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田園調布が戸越銀座の軍門に下る日

 最近、寝しなに、よくスマホとスピーカーをブルートゥースで電波を飛ばして、インタビュー番組(ex.街録Ch.)や内幕話(ex.元テレビマンさっきー)、さらには、経済アナリストモリタクの出演番組などを聴く久保田だったが、それに加え、広沢寅造も好きになりつつあった。「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」で有名な浪曲清水次郎長伝の「石松三十石船道中」を繰り返しては真夜中一人寝床で、けらけらけらけらと笑い転げているのがここのところ常態化していた。そうなると、この面白さをだれかに教えてあげたくなるのが人の常。それを実際にやってのけるのが、この男のたちの悪さ。

 九段女子大学文学部3年生の佐藤真奈からの相談話を聞いているうちに、なんだか浪曲を彼女にも聞かせたくなった久保田は、「ちょっと待ってくださいね」と席を外し、玄関から居間へと引っ込むと、スマホとスピーカーを取って戻ってきた。

「あなた、広沢寅造って聞いたことある?」

 いきなり聞かれたって、聞かれたほうだって困るだろう。こっちは法律相談にわざわざやってきたのだから。それでも、一応、相手が弁護士先生だということもあり、遠慮がちに、

「いえ、ないですけど・・」

「いや、実はね、私が最近、ハマってましてね」

 関係ないだろ、そんなの。こういう突拍子もないことを平気でやるから、仕事の依頼も来ないのだ。それでも、依頼人は、なにかのプラスで先生は勧めるんだろうと前向きに捉えて、するがままにまかせた。

すると、すぐに、スピーカーから三味線を掻き立てる音とともに、突拍子もない女性の声が盛り上げたかと思ったら、だみ声で始まったのだ。

「♪旅ゆけば~ 駿河の道に~ 茶のかおり~」

「♪流れも清き~ 太田川」

 二人の間に、えも言われぬ空気が広がった。久保田はあくまで自分が好きだから、好きなものを若い人に披露してあげたいという満足感でいっぱい。見るからに幸福そうな表情。いっぽうの佐藤真奈は、といえば、人生で初めて耳にするだみ声浪曲師と、伴奏の三味線に合いの手。なんかへんな事務所にきちゃったなあ、母が経営する新橋のスナックの常連客で銀座木挽町内科医院の青山先生が一推しの弁護士だっていうから、わざわざ地下鉄乗って戸越銀座くんだりまで来てはみたものの、やっぱり、戸越銀座らしい、弁護士先生なのね、と納得。これが日比谷や内幸町や銀座なら、それこそ官僚や大企業相手の法律家で身なりもバリっとして浪曲なんか聞かせたりしないだろう。やっぱり、戸越銀座なのね。

「すいません、先生。私・・」

「ちょっと、待って。これからがいいところなんだから。もう少しすると、例の、江戸っ子だってねえ、神田の生まれよ、のシーンが始まるのよ」

「あの~、先生、これからバイトがありますんで」

「最近知ってる? 元政治家のコメンテーターが『地頭よくない』って言ったの?」

「知ってますけど」

「あれとおんなじ。今から、10年前?20年前くらいだったかな、当時の総理大臣があまりに失言が多すぎて。エイズが来たみたいだ、とか、選挙が近くなった時、選挙民が寝ていてくれればいい、だとか、アメリカ大統領に質問する際にご本人が英語が得意じゃなかったから、あらかじめ想定問答を暗記しておいて。それが、How are you? I'm fine,thank you and you? Me,too.だったわけ。それをご本人、どうしたもんか、間違えちゃって。アメリカ大統領が現れた途端、Who are you?って、やっちゃったわけ。そうしたらどうなったと思う?」

「わかりません」佐藤真奈はほんとにこの先生困っちゃう、といった感じで途方に暮れていた。

「考えてみてよ。想像してみてよ。HowがWhoに変わったらどうなるか。そのまま、その押し問答が続いたら。わからない?」

「・・」

「さすがに、日本に到着して、いきなり『あんた誰?』って聞かれたもんだから、アメリカのクリントン大統領だって、とっさに頓智効かせて、『I'm Hillary's husband.』ってやったわけ。わかるでしょ。ヒラリーの旦那だよって。そしたら、日本の森総理は『僕もだよ』って、オウム返しに言ったってオチさ」

「大統領の奥さん、つまり、ファーストレディーのヒラリーさんと日本の総理である私は夫婦だよ、と重婚だよと、いまで言えば、NTRだよっていう文脈になっちゃうってことですよね」

「そう、その通り」

「それ、おかしい。キャハハッ!」

「そうでしょう、わかるでしょ。それなのよ、私が言いたかったのは。つまり、それくらいのレベルの総理大臣だったわけ。当時の日本の首相が。だから、失言の度に尻拭いをさせられていた当時の官房長官が、陰で新聞記者にこう漏らしたって、新聞の2面に書かれていたんだ。『死ななきゃ治らない』っていう趣旨のことばが」

「なるほど」

「そうそう。その死ななきゃ治らない、の元ネタなんだよ。いま聞いてもらった広沢寅造、正確に言えば二代目広沢寅造の浪曲、清水次郎長伝が。森の石松が船に乗っている間の話なんだけど、話相手がくさすんだ。石松のことを。次郎長親分の子分のなかで一番強いんだけれども、人間が馬鹿だからねと。しまいには東海道ではこのうわさでもちきりで、小さな娘ですら子守唄に歌っているくらい、石松の馬鹿は有名だ、と。それを寅造が節をつけて歌う。『バカはしななきゃなおらない~』ってね」

「っていうことは、地頭よくないって言うのは」

「そういうこと。浪曲師が先に言った言葉の変化形ともいえるし、繰り返し、パクリと言ってもいいってこと。だから、昔流行った浪曲だって、ただ品がない、だみ声だ、と批判するんじゃなくて、一度聞いてみるのも一興なんだな、と私は身をもって悟ったんですよ。うちの母は、浪曲が嫌いだった。品がないって。一方、父親のほうは、男で、浅草出身だったから、大好きだったんでしょう。それこそ、よく、だみ声でうなってましたよ。その度に、私はまだ小さかったから、よく文句を言っていた。変なのやめてくれよ、と」









 


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