第28話「蛾の魔物。デビルモースとの戦い」
「おい、薬師寺。あまり前に出るなよ」
「いいえ。前に出てはいけないのは岸野君です。ここは私の庭園。私が体を張らなくてどうするんですか」
「そうは言うが、お前はサポートスキルが主の職業だろうが」
「問題ありません。言ったでしょう。私だって、この異世界で目を覚まして。それなりの魔物と戦ってきたと」
薬師寺は低い位置を旋回しているデビルモースを睨みつけて、その手を肩から背負った鞄に手を入れる。そして、そこから掴みだしたのは、一束の乾燥ハーブだった。
「これは私が育てた対魔物用のハーブ。生育している状態でも、魔物に対して不快な刺激臭を放つ植物です。そのハーブを乾燥させて、私の〈薬草学〉スキルで調合。特定の魔物に対して、様々な状態異常を引き起こす効果を持たせました。その効能を、身をもって知るがいい」
薬師寺良子は調合された乾燥ハーブを掲げて、その先端をマッチで火をつけた。
その瞬間。
まるで火薬に着火したかのように一気に燃え出した。黒煙が辺りに立ち込める。ハーブが燃えたところから、とんでもない量の煙が吹き出ているのだ。薬師寺は、その黒煙を噴き出す調合ハーブを、デビルモースに向かって投げつける。
ギャギャ、と魔物が戸惑ったような奇声をあげる。
黒煙に包まれていく蛾の魔物。
慌てて上空へと逃げようとするが、その羽の動きは鈍い。羽だけではない。巨大な蛾の魔物の腕や触覚、その反応さえも徐々に弱まっていく。……麻痺の状態異常か。その魔物の状態には見覚えがあった。
優斗は旅人のローブで口元塞ぎながら、自身の回りに漂う黒煙を払う。こちらまで麻痺になったら、たまったものではない。そんな優斗の姿を見て、薬師寺は穏やかに口を開く。
「慌てなくても大丈夫ですよ。人間には害がありませんから」
「……害がない? 本当か?」
「えぇ。巨大な蚊取り線香とでも考えてください。昆虫の神経系にしか効果のないハーブだけを使っていますから。もちろん、これだけの煙が出ますから吸い過ぎには注意ですが」
そう言って、薬師寺が説明する。
『薬師』とは非力な職業である。植物の生育や調合を得意とするも、魔物との戦いでは何の役にも立たない。そこで彼女が考えたのが、ハーブを使った状態異常攻撃だ。
元の世界でも、ハーブには昆虫除けや獣除けに使われていたりする。ならば、それを〈薬草学〉スキルで強化してやればいい。薬師寺が肩から掛けている革製の鞄には、魔物の種類別に効果のある調合ハーブがぎっしりと詰められていた。対昆虫型、対獣型、対鳥類型、対水性生物型。中には、ゴブリン特攻型や、トロール特攻型もあった。
……『薬師』の薬師寺良子。
彼女は〈薬草学〉スキルでの調合を得意とするサポート職でありながら、様々な魔物に状態異常を引き起こす、アイテム消費系型の補助攻撃職でもあった。
「それにしても、この煙の量。何とかならないのか?」
「仕方ありません。ありったけの麻痺ハーブを燃やしましたから。出し惜しみはなしです」
そして、思い切りも良い。
見上げれば、黒煙に燻されたデビルモースは、どんどん動きが弱くなっていた。体は痺れて、羽も動かなくなっていく。やがて体勢を保つことができなくなり、地面へと落ちていく。
勝負ありましたね。
薬師寺が自信ありげに言った。腰に差しているナイフを手に取る。刃には、魔物を仕留めるための毒を塗っていた。
立ち込めていた黒煙もすっかり晴れて、後に残されたのは、今にも地面に激突しそうになっている蛾の魔物だけだった。見るからに瀕死だ。
……そのはずだった。
不意に、空気が張り詰めるのを感じ取る。
考えるよりも先に、優斗は行動に出ていた。ロングロードを両手で握りしめて、地面を蹴り出す。そして、この不穏な空気を断ち切るように、薬師寺の目の前にある何もない空間を斬りつけた。
「ッ?!」
ガギッ、と鈍い音がした。
巨大な蛾の魔物。デビルモースが目前にまで迫っていた。受け止め方が悪かったのか、握った剣から嫌な衝撃が伝わる。確かに、先ほどまでは瀕死であったはずなのに。今、目の前にいる魔物は、優斗たちを食い殺さんと迫っていた。その怒気は、とても瀕死の魔物とは思えなかった。
……くそ。死んだふりとは虫のくせに小癪な。
「どう、して」
薬師寺が信じられない、という声を漏らす。
それと同時に、すとんと彼女は座り込んでしまった。あれ、と何かがおかしいと感じ始める才女。自分の両手を見て、小刻みに震えているのを確認する。力が入らない。立つこともできない。自分の周囲には微細な鱗粉が漂っているだけ―
「ちっ、これは一本取られたな」
優斗は旅人のローブで口元を塞ぐと、再び蛾の魔物と対峙する。
どうやら、行動を麻痺させるのは、この魔物も得意とするみたいであった。羽から放たれている毒の鱗粉。幻覚や毒性があると聞いていたが、相手の身体を麻痺させる能力もあるに違いない。
優斗に効果が薄いのは、単純に魔物と近距離で戦闘していたためか。ハーブの黒煙を払ったり、口元を塞いでいたから効果が出るのに時間差が出ている。だが、それも時間の問題だ。この庭園にある空間全体が、魔物の鱗粉の効果範囲だ。この場所で戦う限り、優斗たちに勝機はない。
「あ、ああ」
薬師寺が悲しそうな顔になる。
鱗粉の効果で、喋ることさえできなくなっているのか。優斗も剣を握る手が、どんどん痺れていく。このままでは二人とも魔物の餌食だ。だが、だからといって、仲間を見捨てることなど論外だ。
「くそっ、どうする!?」
剣を握っている感覚すら薄れていき、ふらふらと足元がおぼつかなくなる。そんな優斗を見て、蛾の魔物は上機嫌な奇声を上げる。ギャギャギャ、と牙を鳴らして目の前の獲物に狙いを定める。そのまま上空に飛んで、一気に急降下してくる。
まさに、そんな時だったー
「ところがどっこい! そうはさせないのだよ!」
男の鋭い声がして。
蛾の魔物が、爆炎に包まれていた。
唖然とする優斗と薬師寺。
彼らの視線の先には、割れた試験管が転がっていた。中に薬品でも入っていたのか、なにか燻っているような異臭がする。
「ハーッハッハッハ! キミたち、誰かを忘れていないかい!? そう、この天才・錬金術師である東野学のことを!」
いや、みなまで言わなくてもいいぞ。
賞賛と感謝の言葉は、後でた〜っぷりと聞かせてもらうからね! この僕がトイレに籠っていたことを感謝するんだな!
白衣を着た『錬金術師』。
東野学が不敵な笑みを浮かべて、ハーブ専門店の裏口から颯爽と飛び出していた。その右手には薬品の入った試験管がいくつも握られていて。その左手には、伸びきったトイレットペーパーが掴まれている。
ぎゅるるるっ、という情けない下痢の音が。
遠くから聞こえた気がした。




