3.支障
思い出に困る三日間だ。多すぎて困るわけじゃない。感想文で書き残せるそれを、ろくにつくれなかった……。
教室で居残り、紙の空白と向き合う俺を、町田が呆れ顔で見てくる。それから、無表情の分身ども。
「たくさんあったじゃん。清水寺でさ、清水のえっと、清水の舞台から落ちかけた件とか」
町田のアドバイスを元にした記憶から、もっともらしい思い出を練ろう。差し障りも分身も無い、大人からの受けがいい文章を。
長ったらしい表現に頼り、質は酷いものだけど、規定の文章量は越えられた。ひとまず提出さえできれば、今日は帰れるんだ。
「またまたギリギリだな?」
職員室で担任三宅は、嫌味ったらしく一読する。読み終えると机に紙を置き、座ったまま俺を見上げる。
「京都奈良はつまらなかったか? これじゃまるで、普段通り過ごしてたみたいだぞ?」
ああ嫌味。校門で町田を待たせてるし、反論は控えよう。まさか分身の話をして、ムダな時間を過ごす気はゼロ。
「一応OKにしてやる。だけどな日野、親にお金出してもらった以上、思い出は十二分につくるもんだ」
再提出を求めないながらも、担任は説教したくて堪らないご様子。世間に跋扈する教師の何割が、こんな説教で残業するんだろうか?
共有できる思い出は一つもない。思い返せるのはどれも、分身に関わることばかりで、修学旅行を楽しむ中学生らしさは出せなかった。
湯舟にもゆっくり浸かれず、女風呂からの不穏な喧騒に落ち着けなかった。
「そこに誰かいない?」
「えっ? けど誰も……。外なのに圧迫感するね」
露天風呂に町田が浸かり、周りの岩場に分身どもという光景だろう。思春期の俺たちは、女子のそんな会話にドキドキしたよ。いや俺はヒヤヒヤか。分身も女性で、たいした問題じゃないはずなのに。
……しかし、思い出に困る修学旅行にも、収穫が二個ある。分身に関して、小さな実と大きな実を一個ずつ。
小さいほうから話そう。
分身は町田本人からある程度離れると、ポンッという具合に、そばへまた現れやがる……。駅に置き去り後、新幹線車内に現れた理由がそれ。旅先のバス移動で得た経験から、豆粒ほどの遠景と化すと、再出現すると判明した。たとえ飛行機やロケットでも、ふと横を見ると、奴らがいるわけだ。
しかし、大きな実も旅路で得られた。
死ぬ、奴らは死ぬ。カジュアルに言うと、奴らは消える。新幹線で死んだ一匹分が消失していた。元々いた三十四匹から三十三匹に減っていたんだ!
人並みに死ねば、奴らは数を減らす。翌日分に繰り越す形で増えもしない。悲しむことも怒ることもなく、奴らは日常を繰り返すだけ。
つまり、俺が全滅させ毎日一匹殺せば、奴らから視線を向けられずに済む。帰りの新幹線でその解決策を思いつけたとき、俺はつい唸ったもの。
そうだ、大きな実から得た解決策を移そう。今日こそ!
「よし、それじゃ帰っていいぞ」
十分に説教を終え、担任はどこか心地良さげ。俺はその間、練っていた解決策を脳裏に浮かべていた。お互いに意味のある時間を。
「ハイッ!」
担任や周りには威勢よく聞こえたらしい。何人もの視線が俺へ向けられたけど、この程度なんともない。
町田は校門前でいつも通り待っていた。今日も大勢の分身を引き連れて。
校門のサビを際立たせる、尖った斜陽。路面に伸びる人影は俺と町田の二人っきり。世間の目にはそのように……。
しかし、それを今日こそ解決するんだ!
