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田園調布が戸越銀座の軍門に下る日

 せっかく、拙宅にお越しいただいたのだから、と久保田はいつもどおり、緑茶を入れに、再度、奥へと引っ込んだ。ああ、そうだ、その前に、と、棚の引き出しから、十年以上前に銀座の封筒などを扱う老舗で買ったお香を一本取り出しては、お勝手のガスで火を点け、部屋の隅に捨て置かれていたジャムの空き瓶、つまりは、線香立て用に粉を瓶の半分ほど入れておいたのものに、お香を立てた。これを、玄関に持っていって、適度な距離のところに置いた。靴の臭いや、男の一人暮らしの生活臭がなんとかお香の香りに紛れてくれれば、との配慮からだった。それから、いつものように、冷蔵庫からお茶の缶を引っ張り出しては、スプーン1杯半くらいの茶葉を金網の茶こしに入れる。電動ポットからコップにお湯を注ぐ。つねに80度に設定してあるから、コップを2つ3つ使っては交互にお湯を入れ替えすることで、60度くらいに冷ます。それから、やっと、茶葉に浸す。30秒くらいすると色が出る。それをまた、2回くらい別のコップで入れ替えして、濃い緑茶のできあがり。こうやると、デパートや築地の海苔屋のお茶と同じ、濃い味が出る。しかし、日本橋のデパート抱島屋に入っているお茶屋は、2023年春に品質を落としたため、久保田はもう、2度と買うことはないだろう。少なくとも、10年の間は。ただ、最近、築地のお茶屋のお茶も、なんだか、旨くなくなってきた気がするのだ。品質を落としたような気が。どこも値上げだから仕方ないのか。しかし、鹿児島県庁などに問い合わせると、お茶っ葉の価格そのものはむしろ下がっているらしい。それなのに、最終消費者は高い金を払っているようだ。農家ももちろん、値段はそのままという。つまりは、2重3重4重に問屋が絡んで、利益が搾取されているということだろう。

「お待ちどうさまでした。お茶、どうぞ」

 まるで好々爺よろしく、白いエプロンをした久保田は、女性客にお茶をふるまった。

「有難うございます」横座りして際立つ女の臀部を直視したい気持ちはもちろんなのだが、そこはぐっとこらえて、彼女の顔の高さでおのれの視界を保つように努めることに決めた。久保田も座布団に座り、向かい合う。

「申し遅れました。私、佐藤真奈と申します。九段女子大英文科の3年生です。先日、突然、先生にメールしてしまってすいません。名前も書かずに」

「ああ、あなたが。あのメールの。『助けて、そして、私を強く抱きしめて』などとあったから、何事かとびっくりしましたよ」

 びっくりしたのは事実なのだ。が、どうやらいいほうに話が転びそうだな、と久保田は内心、期待しはじめていた。40半ばのおっさん弁護士ではあるが、メールをくれたのが大学3年の女子大生とは知らなんだ。どうも、気を引き締めるそばから、よこしまな考えがむくむくと湧き上がってくるから、われながら始末に置けない、と父親譲りの女好きDNAに、我ながらいささか辟易しつつあった。

「どうしてここを知りました? 私の存在を」

「母からです。母が、新橋でスナックをやってて。そこのお客さんに、銀座の歌舞伎座裏で内科医を開業されている青山先生が常連で。法律トラブルに詳しい弁護士さん、どこかいませんかって聞いたら、一人知ってるよって。それが、久保田先生だって。戸越銀座で事務所を開いているって教えてくれたんです」

「へえ、そうだったのか。青山先生がねえ・・」

 なんだ、あいつ。嘘つきやがって。メールの最後に『銀座・歌舞伎座裏内科クリニック 青島克人』と結んでいたから問いただしたら、そんな情熱的な女性なら、お前に紹介なんてしないよ、なんてほざきやがって、まったくふてえ野郎だ。きっと、お体裁やの青山のことだ、生まれも育ちも銀座木挽町で代々医者の男が銀座並木通りの高級クラブならいざ知らず、外堀通り一つ隔てた新橋あたりの場末スナックに入り浸っているとなったら恰好が悪い。そう思ったに違いない。つまんねェやろうだ、まったく。などと、久保田がひとりで息巻いていると、

「先生、私、モデルのスカウトを受けたんです。先日、渋谷のセンター街を歩いてたら。『ユミープロモーション』って、聞いたことありますか」

「いや、聞いたことない。だいたい、芸能事務所なんて、まったくつながりがないですからね」

 そうなのだ。まったくの門外漢だった。もちろん、弁護士は結構前から過当競争で、なんとか特徴出さないと飯を食っていけない大変な時代に陥っている。だから芸能人専門と銘打って商売をしている同僚がいるのはもちろん知っていた。本音を言えば、可愛いお嫁さんがいたらいいなあ、などと夢想しているのだから、そっち方面を開拓したってよさそうなものだった。タレントを助けて、先生、ほんとに助かりました、お礼に一度、改めて・・なんて幸運がないとも限らないではないか。実際、禁制品に手を出したタレントを弁護したのが縁で所帯を持ったケースもあったし。いや、禁制品に手を出す時点でちょっと、と躊躇しなくもない。が、ただ、なんとなく、久保田は気乗りしなかった。芸能界の水に、おそらくは、自分が合わないだろうことを肌感覚で悟っていたからだろう。来るもの拒まずの精神でなければ個人商店なんだから本当はいけないのだが、いかんせん、独り身ゆえ、それほどあくせくする必要がなかったといっていい。お気楽だったのだ。

