岐路
終業式を終えた夏休みまで、補習と言って学校へ駆り出される。
(どこが夏休みだ、どこが)
暑さに弱いくせにのどが乾かないと言って水を飲まない彼女は、すぐに夏バテで体調を崩した。その日も例に漏れず、朝から大層悪い顔色をしていた。彼女自身、最後に熱を出したのは高校受験のあった三年前。自分が体調不良であることに気が付くまで少し時間がかかっていた。
そして、避けられぬ英語の授業。当てられないかとひやひやしている余裕もないほど、彼女は真っ青だった。なお本人は少し頭が痛いとしきりにこめかみを抑えていた。
教師は、目敏くそれを見つけた。
「おい、お前顔色悪いぞ」
授業中、突然そんなことを言い出した。彼女はこの暑さに誰か体調崩したのかな、とまるで他人事のように思っていたが、教師の視線はこちらに向いていた。隣に座る友人を見やれば、友人はこちらを見ており、目が合うとうなずいた。
「体調悪いのか」
認めてしまえば頭痛は一気に増したように思えた。彼女は深呼吸をした後、こくりとうなずき、意思表示した。
さて、どんな対応をするのか。夏期講習中に保健室は稼働していない。どうするべきか彼女にはわからなかった。
「保健室やってねえもんな。じゃあいいや、お前、そいつを職員室に連れて行ってやれ」
(…職員室?拷問か?)
教師という職業の人間があまり好きではない彼女は耳を疑った。しかし保健室が開いていない以上それ以外の方法は思いつかない。頭痛は増していく一方で、教室にとどまりたいとも思わなかった。付き添ってくれたクラスメイトにお礼を言って、彼女は職員室に赴いた。
職員室で待機していたのは、授業が入っていなかったのだろう元担任であった。元担任ではあるが他の授業の担当者でもある彼とはなかなか接点も多かった。元担任は、生徒からも職員からもあまり良く思われていなかった。相手にも自分にも厳しく、気を遣うことが苦手だったのだと彼女はそう分析している。お節介が過ぎるという短所もあった。しかし、相手や周りのことをよく見ている人で、彼女は決して嫌いではなかった。
「どうした?」
授業中にもかかわらず職員室へ姿を現した教え子たちに、元担任は目を丸くした。
「ちょっと体調悪いみたいで」
彼女に代わってクラスメイトがそう答えた。
「そういえば保健室開いてないな。わかった、じゃあそこの部屋で休んどけ。お前は授業戻りな」
元担任は納得したようにうなずくとそう提案し、彼女に付き添ったクラスメイトを授業に戻した。彼女が案内されたのは、ちらりと一度だけ中を覗いたことがある進路指導室だった。元担任はてっきり職員室に戻るものだと思ったが、なぜかあまり広くない進路指導室に二人きりという訳の分からない状況に追い込まれた。
「どうだ、体調は」
元担任は彼女のために椅子を引っ張り出しながらそう問いかけた。それに腰を掛けながら彼女は礼を言う。
「ありがとうございます。まだちょっと気分悪いですけど、さっきよりはマシです」
「そうかい」
(先生、なぜ職員室に戻らないのか)
彼女は疑問に思ったが、さすがに体調不良の生徒を一人にはしないかと元担任と向かい合わせになって会話の流れになった。
「誰の授業だった?」
「……かの英語教師様です」
「お察し。お疲れ」
「ありがとうございます…?」
「最近どうだ、調子は」
「調子、とは」
「人間関係とか、進路とか。あるだろ」
「…なんかいろいろ疲れましたね、精神的に」
「まあ受験生だしな。そういう時期だろう。無理はよくない」
「ええ、まあ…そうですね」
「でもまあ…お前はちと噂になってるからなあ」
「ああ…ですよねえ…」
元担任の言っていることがかの英語教師であることを察した彼女は、すみませんねえ、と苦々しげに笑った。あの教師は愚痴を職員室で言いふらしているらしい。それでもって、お前のところの生徒は、と彼女の担任にクレームを入れているというのだ。本来なら担任から彼女に注意が入るはずなのだ。もう少ししっかりやってくれだの真面目に授業を受けろだの。しかし彼女はそんなクレームを今の担任から言われたことがない。恐らくクレームを受け流すことで彼女を庇ってくれていたのだろう。担任にそんなつもりが全くなかったとしても、彼女はただ嬉しかった。彼女の今の担任も、かの英語教師を良く思っていないのだ。
「いや、俺もお前のところの先生もあの人苦手だから、気の合わない生徒がいてもおかしくない。お前の気持ちはわかる」
彼女は救われた気分になった。周りの生徒たちは皆妄信的にかの英語教師を崇拝しているのだから。
「…それは、ありがたいです。みんなが慕う理由が分かりませんもん、私」
高校入学時に感じた素晴らしい人、という姿は己にかけられた幻覚だったのだ。自分は目が覚めて、皆はまだ夢の中にいるのだと彼女は信じた。そうでなければ自分を守れなかった。
「確かに、先生としてはとても優れている。話を聞いていて感心することも沢山ある。でもそれと相性はまた別の話だ。お前が不満に思っても無理はないぜ、正直」
「私こんなにも嫌悪感抱く人いるんだって思いましたよ」
「それは俺も驚いた。お前、反抗とかしなさそうなのにな」
「しませんでしたよ。今までこんなに嫌いな先生いませんでしたし。あ、でも最近少し吹っ切れたのもあるかもしれないです。悟りを開いたというか。苦しんで泣いてまで、これはやらなければいけないことなのかって」
受験生によくある、虚無というやつ。何のためにしているのか分からなくなるのだ。特に彼女の場合、難関大学に行きたいわけでもないのだから。
本来教師にあんまり言ってはいけないことなのだろうが、彼女は躊躇いなく素直に口にした。
「よくあるやつだよな」
元担任は気にした風でもなく賛同してくれた。
「ついて行ってる友達とか、本気で尊敬します…」
「相性がいいだけだろ。気にすることない」
「……あー、でも。職員室行けって言ったの、あの人なんですけど。嫌いな生徒でも体調悪いって気づけるんだなって…驚きました」
最初違う生徒のことだと思ったのだから。
元担任は驚くでもなく、うんうんと首肯する。
「あの人、よく人のこと見てるからな。ベテランの鋭さってやつだ。凄いと思うよ」
あとは進路の相談やら友人関係やら、何もかもをぶちまけるような会話をしていた。そのうちに、体調はすっかりまともになっていた。周囲はどうあがいても彼女の敵だったので、言えずに溜まっていた鬱憤を晴らせてすっきりしたのかもしれない、と授業終わりのチャイムを聞きながら彼女はそう思った。
元担任に礼を言って教室までの道すがら、かの教師と遭遇し、
「もう平気か」
とぶっきらぼうに尋ねられたことに驚いたのは、また別の話である。