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田園調布が戸越銀座の軍門に下る日

 参道を進んでいくと、拝殿の前には、なにやら熱心を通り越して、気が触れたんじゃないかというくらいに、ひっつめ髪で一心に頭を上げ下げしている40代くらいの女性がいた。身なりはといえば、色そのものがくすんだ感じで、裕福そうには見えなかった。いかにも生活に追われている感がにじみでている。

 手には、おみくじなのか、写真なのか、紙切れのようなものを握りしめ、ときおり、それを見つめながら、お祈りを繰り返している。

 たしかに、久保田も子供の頃は、親にお賽銭を貰って、見よう見まねでお参りをした。チャリン、と賽銭箱のなかにお賽銭が落ちて、ひもをゆすっては鈴を鳴らした。が、ある程度世の中が見えてくると、ばかばかしさを覚えるようになった。修学旅行で太宰府に行ったときなどは、同じように、世の中を斜めに見ている友達とともに、せーのっ、で本殿の神主だか禰宜だか目がけて賽銭を投げつけた。もちろん、足元をかすめただけだが。ただ、その祟りなのか、大学受験は、しっかり、一浪した。神様の怒りを身をもって体験したというわけだ。

 しかし、10代を最後に、その後は、鈴は鳴らしても金は落とさないお参りのやり方で統一するようになった。それでも、40半ばまで、これといった大病もなく、平穏に暮らしている。

 女性は、いつまでもいつまでも、頭を下げ続けていた。なにをいったい、お祈りしていたのだろうか。子供さんでも不幸に亡くされたのだろうか。仕事上、人間関係に行き詰まりを覚えたのだろうか。結婚詐欺にでも引っかかって多額の金額をだまし取られてしまったのだろうか。残酷な言い方かもしれないが、神にすがる前に、もう一度、合理的に物事をとらえ直すことも選択肢としてはあると思うのだが、それは、人それぞれということなのだろうか。人間なんて、はかない存在だから、誰にも弱点はあるけれど、その心の隙間にさっと入り込んでお金をふんだくってやろうという悪徳宗教も多く存在する。そういう点では、まだ、江戸の頃からの古い神社のほうが安心といえるのかもしれないな。

 

 旧道は夜になると、街灯でライトアップされて、とても幻想的な雰囲気だ。やっと涼しくなってきたから、これからは、ぶらっと足の向くまま気のむくまま、散歩するのも悪くない。ひょっとすると、木綿の小袖に、白の桟留の帯をしめて、使い古したござを抱え、手ぬぐいを頭に引っかけ、店を開けたばかりの夜鷹に「ちょいと、お兄さん、どう? 安くしておきますよ」と声を掛けられるかもしれない。(出典:笹間良彦著『復元:江戸生活図鑑』)

 北のほうへ、なだらかな坂を上っていくと、八ッ山橋の手前左側に、浄土宗の寺院・法禅寺が。ここは俗にいう”投げ込み寺”で、たとえば、女郎であった名取裕子・藤真利子・西川峰子・かたせ梨乃などが葬られたであろう寺のことである。

 むかしは、ひどいよなあ。女性の人権もなにもあったもんじゃない。まあ、戦後、売春防止法は 1957年 (昭和32年)4月1日から施行されることになったのだから、それまで、野放図だったわけだし。いまだって、警察沙汰、マスコミ報道の外で、相当悪辣なことが花街では行われているはずだ。AV女優が洗脳されて撮影させられたとか裁判沙汰になっているし、YouTUBEで舞妓さんが親ほども年の離れたおっさんとお風呂に入らされたとか暴露しているし。

 などと、急に正義感ぶってお寺の境内を入ってきたわけだが、平日の午後など墓マイラーなどいるはずもない。せっかくだから、己が即席の墓マイラーになってやる。そう、心に誓い、流民叢塚碑るみんそうづかひの前に。説明書きには、「品川区指定史跡」となっていた。

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 この碑は天保の大飢饉でなくなった人たちを祀る供養塔である。

 天保四年(一八三三)に始まった天候不順は、その後数年におよび、多数の餓死者を出した。品川宿には、農村などから流浪してくる者が多く、この附近で病や飢餓でたおれる人が八百九十一人を数えるに至った。これらの死者は法禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が埋葬されたという。

 初めは円墳状の塚で、この塚の上に、明治四年(一八七一)に造立の流民叢塚碑が建てられていた。昭和九年(一九三四)に境内が整備された折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの碑が置かれた。

 碑の正面には、当時の惨状が刻まれており、天保の飢饉の悲惨さを伝えるとともに、名もない庶民の存在を伝えている」(出典:品川区教育委員会)

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 残念ながら、遊女の霊を鎮めるお墓はお参りできなかったが、江戸の頃から庶民は大変な生活を強いられてきたことを改めて実感させられた。先人たちの分も、まじめに生きようと心した久保田だった。


 

 



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