第1話「『見習い騎士』と『魔法使い』。」
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それは、夏休み最後の日のことだった。
あー、明日から学校だなぁ。嫌だなぁ、面倒だなぁ。などと思いながら、岸野優斗はベッドに横になる。期待していた高校生活だったのに、予想していたものとは違った。ギスギスとした空気が漂っていて、なんとなく居心地が悪い。優斗のクラスには少しだけ問題を抱えていた。それが明日を来ることを憂鬱にさせた。
時計の秒針が妙に耳に残りながらも、無理にでも眠ろうとする。
意識が遠ざかりながら、暗闇に落ちていく感覚。
そして、目を覚ましたら。
……この異世界で倒れていた。
目の前に広がっているファンタジーのような世界。見渡す限りの大草原に、見たこともない動物たち。そして、遠くの山々を飛んでいるドラゴンの姿。視界に入ってくる景色から、肺に入ってくる空気まで。なにもかもが自分たちの現実と異なっていた。そして、そこで倒れているのが、自分だけではないことに気がつく。
優斗の通っている高校のクラスメイトたち。
その人数は30人。同じクラスの全員が、この異世界で倒れていたのだ。自分だけではないことに一瞬だけほっとするも、その面々を見て、すぐに複雑な感情が湧き上がってくる。
自分たちが倒れていたのは、歴史のありそうな古い『塔』の前だった。
中世ファンタジーを思わせるような外観。その圧倒的でありながら、異質な存在感に言葉を失う。遠い空から太陽が昇る。穏やかな風が頬を撫でる。まだ、現実と受け止められず、他のクラスメイトたちを見た。優斗と同じように唖然としているもの。これは夢だと二度寝をしようとするもの。現実離れした光景に笑みを浮かべるもの。反応は、皆それぞれだった。
「おいおい、冗談だろう?」
クラスメイトの誰かが呟いた。
「ど、どこだよ、ここは!?」
「どういうことですか!? ちゃんと自分のベッドで寝てたはずなのに!?」
「まさか。クラスメイトの全員で異世界に来ちゃったってこと?」
「ありえない、そんなこと。……くくっ」
眩しいほどの朝日が、何も知らない優斗たちを照らす。
目の前の状況に理解が追い付かず、不安になるものがほとんどであった。そんなクラスメイトたちの中には、昨日は寝付けなかったのか。眉間にしわを寄せて、小さく丸くなって寝ている少女。雨宮舞穂もいた。
よほど明日が来るのが嫌だったのか。
その顔は、苦悶に満ちていた。
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「単刀直入に言おう。もう、お金がない」
はむっ、と黒パンを頬張っている雨宮舞穂が、優斗のことを見上げている。
早朝。
優斗はいつものように朝食の準備のため台所に立っていた。そこは街からは少し離れたところにある、小さな古民家だ。外観は蔓植物に覆われていて、中もどこか薄暗い。屋根裏部屋のようなロフト空間もあるが、そこは優斗が立ち入り禁止になっている、さらに生活空間が限られてくる。
手狭なリビングに置いてあるのは、簡素なテーブルと、オンボロの木棚。そして、手作りのソファー。廃棄処分される布地を貰ってきて、廃材で組み上げた。最初の頃は、ここで寝ると背中が痛くて仕方なかったが、今では問題なく熟睡できる。
こんな古民家でも、月の家賃を支払うと生活費がなくなるというのだから、本当に泣けてくる。
「もぐもぐ、……お金、ないの?」
舞穂がきいてくる。
まだ、ちょっと寝ぼけているのか、眠そうな声だった。
小さな女の子だった。
癖毛のショートカットから寝ぐせが飛び出していて、よれよれの寝間着が肩からずり落ちそうになっている。それでも胸や細い太腿には、わずかに少女らしい曲線を描いていて、ちゃんと女の子であることを主張していた。中学生の時は、もっと少年のような外見だった。それが今では誰の目からもわかるほど可愛らしい少女になっている。
ただ、その顔立ちには幼さが残っていて、大きい瞳とあまり伸びなかった身長もあってか、実際の年齢よりも随分とあどけない印象を与えている。
そんな少女が、小さな両手でパンを掴んで。
もそもそと小動物のように齧りついていた。
「あぁ。すっからかんだ。昨日のダンゴムシ騒動のせいで、ロクに稼げなかったしな」
「そうなんだ。……はむっ」
緊張感のない反応で、舞穂は黒パンを食べ続けている。
「もぐもぐ、……じゃあ、頑張って稼いできて。私はこのまま昼寝するから。よろしくー」
「そんな冗談も言っていられないくらい、金欠なんだよ」
「ふーん。ちなみに、どれくらいないの?」
ごくんっ、と自分の朝食を食べ終わった舞穂は、興味なさそうにきいてくる。
