#11.0
「はい、今日の検査項目は以上になります。本日もお疲れ様でした」
公営の研究機関で働いているらしい東里さんが、にっこりと他人行儀な笑みを貼り付けたままそう告げてきた。
「では、失礼しますね」
そして、こちらが返事をする間もなく端的に言葉を紡ぎ、さっさと出て行ってしまう。
ひらりと翻された白衣の後に漂うのは、化学薬品じみた匂いだった。
彼女が主導する僕への検査。その項目は日毎に増えている。
最初は血液採取だけだったものが、最近は身体測定みたいなことまで始まってしまった。
握力を測られたり、筋肉量を計測されたり、妙なコードの繋がったヘルメットのような機器を被って運動させられたり。
父と妹はもう、異状なしということで今から三日前には日常生活に復帰している。
そんな中、僕だけ検査項目が増えていくようでは、まるで僕には明確に異常があるみたいで不安なのだけど……東里さんに訊いてみても、『心配いりませんよ』としか答えてもらえない。
「……はぁ」
梅雨ということもあって窓の外はいつも雨で、その上こうも家に閉じ込められていては鬱屈とした気分を溜めてしまうのも仕方がないことだろう。
父は仕事――退職にあたって、引き継ぎの準備に入っているらしい――で妹は学校、僕一人が缶詰めだ。
しかも、検査の時間は延びに延びて今では三時間ほど取られるようになっている。
いい加減、一日くらいは学校に通わせてもらえないだろうか。
検査がいつまで続くのかを尋ねても例のごとくはぐらかされてばかりだし、精神的な疲れが溜まっていた。
学校で堀岡たちがどうなっているのか、遠藤については、ついでに僕についてもどう話されているのか気になっている。
専ら堀岡たちに付き合わされていたせいで、事情を聞けるような友だちはいないし……ん、いや、待てよ。
そこまで考えたところで、僕は二週間ほど前のことを思い出した。
「………」
誰だったっけ、確か登校してこない僕を気に掛けてわざわざメッセージを送ってくれた人がいたはず……。
僕はアプリを立ち上げて、履歴を確認する。
「……深沢か」
深沢せな。
これまでは特に関わりもない相手だったけど、学校の様子をそれとなく聞くくらい、クラスメイトなのだし問題ない……はずだ。
――よし。
聞いてみよう。
『あれから学校がどんな感じか教えてもらえないかな?』
『ちょっと事情があって、今度いつ行けるか分からないものだから』
『唐突な話で申し訳ないんだけど』
立て続けに三通送った後で、そういえば今の時間は授業中だったと気付く。
今はまだ六限が始まったばかりだから、返信があるにしても少し後のことになるだろう。
スマホをベッドに放り投げて仰向けに転がった僕の耳に、コンコン、とノックの音が響いた。
たぶん、さっきまでいた研究員の内の誰かだ。
僕は慌てて起き上がり、応答する。
「はい、どうぞ」
ドアを開けて姿を見せたのはやはり、先程検査を済ませて出て行ったばかりの東里さんだった。
「一つ伝え忘れていた事がありました。明日、金曜日ですが、我々の検査が終わった後で自衛隊の者がこちらへ来るそうです。――では、また」
「……え? ちょっと待っ――」
パタン、とドアは閉められ、部屋には困惑した僕一人だけが取り残される。
深くため息を吐いた僕は、また仰向けになった。
自衛隊が家に来る……それが何故かなんて、考えるまでもない。間違いなく迷宮関連のことを聞きに来るのだろう。
今、日本で迷宮の調査を請け負っているのは自衛隊だけだという話と併せて考えると、ウチの迷宮を攻略する、とか……?
いや、土地の所有者は父さんだし、それなら父の時間が取れる土日に来るだろう。明日は金曜日だから、それは違うのではないか。
しかし、考えてみれば迷宮とは近隣にも被害を及ぼすかもわからない『災害』なのだし、そんなことは気にしていられない、か?
……結局、実際に来てもらうまでは分からない、ということだ。
僕は考えるのをやめてベッドに寝転んだ。暫し目を閉じて意識を手放す。
目が覚めたのは、スマホが通知音を鳴らしたからだ。
確認すれば、深沢――SNS上では『せな』――からの返信が来ていた。
時刻は十六時、授業が終わって放課後になったから送ってくれたらしい。
『状況は、先生たちがちょっと疲れてる感じで』
『みんなも結構ピリピリしてる』
『学校じゃご飯食べれないっていう子とかいるし』
『かなり大変そうだね』
『うん、あと』
そこで、少し返信までの間にラグがあった。
『堀岡くんたちも学校に来てないんだけど、その噂が流れてる』
知らず、スマホを握る力を強める。
『それは、どんな?』
『言いにくいんだけど……遠藤さんを追い込んだのは堀岡くんたちじゃないか、って』
『それってさ、噂なの?』
『噂だけど、先生が誰も否定しないから……』
『でも、肯定もしないか』
『そう。でも、否定しないってことは少なくとも今の段階では先生たちの間でもそう思われてるんだろうって』
『ほとんどの人は確信に近い感じで考えてるんじゃないかな』
『ちなみに、なんだけど。僕ってどう思われてる?
