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田園調布が戸越銀座の軍門に下る日

 小学校3年の頃、栃木県の日光にある品川区の宿舎に、町内会で、林間学校に出かけた時のこと。参加した20人余りの子供たちはみんな都会の子たちばっかりだったから、ご飯の炊き方ひとつ知らなかった。食堂屋のせがれのひでちゃんも、当時は、塾だ、そろばんだ、ピアノだ、と習い事に一生懸命で、ごはんは食堂に住み込みで働いている料理人のお兄さんたちが作って出してくれるのをそのまま食べるだけだった。だから、久保田もひでちゃんもみんな生まれて初めてのキャンプで、「はんごうすいさん」できるのを楽しみにしていたのだ。

「はんごうすいはんって、楽しみだよなあ」

 行きのバスのなかで、二人は盛り上がった。

「ゆうちゃん、いま、なんてった? はんごうすいさんだよね?」

「え、はんごうすいはんって、聞いてるけど」

「うそだぁ。僕は、はんごうすいさんだって。お父さんとお母さんがそう言ってた」

「僕だって、お父さんとお母さんがはんごうすいさんだって。はんごうすいさんは軍隊に行って、お父さんはやったんだぞって。お母さんは、祐貴、はんごうすいさん、一人でするのはむずかしいよって。できるようになれるかしらねって」

 宿舎に着いて、早速飯盒でご飯を炊き始めたのはいいのだが、案の上、難しかった。それに、なかなか時間がかかって、食べ盛りの子供だからお腹がすいて仕方ない。別の係の子供たちは付き添いの親たちやお兄さんお姉さんたちと一緒にカレーを作っていた。

「早くできないかなあ。おなかすいちゃったよ」

 おなかが鳴ってしかたない久保田祐貴は、とんぼをつかまえるのにも飽きたのか、地べたにへたり込んで、ねを上げていた。カレーのいい香りが野外炊事場のそこかしこから漂ってくるのだから無理もない。他の町会の人たちもみな、カレーを作っていた。どこもみんなお決まりのようだった。一番手ごろだからだろうか。

 ところがどうしたわけか、ひでちゃんは、元気だった。おなかは人一倍すいているはずなのに・・ 

「ゆうちゃん、カレーができるまで、気晴らしでキャッチボールでもやろうよ」

 久保田はそんな気分ではなかった。が、ゆうちゃんがやる気まんまんの笑顔で誘ってくるものだから、「そうだね」と付き合ってやることにした。

「そうだ、どうせなら」そう言うと、ひでちゃんはあさっての方角へと駆け出した。

「どこいくの」

「テントにバット置いてあったから」

 ひでちゃんは、家からボールだけでなくグローブもバットも野球道具一式を持参してきたのだ。いつも、アスファルトの区道や私道でしか野球をしたことがない。野球チームに入れば区立荏原二中や平塚中学校などの結構広いグラウンドで試合ができた。が、それはあくまで「特別な」試合でのことだった。試合なんて、基本、9人しか出場できない。あとはベンチ入り。いや、ベンチ入りならいいほうだ。ベンチにもにも入れず、ただの応援要員じゃつまらない。

 野球少年たちは、おじさん監督やお兄さんコーチたちが仕切る地元の野球チームに所属していたって、それだけでは胸に秘めた夢は叶えられなかったのだ。自分が王選手に、張本選手に、掛布に、山本浩二に、星野にならなくてはいけなかった。だから、自分たちの家の前に自前の球場を確保して、試合を行ったのだ。時に、近所のおじさんやおばさんに、「あっちいってやれ」(オレは夜勤が終わって疲れてるんだ)、「いいかげんにしてよっ!」(あたしだって、いろいろと家事に追われてて、少しは昼寝もしたいし、一人の時間も確保したいのよ)と、まるで犬猫同然にあしらわれ、時に、公道ゆえ、配達の車やごみ清掃車などが通るため、道路の端へ避けて、その度に神聖な試合を中断させられたりした。おとなはしらないだろうけど、当時の子供たちだって、なかなか大変だったのだ。

「プレイボール!」

 いつもの都会の路地裏とは違って、あおぞらの下の炊事場横の原っぱで、即席のプロ野球がはじまった。

「じゃ、オレ、広島カープ。ひでちゃんは?」

「じゃあ、僕は大洋ホエールズ」

 じゃんけんで先攻はひでちゃんと決まった。マウンドもバッターボックスもなかったから、適当に、その辺の石で草の生えた土を四角く囲ったりして、なんとか恰好をつけたうえで、振りかぶって第一球。

 空振り。ひでちゃんの黄色いプラスチックバットが空を切った。と同時に、キャッチャーがいないから、ひでちゃんが全速力でボールを追いかける。二球目。今度も空振り。かと思ったら、チップして、ひでちゃんの足元にゴムボールが落ちた。

「よし、次はホームランだ」 

 その頃、やっと、炊事場では・・

「どう、飯盒は」

「いい感じですねえ」

 町内会のおじさんやおにいさんが、蓋を開けては、こげついていないか念入りにたしかめている。大人たちだって、日々生活に追われて、飯盒でお米なんて何年も炊いていないし、若いお兄さんなんかは炊いたこともない。

「いいわね、そろそろいいんじゃない。カレーも」

「そうね、いい感じになってきたわね」

 係のおばさんたちが、まるで自分の家の台所で仕事でもしているかのような口ぶり。

「なんだかキャンプって言うから付き添いで来てみたけど、やってることは日常と変わらないわね」

「ほんと、ね。主婦っていやぁね、ははは」

 おじさんおにいさんたちが飯盒そのままを、おばさんたちがカレーの入った鍋をえっちらおっちらとビニールシートを敷いた「即席地べた食堂」へと移動しているときだった。

 ツーストライク、ノーボールのカウントだったから、3球で仕留めてやる、と力いっぱい投げ込んだ久保田の直球をものの見事にひでちゃんがジャストミート。白いゴムまりが雲ひとつない青空にきれいに孤を描き、落ちていった先は1時間近く、みんなで手分けしてきざんだじゃがいもやたまねぎが煮込んでいい味に仕上がっていたカレーなべのなかだった。

 

 














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