5.辛抱
ああ、胸がドキドキする。
心の底から強く身震いしている。アディダスの黒地リュックへ、震えの一部でも詰めこみたい。
「ねえ、やっぱり怖くてさ。もう少し低いのに乗ろうよ?」
まったく同じリュックを背負う町田が言った。寒風に吹かれ、白黒ストライプのマフラーがパタパタ揺れている。七十七匹いる分身も同じ柄で、直視してたら目をやられた。胸のドキドキが酷くなるはずだ。
十二月上旬の金曜朝。清々しく晴れ渡る冬空は、隠し事をするなと訴えかけてくるよう。素直になれって? いらないお節介だ。
俺と彼女は学校をサボり、隣町の遊園地にきている。この遊園地『青海レッドオーシャン』は、去年の暮れにリニューアルオープンして以来、初めて足を運んだ。園内の雰囲気や価値観は一変していた。
遊園地は都内の数少ない盆地に陣取る形で、周囲を針葉樹林の山々に囲まれる。荒く削られた山の斜面には、太陽光発電パネルが所狭しと並べられ、園内の消費電力の一部を担っている。
寒風吹きこむ園内を歩く俺と町田。彼女はマフラーや黒タイツという防寒対策にもかかわらず、俺の体温で暖を取ろうと距離を縮めてくる……。親友らしからぬ距離感だ。
手は繋いでないが、傍目にはカップルそのもの。事実、彼女はその気で振る舞っている。ふと気づけば、俺のボアジャケットの裾を掴んでおり、ただ振り払うしかなかった。
平日は人出が少なく、注目は少ないと踏んでいた自分は甘かった。家族連れや老人グループが意外と多く、カップルが妙に浮いている。誰かとすれ違う度、ガイドマップで顔を覆いたくなる。
「おいで、邪魔しちゃいけないよ。こっちおいで」
「あっ、ウン!」
駆け回る男児とその母親に気を遣わせる始末。……まったく恥ずかしい。
「ああいう家族を持ちたいね?」
ほとばしる悪寒。分身二匹目を目にした朝を思い出させる。あのときは、自分は悪夢の中に沈んでると思った。
「な、何言ってる? その、気が早過ぎだろ?」
ああ、俺はなんて返しを……。誤解を招く言い方じゃないか。
「だよねー。まず式を挙げなきゃだし」
「…………」
町田は幸福感で満ち溢れ、俺はまったく気が抜けない。彼女も分身による違和感を抱えてるはずだけど、足取りは軽やかだ。しかも普段と変わらない、呑気な調子でいる。俺もこういう具合に能天気でいられたらな……。
「ところでさ、俺が一緒だし大丈夫だろ?」
「うーん、やっぱ無理! ゴメンだけど、ああいうハード過ぎる系は怖い」
呑気に勝った高所恐怖症。幼い頃から変わらないな。
「アッチならいいよ。高さ控えめだから」
彼女の指先は、高さ二十メートル足らずのジェットコースターへ向いている。木目調の四人乗りトロッコに揺られ、長方形の骨組みコースをグルグル回るだけ。幼児から女子大生向けの、ささやかなジェットコースターだ。出口の下り階段を、二組の家族連れが笑顔でおりてくる。
「……ああ、わかったよ」
「サンキュ!」
不満を押し殺す俺と、笑みを浮かべるばかりの町田。そして今日も変わらず、無表情な分身ども。せめて奴らがいなければ、親友として今日一日楽しめるのにな。
遊園地という場は、非日常感に身を委ねさせてくれる。愉快なアトラクションや、心ときめかせるシステムに金を払い、人々が楽しい思い出をつくれる場所。
しかし今の俺が欲するのは安堵だ。それを得るため、分身を殺しにきたんだ。今日は非日常感に身を委ね、思い出をつくる日じゃない。本来の目的を忘れちゃダメだ。
アトラクション、それもライド系の高低差やスピードにて、分身どもを皆殺しに! 固い地面や鉄骨、乗り物などに衝突させれば済む。例えば、分身がジェットコースターの前方に再出現すれば、衝突死で一丁上がりだ。事故ですらない事を起こすんだ。
……しかし課題は、町田が高所恐怖症という点。殺せるアトラクションは、高度を売りにするそれとほぼ重なっている。さっき乗り損なったジェットコースターがそう。
なので選択肢は限られてしまう。元カノと行ったという立川から、激しく盛り上がるアトラクションをいくつもあげてもらったが、半分近くがダメそう。
振り子式ヨットで三匹、回転式マイボトルで一匹殺せたのは幸運だ。けど彼女に怪しれまれず、何度も乗れるわけじゃない。それにお金の問題もある。
廃材だけで造られた、ガタガタ軋むジェットコースター。バードストライク上等な巨大風力発電機に据え付けられた、羽毛まみれフリーフォール。……どっちも霞んで見える。
