

 あおむけで肩や腕のマッサージから始まった。そのうちに、腿や脚へ。もっと、やわらかく、とか、もう少し、丹念に、など、部位によって、従業員を指導していく社長。一通り終わると、今度はよいしょっと体を起こして、裏返し。『目黒のさんま』かァ? また、また同じように上から下までやって、次は、「今度は、おじさんのお尻の上に乗ってみて」

「えっ?」

 心底おどろいたらしかった。指示したほうは、なにがいけなかったのか、いまいち掴めていない。もう一度、

「おじさんのお尻の上にそのまま跨ってみて」

「えっ?」

 なんだこの娘は、話も通じないのか。少々、いらつく気持ちを抑えつつ、

「つべこべ言わずに、さっと、おじさんのお尻の上に乗ってみてよ・・」

「・・・」

 ここで初めて、はた、と気づいた。あっ、いけねっ。本音が出ちゃった。さすがに公私混同はいけないだろうと悟ったのか、

「一通り施術を終えたら、今度はお客さんの上にまたがって、もう少し上半身を力を入れてマッサージして上げてください」ものの言い方を変えた。

「・・はいっ・・」従業員は、こういうお店はそういうもんなのか、という、こういう店にありがちな解釈をすることでおのれを納得させたらしい。久保田はうつぶせだから、双方の表情はわからないが、おそらく、いっぽうは「あぶねえ、あぶねえ、九死に一生を得たぜ」的な安堵感ましまし、いっぽうはいまにも泣き出しそうな半べそであろうこと、想像に難くない。

「じゃあ、今度は、もう一回、裏返しだ」と言って、自分でごろんとあおむけになる。

「さあ、どうぞ」と促したところ、さすがに、

「あの~、すいません。ムリです」

 従業員が拒否反応を示した。

「なんで? わかってるでしょ、お店のコンセプト」

「そこまでSNSでは求めてなかったですよ。マッサージだけだって」 

「だけど、わかるでしょう、あなただって。もう、二十歳すぎてるんだから、都心のマンションで、メンエスで、日当が1万円から、とあれば、だいたい・・ 違う?」

「だけど、やっぱり、だめです、私、こういうの。すいません、やめます」 

 すると、女の子はトイレに入るやいなや制服を脱ぎ、私服に着替えると、失礼します」と部屋を後にしてしまった。 

「なんだ・・残念・・」

 おもわず、拍子抜けしてしまった。これがやりたくてお店を開業した、といっても言い過ぎではなかったのだが。エロ動画の『メンエスの体験モノ』ではよくあるパターンなはずなのに・・店長がまっさきに味見できるという・・おかしいなあ。世の中、そう、うまくはいかないもんなのかなあ。にわかメンエス

社長は、軽く頭を抱えて、ぢっと手を見た。



 


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