第6話「この感情が。何という言葉なのか、わからないままに…」
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……嫌な夢を見た。
中学の頃の、最悪な記憶だ。
忘れるには時間が解決はしてくれず。嫌でも鮮明に思い出してしまう。ナイフで心を切り刻まれるような、そんな生々しい苦しみが、吐き気と共に蘇ってくる。
傷つけられたほうは、いつまで経っても忘れられないのに。傷つけたほうは、あっさりと忘れてしまう。
本当に、人間とは。
最低の生き物だ。
「がっ、あ、ああ―」
激しい痛みに、呼吸もできない。
カヒュー、コヒュー。と何とか空気を肺に取り込みながら、涙で滲む視界に見えたのは。
ひと際、大きな体をしたゴブリンたちのボス。
ゴブリン・ロードの姿だった。その姿は、他の個体よりも明らかに巨大だ。一番小さいゴブリンと比べると、二倍くらいの違いはあるだろうか。やせ細っている彼らの中で、その体格はあまりにも異質。その厭らしい笑みからは、凶暴性さえ垣間見える。
ゴブリンたちは強い個体に服従する傾向がある。卑劣で臆病な彼らを統率するのは、いつでも体の大きな凶暴な個体だった。
「がはっ、ごほっ!」
舞穂は嗚咽を吐きながら、自分を薙ぎ払った魔物を見上げる。
大きい。とても敵いそうにない。それが彼女の直感だった。筋肉質のゴブリン・ロードは、そのまま倒れている舞穂のことを興味深そうに覗き込んで。
……そして、嘲笑った。
頭領であるゴブリン・ロードが笑うと、他のゴブリンたちも笑い出す。倒れている少女を指さして、情けないと言わんばかりに。それまで怯えていたはずのゴブリンたちまで、自分たちに逆らったからこうなったんだ、と笑っている。
その表情には、見覚えがあった。
この異世界ではない。元の世界のことだ。
中学生の頃。舞穂は酷いイジメを受けていた。クラスメイト全員から白い眼を向けられて、自分の居場所などどこにもなかった。教科書やノートには油性ペンで落書きをされて、机には給食の残飯を入れられて、買ってもらったばかりのスマホはトイレの便器で見つかった。誰も助けてくれなかった。クラスメイトの誰もが、自分とは関係ないというように目をそらした。教師すら見て見ぬフリをした。もうすぐ卒業だから、それまで我慢してくれないか。そんなことさえ言う中学の担任教師には絶望さえした。
あの時と、同じ目だった。
教師たちの目を盗んで、舞穂を追い詰めてくる男子生徒たち。それと、目の前で自分のことを嘲笑っているゴブリンたち。本当に同じ目をしていた。暴力的で、差別的で。罪悪感なんてまるでない。
……どうして。
どうして自分だけ、こんな目に合わなくちゃいけないのか。なんで、いつも泣いてばかりなんだろう。悲しくて、苦しくて、自身の無力さに絶望してくる。結局、現実でも異世界でも何も変わらない。こんな自分なんて、生きていても仕方ないんじゃないだろうか。
「ギヒヒ、シンダ? シンダ?」
「ケケケケッ! コイツノアシヲ、チギッテヤロウゼ」
「キキキィ、ソレハイイ! ミギテハ、オレノモノダ」
視界が涙で揺れる。
聞きたくもない彼らの笑い声が聞こえる。
悲しくて、苦して、絶望している舞穂に。ゴブリン・ロードが近づいていき、その大きな腕を振り下ろそうとする。新しいおもちゃができたと言わんばかりに、嬉々として目の前に倒れている少女へと襲いかかった。
「っ!」
舞穂が小さな悲鳴をあげる。
それと同時にー
「……おいおい、その汚い手を引っ込めな。てめぇらが触っていいほど、この女は安くはねぇぞ」
舞穂を守るようにして、一人の男が割って入っていた。
ゴブリン・ロードの一撃を。
両手に構えたロングソードで防いでいる、岸野優斗の姿がそこにあった。
「……どう、して」
舞穂は思わず呟いていた。
凛々しい横顔に、真剣な眼差し。いつも小言のようなことばかり口にする彼が、今まで見たことないような表情をしていた。迷いのない騎士の顔。瞳からは強い決意が滲み、口元の笑みには余裕すら感じられる。
そんな優斗が。
自分を守るために駆けつけてくれたことに。
ー心が震えた。
「大丈夫か、雨宮。怪我はないか?」
「……き、岸野君? どうして?」
「は、ははっ。初めて名前を呼んでくれたな」
「え?」
「今まで、ずっと名前も読んでくれなかったから、本当は嫌われているんじゃないかって心配してたんだぞ」
「そ、そんなこと―」
思い返せば、その通りだった。
舞穂は彼のことを名前で呼んだことがなかった。名字すら、この異世界に来るまで憶えていなかった。それは友達未満の関係だ。ただのクラスメイト。同じ教室にいるだけ他人。それだけの関係だったのに。
この時になって、ようやく。
ゆっくりと、運命が動き始める。
「……あれ?」
舞穂の顔が赤くなる。
胸が締め付けられて苦しくなる。耳まで熱くなる。鼓動の高鳴りが抑えられない。それなのに、なぜか優斗から目を離すことができなかった。
ゴブリン・ロードの攻撃を弾き返して、精悍な顔で剣を握るただのクラスメイト。
そんな彼の姿に、胸が熱くなる。
昔の嫌な記憶ごと、優しく包んでくれるように。
彼から瞳を離すことができず。
心は奪われていく。
この感情が。
この想いが。
何という言葉なのか、わからないままに―