そんな彼女に向かって、優斗はあっさりと答える。
「そうだな。正確に言うと、明日のパンも買えない。今、食べたのが最後の朝食だ」
「え?」
舞穂が驚いたように目を丸くさせる。
「……まじで?」
「マジで」
「じゃ、じゃあ、明日から何を食べるの?」
「さぁな。そこら辺に生えている雑草をスープにするか?」
「あははー。じょーだん、だよね」
「いや、マジで」
優斗が真面目な顔で返す。
そんな彼を見て、ようやく危機感を感じたのか。舞穂の顔にも焦りが見え始めた。あたふたとしながら、自分がどうするべきなのか考える。
そして、そんな彼女が真っ先に見たものは。
まだ手をつけられていない、優斗のパンだった。
「じーっ」
おい、何を考えている。
などと問う時間もなく、舞穂は目の前のパンに飛びついた。そして、これは自分のものだと言わんばかりに両手で掴んで、背中を向けたまま口の中に入れていく。
「はむっ、はむはむっ!」
なんの断りの言葉もなく、他人のパンを喰らっていく。
そんな彼女のことを待ちながら、優斗は呆れたように溜息をつく。実際のところ、まだちょっとだけ余裕がある。だが、この雨宮舞穂という女の子は。予想以上にぐうたらな性格で、ちょっとでも余裕がある内は危機感など持ってはくれないだろう。
それが彼女と暮らし始めて、最初に思い知らされたことだった。
「食べ終わったか?」
「……うん。食べ終わった」
「あっそ。で、何か言うことはないか?」
「えーと、ごちそうさま?」
「何で疑問形なんだ?」
「だって、あまり美味しくないし」
「あー、わかる。ここのパンって安いけど、固いしボソボソしているし。全然、美味くないよなぁ」
「そうそう、それ」
「……で、人サマの朝飯まで食っておいて、働きもせずゴロゴロする。なんてことはないよな?」
「うっ」
舞穂が気まずそうに視線を泳がせる。
そして、そっと気づかれないように、自分の空間であるロフトへと逃げようとする。軋む梯子に手を取って、ゆっくりと登っていく。人の話を聞いているのか、怪しいものだった。それでも、最初に比べれば随分と進歩したものだ。一緒に暮らし始めたときは、会話すらできなかったのに。
梯子を上った先は、舞穂のプライベートな空間だ。
ここには優斗は立ち入らない。きっと、手も付けられないほどの汚部屋になっていることだろう。舞穂は自室になっているロフトに上がり、安物の毛布を頭からかぶって。じーっ、と警戒する小動物のような目で見てくる。
そんな少女に向かって、優斗は冷たく言い放つ。
「あー、ちなみに。今日も働かずにゴロゴロするつもりなら、……来月のお小遣いはないからな?」
「なっ!?」
びくんっ、と舞穂の小さな身体が飛び上がる。
転がるように梯子から降りてきて、優斗の目の前まで迫る。小さな両手を握りしめては、優斗のことを見上げていた。
「そ、それはズルい!」
「ズルくない」
「だ、だって、お小遣いがなかったら。噴水前のクレープ屋さんも、街角のクッキー屋さんも、買いにいけない!」
「そうか、困ったな」
「そ、それに! たまには、ちゃんとお風呂に入りたい! 川の水は冷たくて、もう嫌っ」
「同感だ。俺だって、ちゃんと人間らしい生活を送りたい」
「だ、だよね、そうだよね!」
「……でもな。雨宮」
小指で耳をほじりながら、優斗が他人事のように返す。
うん? と首を傾げている少女に向かって、彼は冷たい現実を突きつけた。
「そういった普通の生活をするためにも、お金が必要なんだよ。黙っていても誰も助けてくれない。ここらでちゃんと稼いでおかないと、俺たちマジで行き倒れるぞ?」
「うっ!?」
握りしめた小さな手を下ろして、沈んだような表情になる。
まるで、この世の終わりみたいな表情だった。そんなに働くことが嫌か。まぁ、俺もなるべくなる働きたくないが。目の前に迫っている金欠という現実には、どうにかして抗わなくてはいけない。そうしなければ、自分たちに待っているのは空腹という悲しい最後だ。優斗は虚しくなりながらも、目の前の少女に声をかける。
「雨宮。ちょっと休んだら、依頼を受注しに行くぞ。準備しておけよ」
「うぅ~、はたらきたくない」
「あん? 何か言ったか?」
「な、なんでもない!」
舞穂が慌ててロフトによじ登って、魔法使いの杖やらローブやら取り出していく。街の防具屋で買った、黒色のフード付きローブ。子供サイズだが、舞穂にはちょうどよいサイズだった。新品だったので値段もそれなりにした。
ごそごそと優斗からは見えない角度で着替えてから、危なっかしい様子で梯子を下りてくる。そんな光景を見ていた優斗も、壁に立てかけておいたロングソードに手をとって、旅人のローブを肩に掛ける。
……さて、手頃な依頼が残っていればいいけど。