「気に入らないから再提出だってさ」
「ええっ? 文字足りてたし、オチもまあ悪くなかったよ?」
信じられない様子で、俺の顔を伺う彼女。ウソと見抜かれない用意はしてある。
「けど書き直して、明日また出せって。ホント性格悪いよな」
俺はそう言い、真っ新な用紙を見せる。あらかじめ余分に取っておいた紙だ。
「うわうわっ、最初からとか酷いね」
ああよかった。もちろん手伝ってもらうよ。
「お前の家でその、いい?」
突然の頼みを、彼女は快く引き受けてくれた。彼女の両親は帰りが遅いし、俺への印象は悪くない。……むしろ、良すぎて困るほど。
専業主婦付きの我が家では難しく、他に当てはない。なにせ、今や四十匹以上に膨らんだ分身どもを、誰にも怪しまれず殺さなきゃならない。そう、本人にもだ。
町田宅は幼稚園児から何度も訪れてるが、これほど緊張したことはない。彼女がいれた濃い目のカルピスを飲み、リラックスを図る。とろみを喉で感じつつ、解決策の詳細を思い出した。
まずはグラスを置き、できるだけ自然にあくびしてみせる。
「ガムある? 眠気覚ましにさ」
彼女を部屋から追い出さなきゃいけない。
「……んんっ、ゴム?」
「ガム! 菓子のガム!」
「ハハッ、ちょっと待ってて」
町田は部屋から出ていく。分身も後に続き、俺は一人残された。ここまでは順調だが、これから一気に難しくなるため、再び緊張が走る。
窓の外を確認後、ズボンポケットから小さなビニール包みを取り出した。これを町田に与えれば一線を越えるわけだけど、やるしかない。
ラップで包んだ中身は睡眠薬だ。心療内科で処方された『マイスリー』とかいうクリーム色の錠剤を、溶けやすい粉末状にすり潰した。大人一日分の上限に当たる量なので、爆睡できるはず。
……もし永眠でもした場合は、自首して償うつもりだ。
ラップを開封し、町田のグラスへ粉を流しこむ。白く濁ったカルピスへ徐々に溶けていった。多少溶けなくても、ドロッとした濃密さで違和感はないだろう。
そして彼女が戻るまでの間、自分のリュックをボーと見ていた。用意したのは睡眠薬だけじゃなく、分身を殺すための包丁を、中に潜ませている。中学校の家庭科室から借りてきた、プラスチック柄の安っぽい文化包丁だが、十分事足りるはず。
分身の血は消えるし、掃除時間の隙に戻せばバレやしない。
「ちょっと古いけど、ペンギンのガムならあった」
分身と共に部屋へ戻ってきた町田。彼女や分身は、少しも怪しんでいない。
「ああ上等上等、ありがと」
ミント味の板ガムを一枚頂戴し、すぐさま噛み始める。口一杯に強い爽快感が広がっていく。ちょうどいいリフレッシュだ。
「この前、朝食で牛乳噴いた話しない?」
彼女は苦笑いすると、グラスを口へ大きく傾けた。喉を睡眠薬入りカルピスが流れる音が、鼓膜に響き聴こえてきた。
「えっと、まあ悪くない」
そう答えながらグラスを見ると、彼女は飲み干していた。怖いぐらいすっかりと……。
処方された睡眠薬は、たちまちよく効いた。死なせたと思ったほど、ドッと効き目を放つ。
イビキをかき眠る彼女を、分身どもは囲んでいる。何事もせず立ち尽くし、俺を見つめるばかり。しかし何か言いたげな瞳の星々。ティンクルティンクル。
普段より強く刺さる視線に、緊張感が酷くなってきた。全身に汗が湧き、額からは一筋。
「いい事、これはいい事、必要な事」
自分自身へそう呟き、深呼吸を繰り返した。現在進行形で流れていく手汗で、包丁の柄はビシャビシャに濡れている。
床へ落とし傷つける前に、俺は行動に移った。彼女本人の様子を伺いつつ、一番近い分身の首右側へ、刃先を平行に寄せる。刃の上面に映る、彼女の左耳。
首筋の頸動脈を切れば、分身だって人並みに死ぬだろう。人間様の作った新幹線が殺せたんだから、俺個人にだって!