町田希望のジェットコースター的なコレは、子供向けの高度やスリルを売り文句にする代物。悲鳴なんて全然あがっていない。
ああクソッ、危なさゼロ! 高さがショボいだけじゃなく、安全ネットが病的に張り巡らされている。中学生カップル向けでも、分身殺し向きでもないアトラクションだ。責任逃れな安全第一……。
半笑いの女性係員に、「念入れ安全バー」を膝へ下ろされ、幼稚な注意事項を読み上げる間、俺は悩んだ。さあどうしたものかと。
「私が一緒だから大丈夫だって」
町田がニヤニヤしながら言う。この程度が恐怖なら、分身の存在で狂い、小便漏らしてるところ。
あくびを誘うように、ゆっくり動き出すトロッコ。乗り切れなかった多くの分身どもは、レール脇の非常階段をあがっていく。一段一段のんびりとした動作は、まるでバカにされてる。
――予想通り、戦果はたったの三匹。安全ネットの死角からの落下死で二匹、トロッコに轢かれた一匹だけ。
残してある睡眠薬で彼女を眠らせ、マフラーで分身を絞殺してしまうか? 人気のない地雷系アトラクションの物陰なら、七匹はいけそうだ。
……いや、即眠らせられる睡眠薬の量は、あと一回分程度しかない。今はまだ時期が悪い。
「トイレ行ってくるね。寒さで体が冷えちゃった」
町田はそう言うと、磨かれた赤レンガのトイレへ急ぐ。大勢の分身どもが後に続き、マフラーをバタバタ揺らした。人数分からなる白黒ストライプの高波が、俺の目眩や不快感を誘う。
ここで顔を洗い、リフレッシュだ。それからガイドマップを広げ、立川が挙げなかったアトラクションから、良さげなのを見つけよう。
そして、女子トイレから伸びる分身の行列から目を背け、男子トイレに入る俺。「環境保護のため、お湯は止めてあります」という張り紙に目にするなり、大きく舌打ちした。黒いダクトテープで縛られた赤い蛇口の横で、青い蛇口が冷酷無比を示す。清潔感を保ちたいなら、凍る寸前の冷水で手や顔を洗えというわけだ。
この程度でためらってどうする? 分身どもの差す視線と違い、冷たさの理由はもうわかってるじゃないか。
俺は青い蛇口をひねり、洗顔を繰り返す。手が震え、歯が鳴り始めるまで、時間はかからなかった。再び迸る悪寒は腹痛を呼び、足を個室へ向けさせる。
個室がすべて空いてたのは、平日のおかげと思おう。俺はあの割引券を思い浮かべつつ、冷たい便座に腰を下ろした。
「直樹いる? お腹かなりひどい?」
町田が下の名前を呼びながら、ドアを数回叩いた。「今は女性」の体裁で男子トイレに入ってきた彼女……。自分が逆をやられれば、一生セクハラだと叫ぶだろうな。
「まあまあな感じ。外で待ってろよ」
「……うん」
遠のく足音。腕時計と記憶から、トイレに入ってから三十分は経っていた。呼びかけられるまで寝てたんだな。ドキドキは少々収まった。
大丈夫だ。今は昼前で、他のアトラクションを回る時間は十分ある。最寄りの有望株は何だろう?
町田はトイレから出た所にいた。両手にホットコーヒー入り紙コップをそれぞれ持ち、片方を差し出してきた。心配八割と呑気二割の表情を浮かべてる。まあ、これはありがたい。
「ミルクと砂糖だよね?」
「そう、ありがとな」
受け取り一口飲んだとき、変な罪悪感が湧く。このまま惰性的に彼女と過ごしていいのか? 彼女は俺に「愛情」で接するが、俺は「友情」までだ。彼女と「大人の人間関係」は結びたくない。
それに、そもそも分身問題なんて起きなければ、今日も普段通り登校した。消化試合じみた授業を受け、町田や立川やらと他愛もなく雑談している。檜原さんの黒髪に魅力を覚えもするわけだ。思春期や周囲に振舞わされる、平均的な男子中学生の日常を……。
ぼんやりと、コーヒーの湯気を目で追いかける。薄っぺらいそれは、離れたフリーフォールの高い柱と重なり消えた。座席の輪は急降下し、耳障りな叫び声を届けてきた。
「アレならいいよ」
町田が呟いた。ジェットコースターは勘弁だけど、フリーフォールなら堪えられそうとのこと。
「ただし、先に私が好きなの遊ばせて?」
「えっ、ああいいよ。何でもいいよ」
条件付きとはいえ、ありがたくて堪らない! 俺は勝気になり、分身ども見渡した。同じマフラーを巻き、黙々と存在し続けるこの集団から、日常を取り戻すんだ!
