田園調布が戸越銀座の軍門に下る日
翌朝、久保田は遅いお目覚めだった。すでにお昼のニュースが始まろうかという頃、新聞を取りに玄関を開けた時だった。目の前の四メートルの区道にどうやら人影があるらしい。それも男ではなさそうだ。スカートを履いている。というのも、顔を洗ってはいたものの、まだまだ頭のなかは冴えておらず、夢遊病者状態だったから、状況判断があやしかったといっていい。それゆえ、ぼんやりとしか、事物を確認できなかった。が、ポストを覗くと同時に、ちらっと左手を見る。と、CMモデルでもやってるのか、と思うような、目鼻立ちのはっきりして、すらっとスタイルがよく、しかも、年若い女性がこちらをもの欲しそうに見やっているではないか。
あれれ、いったい、どうしたもんかなあ。
うれしいような、悲しいような、それでいて、金の玉がきゅっと締まるような感覚に一瞬襲われたのを久保田は忘れない。それまでの人生が女性との接点のまったくない人生だったから、まさか、そんなことがありえるはずもない、と警戒心が先立ったのだ。ありえない、ありえない。どう考えたって、ありえない。アリエールでしょ。いや、違う。そういうことを言ってる場合じゃない。そう煩悶しつつも、笑いがこみあげてくる自分が一方で存在する。その仕方なさも十二分に理解している。でも、怖い。きっと罠だ。罠に違いない。そんな行ったり来たりを瞬時に繰り返して、再び、なにも気づかなかったふうにドアを開け、家に戻ろうとしたその時だった。
「先生」
待ってたんです。その声を。先生は。しかし、久保田は何事かといぶかるがごとくに眉間にしわを寄せて、まるで、不審人物に相対するかのような顔で無言で振り返った。
「久保田先生・・ですよね」
「・・」
なんで、オレを知ってるんだ。気持ちは先走るのだが、冷静な自分が思いっきりブレーキを踏んでいた。オレを知っているのはごくごく少数の人間たちだけだ。それこそ、司法修習生時代の同期やその教官たちぐらい。近所の住人はオレが弁護士をやっていることなど知るはずもない。なぜなら、一切、看板など出していない。ネット上でも一切CMを打っていない。それなのに、なぜ? 家の前は、ビルの通用口になっていたから、お昼時は人の出入りが結構ある。ゆえに、
「立ち話だとなんですので、よろしければ、どうぞ中へ」
「はい」
女を家に入れたこと自体、何年ぶりだろうか。近所に住む九十歳近くなる認知症の伯母が、足元もおぼつかず、よろよろと家にやってきた時以来だろう。ましてや、若い女など、ありえなかった。夏だが、きっと、明日あたり雪でも降るかもしれない。
「汚いところですが・・」
そう、言い置いて、居間に引っ込んだ中年男は、玄関の床に座らせるのもかわいそうだからと、座布団を引っ張り出しては「これを敷いてください」と紳士的なところを見せた。
「有難うございます」
そう言って、女は、深緑色の、昔ながらの座布団に腰を下ろす。横座りする女のけしきを直視することになったがため、妙に久保田はもよおしそうになった。が、もちろん、例の独身センサーがきっちりと稼働し、いかんいかん、とバカ息子をなだめにかかった。ご婦人はわからないだろうが、こういう時、男は努めて、厳粛な顔にする。それによって、邪神を追い払うのだ。だから、男どもが不自然なまでに怖い顔・隙のない顔をした時、ああ、きっと私にご執心なのね、と女性は察していただいて問題ない。




