プロローグ
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
「くそーっ、雨宮のヤロー! 後で覚えていろよっ!」
泣きそうな顔になりながら、男は必死に走り続ける。
生きるということは、格好悪いことの連続だ。
映画のヒーローのように上手くはいかない。どんなに情けなくても、どんなに惨めでも。前を向いて走り続けなくてはいけない。
……そんなことを言っていた担任の教師を、今は思いっきり殴りたい気分だった。
岸野優斗。
十六歳。普通の高校に通っている普通の高校生。成績も運動も真ん中くらいな、平凡な男子高校生である。そんな彼が、死に物狂いで走りながら、誰かの名前を恨めしそうに叫んでいるのには、それだけの理由があった。
ゴゴゴロッ!
ゴゴロ、ゴロゴロロッ!
頭の後ろから、地響きのような振動が伝わってくる。
人間の体は、どれくらいの勢いで潰されたらペチャンコになるのだろうか? 物理の授業では教えてくれなかった。少なくとも、優斗の後ろにまで迫っている丸い魔物。超巨大なダンゴムシに潰されたら、ただでは済まないだろう。
「ひーっ、死ぬ! マジで死ぬ! 絶対に死ぬ! あんにゃろう、作戦が違うじゃないか! このデカいのに気づかれないように、こっそり依頼をする予定だっただろう!?」
上空に広がる青い空。
清々しいほどの快晴に、鳥が悠長に飛んでいる。
左右には廃墟の石壁が続いていて、どこにも逃げ場はない。せめて、本日の働いた報酬分だけは離さまいと、旅人のローブに背負った袋をしっかりと握る。こいつを手放したら、今日もタダ働きた。……それは嫌だ! 久しぶりに肉を食べたい。ボソボソの黒パンも豆だけのスープもウンザリだ。ちくしょう! なんで異世界に来てまで、こんな極貧生活を送らなきゃならんのか!?
「くそっ、思い返すだけで腹が立ってくる! 雨宮の奴、自分だけさっさと逃げやがって!」
巨大ダンゴムシから逃げ回りながら、先に姿を消した仲間のことを思い出す。中途半端に魔物に攻撃をして、興奮状態になったら真っ先に逃げ出しやがって。ゴロゴロッとどこまでも追いかけてくる魔物にも、いよいよ嫌気が差してきた。くそっ、どうして俺だけがこんな目に。
「……ちっ、いい加減にしろよ」
そこまで考えて、優斗は目つきを鋭くさせる。
俊敏な動きで振り返り、無理やりに体の姿勢を変える。両足で地面を踏みしめて、土埃を巻き上げながら、高速で転がってくる魔物と向かい合う。その動きは、常人とは明らかに違う動きだった。瞬時に反転して、いつでも攻撃できる体勢を整える。腰を落として、構えた右手の先には、ベルトに結ばれた剣へと伸びている。
その瞳には、先ほどまでにはない。
強い覚悟が秘められていた。
「だが、残念だったな。今の俺には『見習い騎士』としての『職業』スキルがある。お前みたいな魔物なんて、一撃で瞬殺だ」
……この岸野優斗を舐めるなよ。
優斗は鞘に納まっていたロングソードを引き抜く。武器屋で在庫処分セールしていたのを、さらに値切って買ったものだ。巨大ダンゴムシだろうが、火山のドラゴンだろうが、この刃こぼれした剣で切り伏せてやる。
キッ、と鋭い視線で、巨大ダンゴムシを睨みつける。
視界に意識を集中させていく。
呼吸を整えて、感覚を研ぎ澄ませる。『見習い騎士』の職業スキルを発動。ロングソードを両手で構えて、その手に力をこめる。轟々たる地響き。あちこちから飛んでくる小さな石や砂。廃墟の遺跡を削るように巨大な魔物を前にして、優斗は静かに集中力を高めていく。
……ふん、楽勝だ。そんな図体ばかりデカい魔物なんて、簡単に倒して、や―
ゴロゴロゴロ!
ゴロゴロゴロゴロゴロッ!!
もはや壁とした形容できない巨大な魔物が、優斗を踏み潰そうとしている。
「……無理じゃね?」
巨大なダンゴムシが目の前にまで迫った。
その瞬間。
優斗は一瞬にして背を向けて、再び走り出していた。
「ぎゃーっ!? やっぱ無理! 絶対に潰されるって!?」
それは、あまりにも見事な逃げっぷりだった。そもそも街の近くにいる小型の魔物すら、ほとんど倒したことがないくせに、こんな大型の魔物と戦えるはずもなかった。
きひーっ、と情けない悲鳴を上げながら、全力で廃墟を逃げ回っている。と、そんな時に見えたのが―
「あひーっ、ふひーっ! も、もうダメ、……えっ、あそこにいるのは」
優斗がへろへろになりながら、遺跡の石壁に視線を向ける。その壁の上に立っていたのは、……ひとりの少女だった。
雨宮舞穂。
その『職業』は『魔法使い』。黒色のローブに同じ色のとんがり帽子。夜のように黒色の髪は、ちょっと癖のあるショートカット。表情の変化が乏しく、その目は少しだけ冷たい雰囲気がある。
そんな彼女の手には。『魔法使い』らしく、身の丈ほどもある魔法の杖が握られていた。
「あ、雨宮! お前、逃げたんじゃなかったのか! だけど、ちょうどよかった。お前の〈魔法〉で、こいつを何とかしてくれっ!」
全力で走りながら、優斗は安心した表情になる。
これで助かる。先に逃げたと思っていた仲間が、まさか俺を助けるために先回りをしていたなんて。雨宮、お前がそこまで仲間想いだったとは知らなかったよ。疑った俺を許してくれ。
ぐすんっ、と勝手に涙ぐみながら。優斗は期待した表情で、石壁の上にいる少女を見上げる。彼女と目が合う。言葉はなくても意思の疎通ができたという確信。まさに以心伝心だ。優斗は緊張が解けたように、走る速度を落としていく。
そして、少女は。
魔法の杖を持っていないほうの手を上げると―
「……」
バイバイ、というように手を振った。
……。
……へっ?
ぽかんっ、と優斗の頭が空っぽになる。後ろから迫ってくる巨大ダンゴムシ。無表情のまま助けてくれない仲間。もう体力は限界で、走る気力なんかこれっぽちも残っていないのに。
……マジか? この状況で?
……俺を見捨てるつもりなのか?
優斗の笑顔が引きつり、無情にも魔物は轟音を立てて迫ってくる。
「あ、雨宮――っ! お前、マジで許さないからなーっ!」
憎たらしくも無表情のまま手を振っている少女の横を、優斗は死ぬ気で走り抜けていった―
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