「……ハアッ、ハアハアッ……」
俺の吐息が、口を閉じても漏れ出る。幸い、分身どもは無反応だ。
窓の外を確認する。とっくに日は暮れ、家々の間に見えるのは、ぼんやりライトアップされた夜空。ただその手前には、包丁を握りしめた中学生が浮かんでいる。窓ガラスに反射した、恐ろしい俺自身が……。
バレないかと不安が湧きたつ。今から取る解決策は、傍目にはキチガイそのものだし用心すべき。寂しく浮かぶ一番星さえ、油断ならない気分だ。
俺は包丁を下ろし窓辺に赴き、分厚いカーテンを閉めた。薄明るい夜空や危ない中学生は消え、安心安全が訪れる。アドレナリンを引き連れて。
「やる、やらなきゃ」
アドレナリンは俺を奮い立たせた。「実行力」の標語を掲げ、まるで手足を操り、鼓舞するかのよう。重苦しい負荷がかかるのを、全身で感じられた。
そして俺の手は動き、分身は首筋から鮮血を噴かせる。派手な演出に思え、実感は何も湧かない。
旅先でのあの朝、俺が彼女目がけ牛乳を噴き出した一幕も、傍目には似て見えたかもな。……いや、見えるわけないんだ。
「ねえ瑠梨! 日野君来てるの?」
中年女性の声がドアの向こうから届く。ああ、町田の母親が帰ってきたんだ。
俺はぐっと息を潜ませる。それから分身や時計、町田本人へ視線を次々移す。今すぐ状況を確認するんだ。アドレナリンの残党が、分身どもを難なく数えさせてくれた。
……カーテンを閉めてから一時間以上経過していたが、殺せた分身はたった四匹だ。なんと、四十二匹から三十八匹に減らせただけ。
本人や分身どもを前に、立ち尽くし落胆する俺。死体や血がまったく残らない事情が、俺をさらに落ちこませた。今すぐもう一匹殺そうという気すら湧かない。
自分の見通しが甘く、簡単な解決策じゃないと自覚できた。
「こんな夜遅くまで、二人っきりで何を!?」
大声の後、階段を上がる足音が聴こえてくる。軽やかな足取りが、俺の防衛本能を余計に呼び起こす。
彼女の母親は間違いなく、ニヤニヤ笑いを浮かべてる。包丁をリュック内の奥へしまいながら、気持ち悪い展開を予想できた。
町田母がドアを開ける前に、眠る彼女を起こさなきゃ、イヤらしい疑いすら持たれる。下手すりゃ、睡眠薬を飲ませた点も……。
「起きろ、もう起きろって!」
分身どもが見下ろす中、彼女を起こしにかかった。少々乱暴だが、頭を左腕に乗せ、頬をパンパン叩いた。弱く弱く。
「んっ、んんっ?」
かすかに開いた、彼女のまぶた。だがすぐさま閉じる。睡眠薬を多く飲ませたか?
頬をまた叩いた。強く強く。
「……んんっ、なに、一体なに?」
今度こそパッチリ開いたものの、彼女は俺を睨みつける。眉間に浮かぶシワから、強めで叩いたせいだと察せた。頬の紅色は深い。
「ちょっとさ、痛かったよ? 優しくできるでしょ、もう」
目をこすりながら文句を垂れる町田。
分身を殺した悪影響じゃないとわかったが、「痛かった」という言葉にはドキッとさせられた。とはいえ、彼女に怪しまれずに済んだ点は何より。
「あら、あらあら、これはあらあら。うん、これはそう、アレよね?」
開いたドアの隙間に、右目と口が見える。
間に合ったものの、これは円満解決じゃない……。隙間の先に、母親のニヤニヤ笑いがハッキリと見える。あの笑みは、娘の成長に対する歓喜が、大げさなほど強くこめられている。
ああクソッ、取り巻く状況が恐ろしく複雑に……。沈む沈む。