やっぱり僕も堀岡たちとまとめられてる?』
怖かったのは、そこだった。
あいつらと一括りで見られるなんて、冗談じゃない。
返信はすぐ付いた。
『いや、それは先生がはっきり否定してたから』
『まあ、だから尚更堀岡くんたちが疑われてるんだ』
僕については否定したのに、堀岡たちについては否定しないからか。
『そっか。なら良かった』
堀岡たちが、周りからの信頼を失ったみたいで。
とは、言わないけど。
心の底からそう思った。
『それとね』
『篠原先生が仁城くんの家に行こうかどうかって話してたよ』
『なんで……?』
『仁城くんが心配なんじゃない?』
『それとも、私から何か言っておく?』
『あー、いやそれは大丈夫』
『てかごめん、思ったより時間取らせちゃった』
『色々教えてくれてありがとう』
『全然いいよ』
『どんな事情か分からないけど、頑張ってね』
『ありがとう!』
『どういたしまして』
最後にスタンプを送り合って、僕たちは会話を切り上げた。
◇◇◇◇◇◇
「いってらっしゃーい………はぁ」
翌日、七時に通勤、八時に通学に出て行った父と妹を見送る。
九時までに今日の夕食の準備、それから父の夜食を作り置きして、昼までは勉強、昼食を摂って午後からは検査……という予定を立てていた。
不本意ながらもこの一週間ほどでルーティーンとなりつつあったその予定は、まだ午前だというのに訪問してきた東里さんたちのおかげで脆くも崩れ去る。
九時、僕は夕食用にカレイの煮付けと春雨サラダを作り、父のツマミには色鮮やかなパプリカとチーズを生ハムで巻いてタッパーに詰めていた。
妹と二人で暮らしていた時期があったおかげで、家事にはそれなりに自信があるのだ。
少し休憩したら勉強だ、と意気込んでいたのだけど、そこで家のチャイムが鳴らされる。
「はい……って東里さん?」
外のカメラと連携しているインターホンを覗けば、そこにいたのは東里さんたち研究員グループと、緑色の迷彩服を着た見知らぬ男性が二人。
カメラ越しの立ち姿ですら堅苦しさを感じるほどで、なるほど彼らが昨日の話にあった自衛隊員だろう。
『はい。普段より早い時間ですが、本日もよろしくお願いします。それとこちら、自衛隊の杵島さんと久米さんです』
二人が小さく、しかし機敏にお辞儀をしてきた。
外からはこちらの様子が見えないのだけど、僕も小さく腰を折る。
『……そうですか。どうぞ』
ドアのロックを解除して、十人にも届きそうなその集団を招き入れた。
迷彩服の人が出入りする家、ということについて妙な噂を流されないかが心配である。
「杵島さんと久米さんは初めまして、ですね」
先程と同じような動きで短く刈り込んだ頭を下げる二人に、僕も改めて深めの会釈を返した。
「それで、今日はなぜこんなに早く?」
東里さんは笑ったまま黙している。
こちらの事情ではない、という様子だ。では……。
「――それについては我々から」
杵島さんが口を切った。
「改めまして、自分は練馬の第一普通科中隊所属、杵島研二です」
「同じく第一普通科中隊所属、久米寛です。本日は―――」
彼ら二人の話によれば、二人は一応『災害派遣』ということでやって来たそうだ。
それで、早速今日から迷宮に潜行してみたいそうで、そのために予定を午前からに変更。
しかし、連絡ミスにより東里さん、ひいては僕にまで話が伝わらなかった、と。
それはつまり、今日一日、僕に心休まる一人の時間は訪れない、ということか……。
僕は気鬱が一気に増すのを感じた。
「災害派遣、と言っても人命救助や復興の必要も現時点ではなく、通例のものとは勝手が違いすぎるので……対応も探り探りになってしまい、申し訳ない」
「まあ……事前に対処しうる災害、ってことじゃないですか。そのために来てくれたんですから、謝る必要はありませんよ」
とはいえ、建前は大事だ。
帰れとはたとえ建前がなくとも言えないし、来てくれたからには、こちらとしては受け入れるだけである。
彼が悪いことではないのだし、と僕は建前と本音が半々くらいの気持ちで杵島さんを宥めた。
そこで話が一段落ついたと見たのか、東里さんが口を挟んでくる。
「私たちの検査が終わり次第、彼らと共同で迷宮に潜ってもらうことになります。時間としては、昼食以降、ということになるでしょうか」
……待て。
「「……」」
杵島さんと久米さんは険しい顔つきだ。
彼女の一言でこの場に不穏な空気が漂ったのは、僕の気のせいではない。
「あの」
そう切り出しつつ、一つ、息を吸い込んだ。
「いま、共同で、と言いましたか?」
「ええ、言いましたよ?」
当然のような顔で、東里さんは言い切る。
まさか、そんな話があるのか?
「ええと、皆さんの前でこう主張するのもアレですが、僕は『一般人』ですよ? 一般人を、命の危険がある場所で、自衛隊の方と働かせるんですか?」
しかも僕はまだ未成年で、そんなのお互いにとって危険極まりない行為じゃないですか、と。
「杵島さん、久米さんからは何もないんですか……?」
少し、躊躇いを見せるように小さく口を開いた杵島さんは、しかしすぐに口を引き結んだ。
そして瞳から光を消して、断固とした口調で告げる。
「――ありません。仁城さんには、我々と共に事にあたっていただきたい」