第20話『拳法使い』の李・猫々(リー・マオマオ)。
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李猫々は『拳法使い』である。
元々、大好きだった日本人の祖父から教わった中国拳法を、大真面目に取り組んでいたのだが。その実は、祖父はただのカンフー映画が好きなだけの映画マニアだった。中国拳法に様々な流派や系統があることさえ知らず、映画に出てくる拳法の技を真似て、それを大真面目に猫々に教えていたのだ。結果として、李・猫々という少女は、流派や構えなど何も知らない、なんちゃってカンフーマスターになっていた。
台湾からの留学生である猫。
祖父が日本人であることから在留資格を有している。だが、それが日本で馴染めることの同義ではない。
生まれつき明るい髪の色。
まだ完璧には話せない祖父の母国語。異なる国の感性。幼いころから猫は、他人の顔色を伺いながら、どうすれば大好きな祖父の母国に馴染めるのか悩んでいた。それでも学校では孤立した。両親は家から出ていって帰ってこない。祖父も年々、歳を取っていく。このまま自分は独りぼっちになるのだろうか。暗い未来に絶望して、何もかもが不安になって。……そんな時だ。雁朔太郎と出会ったのは
先入観を持たず、いつも自信たっぷりに行動している男の子。
気がついたら、彼の後を追いかけるようになっていた。一緒に過ごす時間が増えていった。学校をサボって、釣りにいくこともあった。一匹も釣れずに、二人して笑って帰った。
それからも同じ時間を過ごした。
よく夜の散歩に出かけた。ガラの悪い不良に絡まれることもあった。犯罪行為に加担する半グレ連中にも。その全てを猫が捻じ伏せた。腕をヘシ折り、顎を砕く。彼女が鍛えてきた技は、一撃で人間を破壊するものだった。その拳を受けて無事だった人間はいない。警官に補導されそうになった時は、全力で逃げようとして。結局、警察のお世話になって、祖父に笑われながら拳骨を食らった。
その夜。
深夜までやっている居酒屋で一緒にラーメンを食べた。
猫も朔太郎も。そして祖父も。
嬉しそうに笑っていた。
その時間に、なにか救われたものがあった。あぁ、人生って。思っていたよりも気楽でいいのかもしれない。そんなふうに考えるようになってから、猫の世界は明るい色で満たされていった。
……だから。
……そんな世界から、この異世界で目を覚まして。隣に朔太郎がいるのであれば。
猫が迷うことなど、なにもなかった。
……帰ろう。
……あの彩りあるクソみたいな世界に。サクちゃんと一緒に。そのためなら、どんな敵だって倒してみせるよ。
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「……八極〈鉄山靠ッ!〉」
洞窟が揺れるほどの足踏み。
震脚から放たれる猫の強烈な一撃。その小さな体で放つ背中越しの体当たりは、トロールの態勢を崩すのに十分だった。
……ピギッ!?
巨体の魔物が悲鳴を上げる。
先に叩き込んだ高速の肘打ちは、トロールの分厚い皮下などものともせず。その衝撃を直に骨へと貫く。ミシミシと骨が軋む耳障りな音。そこに目掛けて、猫は追撃をしていく。
息をつく間も許さない、超至近距離での連撃。
体長3メートルという巨大なトロールを前にして、その距離は致命的だ。たった一撃。その太い腕に薙ぎられるだけで、小柄な猫などあっという間に戦闘不能になってしまうだろう。
更にいえば、トロールはその巨体ゆえに頑丈な体を有している。無尽蔵なスタミナに、分厚い皮膚は攻撃を通さない。鈍感のため、多少の傷など自分自身でも気がつかない。倒れるまで暴れ続ける。
それこそが、この異世界でトロールの討伐を難しいものにしている原因だった。都市規模の警備隊、もしくは国家規模の騎兵隊まで出動する必要がある。正真正銘の怪物。そんな相手に―
「……化勁流動からの、太極〈双寸勁〉ッ!」
小柄な少女が、圧倒している。
トロールの剛腕から放たれる薙ぎ払い。目の前のいるものを全て振り払おうとする粗雑な動きに、猫は静かな表情で両手を構えていた。そして、トロールの一撃を待っていたかのように、その腕に触れて、受け流し、その勢いのまま最大至近距離での中段掌底を放つ。
どすんっ、と深く重い音がした。
魔物の内臓を直に破壊するかのような拳に、あのトロールでさえ顔色を変える。どろり、緑色の鼻血が垂れる。息を詰まらせて、苦しそうな声を漏らす。
だが、猫は止まらない。
わずかによろめいた、その隙間さえ惜しむように。超至近距離を保って、連撃を放ち続ける。
「……形意五行〈劈拳〉、〈炮拳〉、〈鑚拳〉ッ! ……からの太極〈旋風二起脚〉」ッ!」
掌で肉体を貫き。
脚で態勢を崩す。
この異世界で目を覚ましたクラスメイトたちは、職業スキルを持っている。自分を積み重ねていけば、おのずと職業の技量はあがり、新しいスキルを身につけていく。人生の経験値がそのまま武器となる。
だが、猫は違う。
彼女は、この異世界で目を覚ます前から、実戦経験のある拳法使いだった。祖父から教えてもらった、なんちゃって拳法。それを独自に解釈して、自由な発想で発展させて。猫は、猫のように自由に生きてきた。
戦う相手が、夜の不良たちから、異世界の魔物に変わっただけ。倒すべき敵が目の前にいる。そこに変わりはない。
『拳法使い』の李・猫々。
彼女こそ、優斗のクラスメイトの中で。
最速の近距離戦闘職であった。
「……師父直伝。螳螂〈穿弓腿〉ッ!」
猫は腰を落として、まるでカマキリのようなポーズを取ると。トロールの攻撃を躱して、その懐に潜りこむ。そのまま片手で逆立ちをしながら、トロールの顎に向けて強烈な二段蹴りを食らわす。
いかに巨体な魔物といえど、生物であるため急所への一撃は痛烈だ。猫の渾身の蹴り技は、魔物の脳を揺らして、その動きを封じる。
そのまま、どすんとトロールが尻もちをついた。
度重なる連撃に、脳幹という生物としての絶対の急所。そこを狙われて、巨大な人型の魔物は、目を回したように表情がうわの空になっている。あー、うー、と野太い声を漏らしながらも、立ち上がることはできず。顔を青くさせたまま動かなくなる。
そこに、トドメの一撃を。
猫は、顔色を変えることなく放つ。
「……師父直伝奥義。八極〈猛虎硬爬山〉」
中段の突きからの連撃肘打ち。
隙ができたところを、さらに追撃して。曝された弱点を、これでもかというほど打ちのめしていく。短い吐息を共に放たれた最後の掌底が、トロールの巨体をわずかに浮き上がる。そのまま、巨大な魔物は動かなくなった。
圧巻の光景だった。
この場にいる、誰よりも小さい女の子が。
恐怖の象徴ともいえる巨大なトロールを、たったひとりで倒してしまうなんて。その場にいた下っ端の盗賊たちは、言葉にすることもできず。あんぐりと、ただただ口を開きっぱなしにさせている。
そして、優斗も。
冗談ではないという顔で彼女のことを見ていた―




