第37話「影谷暗雄の目標」
「おいおい! 影谷の奴も落とし穴に落ちちまったぞ!」
茂みの中から、こっそりと覗き見を、……いや、見守っていた朔太郎が慌てたように声を上げる。その姿は、仲間のことを心配するリーダーの鏡であり―
「くそっ、どうする! このままじゃあ、二人の会話を盗み聞きもできないじゃないか!?」
ー違った。
ただの野次馬だった。
朔太郎は本気で悔しそうに、攻略組のメンバーたちへと振り返る。
「おい、誰か。覗き見とか盗み聞きとか、そんなことができるスキルを持っている奴はいないのか!?」
その顔は、割とマジだった。
そして、優斗も―
「持っていないっ!」
実に悔しそうに地面を叩く。
クラスメイトの、……もしかしたら恋が始まるかもしれない瞬間を前にして、どうしても見てみたい男どもは、何とかして盗聴できないかと考える。
「そうだ、スマホだ! スマホを使えばいいんじゃねーか!」
「朔太郎! お前、天才か!? よし、今すぐスマホを起動して―」
「しまった! 異世界にはスマホはなかった!」
「そうだったーっ!」
頭を抱えながら、地面に座り込む男たち。
そんな男子たちを、女子たちは白い目で見下ろしていた。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
「なんで、あんたまで落ちてきてるのよぉ~っ!」
このばかぁ~、と楯守が泣き続けている。
ほんの少しでも、自分を助けてくれると思ったのが馬鹿だった。誰かを頼ってはいけない。誰かに甘えてはいけない。今まで、そうやってきたのに。どうして、こんな頼りなさそうな少年に頼ろうとしたのか。楯守理子は自分を呪いたい気分だった。
当の本人である影谷暗雄は、ぶつけた頭をさすりながらも冷静に辺りを見渡す。彼の装備は、狩人に近かった。周囲に溶け込める草色のローブに、革の長ズボン。腰や着ているベストには、小振りのナイフや色んなものを持ち合わせている。
「えーと、委員長? 怪我はない?」
「ないわよ! おかげ様でね!」
楯守は普段なら絶対に言わないような乱暴な言葉遣いになっていた。
「それに、さっきからなに!? 人のことを、委員長、委員長って! 私には楯守理子っていう名前があるの!」
そんなことも知らないの、と楯守は自分より背の低い男子に言い寄る。
いつもなら静かに厳しい彼女だが。普段とは異なり感情のまま言葉にしている。キーッ、キーッ、と声を上げる楯守を前にして、影谷はバツが悪そうに頭をかく。
「それは、ごめん。あんまり人の名前を覚えるの、得意じゃなくて」
「私は、すぐに覚えたわよ。クラスメイト全員の名前を」
「へぇー。それは凄いね」
影谷が手放しで褒めるものだから、楯守は調子を良くして自信ありげに微笑む。
「ふ、ふふん。そうでしょう。私は偉いのよ。授業も真面目に受けてるし、放課後は毎日のように塾に行っているし」
「うわー。僕には無理だなぁ」
「でしょう? きっと、あんたでは一週間ももたないわよ」
「うーん。三日も無理かも」
「それくらいは頑張りなさいよ」
楯守が笑う。
いつの間にか、二人の間には緩やかな時間が流れていた。
思えば、誰かに褒められたことなんて、ほとんどなかった。勉強するのは当たり前。成績が良いのも当たり前。有名私立高校だって、受かって当たり前とまで言われた。誰も、自分の頑張りを褒めてくれなかった。誰も自分の努力を見てくれなかった。そんな感情が、彼女自身も気づかないうちに自分を追い詰めていた。
それが、今。
こうやって、自分のことを見てくれる人がいる。友達でもないクラスメイトなのに、それが嬉しくて仕方ない。それから、しばらくの間。他愛無い世間話をしていた。落とし穴の底だというのに、なぜか心はとても軽かった。
「影谷君って帰宅部だっけ?」
「うん。放課後は、すぐに家に帰るか。たまに友達とゲーセンに行ったりするよ」
「へぇ。楽しそうね」
「委員長、……楯守さんはクラス委員長だもんね。塾もあるし、遊ぶ時間もないんじゃない?」
「……別にいいのよ。今、頑張れば、いい大学に行けるんだから」
「いい大学かぁ。僕には、よくわからないなぁ」
そっと、影谷が視線を外す。
長い前髪の向こうにある目が、どこか遠くを見ていた。
「なによ。どうせ、これといった才能や特技があるわけじゃないんでしょ。だったら勉強くらい頑張りなさいよ」
よかったら、私が見てあげようか。
と、彼女らしくない冗談まで飛び出す。
だが、そんな楯守の揶揄するような言葉に、影谷は頭をかきながら答える。
「まぁ、確かに人に言えるような才能とかないけど。一応、目標みたいなものはあるよ」
「なにそれ。言ってみなさいよ」
けらけらと楯守が笑いながら言う。
すると、影谷は恥ずかしがる様子もなく、淡々と答えた。
「全国に行きたいんだ」
「ぜん、こく?」
ぽかん、と楯守の口が開く。
「うん。今、流行っているカードゲームがあるんだけど、その全国大会があって。あと、もうちょっとで出場できるところまで来ているんだ」
「なんだ。遊びの話か」
楯守は拍子抜けしたような態度になる。
彼女にしてみれば、遊びやゲームなど時間の浪費にしか考えていなかった。そんなことに時間を使うなら勉強をしなさいと、両親に口うるさく言われてきたからだ。
「はぁ。それで? そのカードゲームで日本一でも目指すわけ?」
下らない、と続けようとした楯守に。
影谷は肩をすくめながら答える。
「いや。全国の壁は高いよ。今まで何度も悔しい思いもした。それでも、ようやく手の届くところまで来たんだ。元の世界に帰ったら、僕は全国に行く」
彼の言葉には、実感めいた重みがあった。
挑み続けて、日本全国という舞台に立つ。それを目標に歩き続けた。そこから見える景色は、楯守が手を伸ばし続けている、遥か遠くの景色だった。
勉強して、いい大学に行くのと。
カードゲームで、全国大会に行く。
そこに、どれほどの価値の違いがあるのか。恐らく、この異世界に来る前の楯守だったら、わからなかっただろう。だが、今。目の前に。全国大会という明確な目標を持ち、それを達成しようと頑張っている少年を見て。
楯守理子は。
ようやく、自分に足りないものがわかった気がした。
それは勉強ではなく。
良い成績をわけでもない。
それは―