新型観覧車に次ぐあの高さなら、分身をまとめて葬れる。まず、座席の輪が頂上に達するまで、落下でベチャッと! 急降下のカウントダウン中にも、麓で紅く果てていくわけだ。あまりの絶望感から、奴らは泣き崩れるかもな。
俺と町田はその間、下を見ず遠くの景色を楽しめばいい。彼女がガチな泣きっぷりを披露し、取り乱さないよう願うぐらいだ。
「ホラホラッ、行こう!」
軽やかに歩き始める町田。
彼女を追いながらガイドマップを開き、どのアトラクションなのか予想する。彼女チョイスはきっと、雰囲気重視の類だろう。いかにもカップル向けで、男側に愛想笑いを始終求めるような……。
まずあげるとすれば、「予後不良の馬、再び表舞台に!」を謳うメリーゴーランドだな。間違いなくそう。
けどこの際、剥製の馬に彼女と二人乗りでも構わない。
「ベルト締めた?」
「もちろんしっかりと」
係員の笛が鳴るなり、俺の背中や後頭部はシートに押しつけられた。眼前で翻弄される分身どもと、唸るモーター。それから運転席には、何かの領域に達した面持ちの町田が……。
小学校の遠足で来た日を思い出す。彼女の荒々しい運転にやられ、俺はゲロを吐くハメに……。手荒な急発進も、その流れを繰り返すよう。
あの日はゴーカートで、今日はバンパーカーときた。狭いスペースで車をぶつけ合うこのアトラクションに、彼女は以前から憧れてたそう。高さに怯えず、スリルを満喫できるもんな。
木造に建て直された遊戯施設にて、改造済み電気自動車の助手席で揺さぶられる俺。そんな状況で後付けのペダルをこぎ、バッテリーに電力を送る。こがなきゃ車が止まり、分身を殺せなくなる。
荷室に籠る二匹と、ボンネットや屋根に掴まる数匹を除き、他の分身は車の周りに展開する。そして俺の目には、他車や壁際なんて見えやしない。映画でゾンビ集団に囲まれるシーンに似てなくもない。
「あのリーフの横っ腹を狙う!」
「や、やり過ぎるなよ?」
ハンドルを握りしめ、狙いを定める町田。それから躊躇なく、アクセルを踏みこんだ。モーターの唸り声からは殺意を感じ取れた。
名前は忘れたけど、この車も日産だ。時代遅れでダサいデザインなのに、町田の「カワイイ!」という一言で決まった。しかも、狭く小さな二人乗りときた。
町田運転の車は、奴らを蹴散らし進む。車体の下へ消える奴もいれば、鉄柱で首を直角に曲げる奴もいた。今の二匹も合わせ、すでに六匹は殺せてる。「車は走る凶器」という言葉が、とてもしっくりきた。
身構える間もなく、車は日産リーフの右側面へぶつかる。互いのバンパーが軋み、ボオーンという重厚感ある音を立てた。衝突から振動が収まるまでは例のスローモーションで、数秒間のはずが一分以上に感じられた。時間に比例し動作も鈍くなり、体に走る痛みや不快感を長々と味わった……。さらに、シートベルトが胸や腹に喰いこみ、舌を噛みかけた。こみ上げる苦しさに、しばらく咳きこんだ俺。
せめてもの救いは、衝突により分身を一匹殺せた点だ。胴体はバンパー同士に押し潰され、頭部は後部ドアで半壊した。
死体が消滅し、窓の紅白模様も消えると、男児の唖然とした顔が見えた。今日がトラウマにならなきゃいいな。
……彼女は勝ち誇った表情で、横滑りまでさせたリーフを見つめている。ただ俺の咳に気づくと、表情を多少は和らげた。
「おおっと、大丈夫?」
大丈夫じゃないと言えば、今すぐ降ろしてくれるのか? 黙ってこぎ続け、カウントしていよう。俺は彼女へ手を軽く振った。
ところがこぎ始めた途端、また衝撃に襲われる。危うく、ダッシュボードで額を打つところだ。後方から飛ばされた分身が、ボンネットで額を強打し消え失せる。八匹目だ。
「危なっ!」
ルームミラーを睨みつける町田。彼女のキレ顔から、左側のバックミラーへ目を移した。
分身を蹴散らしながらバックする、トヨタの二人乗り電気自動車だ。……同じ二人乗りのそれには、険しさマックスな女子高生二人組が乗ってる。カップルへの敵対心を露わにし、一度や二度の追突じゃ済まさないつもりだと察せた……。
町田はやられてたまるかと、車を急発進させた。シートに押しつけられる俺と、跳ね飛ばされる分身ども。
ああ、酷い立ち眩みがきた。薄れる視界の隅で、九と十匹目が消え失せていく。それから、後ろのトヨタ車が十一から十三匹目までを……。
係員が終了の笛を吹くと、町田は渋々ながら車を止めた。意識がボンヤリする中、分身どもを見回す。カウントは十七匹目で諦めていた。車酔いで吐かないよう堪え、ペダルをこぐので一杯一杯だった。
俺はあの日と同じ境地に至る。町田には助手席がお似合いだと。ぶつけてきたトヨタ車の二人組と同じく、運転免許を取らず、助手席に収まっててくれ。できれば静かに穏やかに。