生徒の限界
彼女は何処にでもいる平凡な生徒。どんな教師とも必要以上に関わることなく、普通の成績をとって安寧に学校生活を送る、つまらなくて地味な高校生であった。
対して彼は、白く染まりきった髪を晒して廊下を歩いては、道行くお気に入りの生徒に絡む、超ベテラン教師。
たったそれだけ。彼は彼女の担任でも何でもない。性別も立場も年齢も、まるで真逆な彼らは、人生で一度きりであろう喧嘩をした。
生徒と教師の力関係なぞ、誰もが理解しているところ。ましてや教師は男で生徒は女。その教師は女であろうと容赦はしなかった。
教師の教える科目は英語。彼女は英語そのものは得意でも苦手でもなかったが、彼は今までのどの英語教師とも違う、変わった教え方をした。そして何より、厳しかった。生徒が問題を間違えようなら、思いつく限りの罵詈雑言。高い位置にある教室から『飛び降りろ』だの『どこか飛んで行け』だの。このご時世になんて教師を連れて来るのだと、彼女は内心憤慨した。だがこの教師、同職にも生徒にも、よく慕われていた。
彼女も、出会った最初は尊敬していた。定年を迎えた時在籍していた名門校から引き抜かれてきたというその実力は、他の英語教師より抜きん出ていた。それは理解していた。
だが、その厳しい教え方はやがて彼女に限界を迎えさせた。元来、彼女は根性も向上心も人一倍ないゆえに諦めが早い。終わりの見えないことをすることが大の苦手なのである。勉強もぱっと覚えられるものは得意だが、過程や理論を重要視する数学や物理は赤点まではいかずともいつも平均ギリギリであった。
そんな、人間として大事なものが欠落している彼女が英語の予習を命じられ、それをこなす。得意分野である単語テストの予習はすぐ終わる。問題は、その教師が作ったオリジナルの長文問題。教師が勝手に作った問題なので答えがないのだ、どんな参考書を読んでも。誰もが知る名高い高校からやってきた教師は、生徒に求めるレベルが高かった。難関大学に行きたいわけでもない彼女には、とてもついていけなかった。よって答えが分からない、終わりが見えない。優秀な友人に教えてもらってもイマイチ理解できない。それを友人に続けさせるのも気が引けた。結果、彼女が出した結論は、すべてを放り出すことだった。予習をしてこなければ皆の前で怒られる、それを承知の上で。
彼女はただ逃げ出した。そのとき既に高校三年生。自称進学校に通っていた彼女は、進路の岐路に立たされていた。それにもかかわらず。
「予習やったー?」
その朝、登校してきた友人が焦りを隠しきれない様子で声をかけてきた。この様子では終わっていないのだろう。
「やってない」
彼女は堂々と言ってやった。
「は?強くない?てか、それまずくない?」
先生の機嫌を損ねるな、と非難の強い視線を向けられる。無理もない。自分の好きな野球チームが負けた次の日の教師は、機嫌が悪すぎて正直引く。友人が「強くない?」と語るのは、皆叱られるのが怖くて英語の予習を最優先にしているからだ。そこにやってこないという選択肢は誰の頭にもない。正気を疑われても仕方ないのである。
「わからないもんは仕方ない。教えてもらっても理解できない悲しいお頭してるから…」
「うーん、そうかあ。当たらないといいね」
「ごめん、役立たずで」
友人は苦笑すると離れていった。