「それで、赤坂の『ユミープロモーション』に面接に行って。まだ、合格不合格とか言われてないんですけど、サインだけしたんです。候補生として声をかけるよと、事務所の社長さんに言われて」

 その日から、真奈は真奈なりに、事務所が大丈夫かどうかネットで検索など掛けたらしい。

「でも、何も出てこなくて」

 たしかに、素人が、この事務所は大丈夫なのか、やくざの息のかかった悪徳事務所じゃないのか、などを判断するのはなかなか難しいだろう。芸能事務所で検索を掛けて、いくつかホームページを覗いたところで、だいたいが表面上のことしかわからない。5ちゃんの書き込みを見ると、たしかにいろいろ出てくる。しかし、それだって、真実かどうかはさだかでない。昔から芸能界にはやくざがうようよしていると聞く。ご当人も親御さんたちもたいへんだ。

「そうしたらすぐ、面接の翌日にケータイに連絡があって。一度、撮影会があるから見学に来ないって、誘われたんです。社長さんから直々に。それで、新宿で待ち合わせして」

「事務所は赤坂なのに、撮影は新宿なの?」

「そうなんです。それで、歌舞伎町の真ん中にあるルノアールで」

「ああ、あの、新宿区役所の裏の」

「そうです」

「ずいぶんとまた、柄の悪いとこだねえ」

「ええ」

 久保田も男だから、よく知っていた。もちろん、遊びに行ったことはない。昔、テレ朝の深夜番組トゥナイト2で、エロ映画の山本監督が実地体験して紹介した寸止めパブののれんをくぐりたい、と妄想にふけった程度のことである。ルノアールという喫茶店は南北に走る新宿区役所通りから一本西へ入った細い路地に面したビルの1F にあった。目の前は、歌舞伎町で唯一のストリップ小屋「DX歌舞伎町」があったのだが、2019年には店を畳んだ。

「お店に入ると、すでに、社長さんともう一人の男の人がいて。『じゃあ、場所移ろうか』ってことで、お店を出て、タクシー拾って、新宿御苑方面に向かって。幼稚園の前で停車して、マンションの上層階にエレベーターで昇ると、目の前が、プールだったんです」

「プール? ビルの上に?」

「そうです。『例のプール』だよ、知らないって言われたんですけど、私、観たことなくて」

 いま、嘘ついてない? ほんとか、観てないって? おじさん、怒るよ。文科省の統計だと、20代前半の女性の8割方、エロメンの名前を5人まで言えるって、あったけどなあ・・久保田は思わず一人で突っっこんでいた。

「なるほど、例のプールか」

「わかるんですか、先生」

「まあ、ねえ。年なりに甲羅を経ているつもりだからねえ」

 年上だ、というだけの理由で使えるマウントを人生で初めて取ってみた久保田。

「プールの周りには、AD、VTRカメラマン、スチールカメラマン、照明、音声、さらには女優が1人と男優が4人、合計20人近く集まっていたんです」

 VTRカメラマンとは本番の撮影をする人たち、スチールカメラマンとはパッケージ画像など静止画を撮影する人たちのことをいう。

「見学でいいからってことだったのに、着いたら、『これに着替えて』って、いきなり監督さんから競泳用の水着を渡されて」

 『競泳』にピンときた久保田は、即座に頭の中で思い浮かべる。そういやぁ、たしかに、元アスリートだ、日本代表だ、みたいな飾り文句のAVジャケットってあったな。もちろん、そういったネット上にある作品紹介の画像の下には大概、無料サンプル動画がついており、新人女優の場合、久保田はよくポチッとボタンをクリックすることがあった。すると、たしかに、看板に偽りなし、といったふうの、がっしり、または、引き締まった体つきで、実際、バタフライや、平泳ぎなど、かなり熟練した泳ぎを披露している。しかし、それは4分ちょっとの長さのうち、前半部分までだ。まじめな立て付けは。画面が暗転してから、再び彼女が飛び込みを始めたな、と思ったら、すぐの場面で、全裸で水中を勇猛果敢に進んでいくのだ。ああ、やっぱり。1%のがっかりと99%の爆笑が待っている。そんな頭で彼女を見ると、服の上からもわかるふくよかな体形だった。男から言うのもヘンだが、包容力に満ちたかんじ。だから、彼女の場合はどうしたって、運動やってるようには見えねえなと、ポストに新聞を取りに出た時から感づいてはいた。しかし、ここは渡りに船、とばかりにたずねてみることにした。

「佐藤真奈さん。あなたは、ひょっとして競泳選手だったんですか?」

 ただ単に反応を愉しみたかっただけだ。なんと、ずるい男であることよ。

「いえ、違います。そんな風に見えますか?」おかしなことを聞く先生だなといわんばかりに小首をかしげて、表情筋の一部が若干ゆがんだ。そりゃ、そうだろう。競泳選手というより、ごろんと横におねんねしていたほうがさまになるグラマー体形なのだから。本人だって十分意識しているはずだ。


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