【参】 狼は月に吼える
鷹失踪事件&辻斬り事件その二つを結ぶのは? とかなんとかうんぬんかんぬん。
「あの、心太朗さま」
「……あぁん?」
「そ、その、よろしければ江戸の町を、案内して――」
「いやだね」
打ちひしがれたような顔で、見るからにしょんぼりする魂姫。一つ溜め息。
「ちっ、なんでえ、そのこれみよがしなため息ぁ……、あーったよ。しょうがねえなぁ。ついて来な」
「ほ、ほんとですか?」
とりあえず、呑川町木戸を出て歩く。歩く。
「あの、どちらまで連れてってくれるんですか?」
「…………」
返事がない。石垣にかぶさる緑は、夏を前に、深く鮮やかな色をあふれさす。日は真上から、やや西に傾いたところだ。
「…………」
「…………」
会話がない。
大橋を渡る。
(ええっと……ここが永代橋)
歩く、さらに歩く。
『鷹だー! 鷹だー!』
『なんだとっ!?』
にわかに慌しい一角がある。鷹匠らしき姿の男と与力と岡っ引き。どれも息を切らし、額に玉の汗を浮かべている。見上げれば空に黒い鳥型の影。しかし、あれは鳥の絵が描かれ模られた凧だと魂姫の天眼にはわかった。どこかの子供がうっかり手を放してしまったのだろうか。
「あっちだー!」
「待てーっ!」
一団は大慌てで追いかけていき、やがて曲がり角に消えた。
「…………」
小さな橋をいくつも渡る。のらりくらりと歩いてきて、もう一刻半ほども過ぎた。
「うわぁ……、でっかいお屋敷がいっぱい」
堀の向こうに大名屋敷が実に長きにわたり、軒を連ねる。ここまで来ると、人の通りも少なくなり、町の喧騒も離れ、魂姫は急に漂う緊張感に心なしかすっと背筋を伸ばさせられた。にも関わらず、お構い無しにずんずんわけ入ってゆく心太朗。
「あの……」
「…………」
云っちゃ悪いが、こんな一介の町人絵師に、このような大それた並びに用でもあるというのだろうか。さらに、この先に在るものといえば――、一つしかない。というか既に長屋を出た時から見えていた“もの”がどんどんどんどん大きくなってゆく。
「…………」
見上げる。
「その……」
「あん? 案内が必要か? じゃあ云ってやる、あれは――」
心太朗がびしと指差した先。それは云わずもがな、
「江戸城だ!」
そびえ立つ江戸城の本丸だ。よく晴れた日だ、太陽の光を返して、瓦がてかりと輝いて見える。なんだったら、そこから城下を物見しているお殿様の額に突きささったかもしれない。
「…………」
「…………」
それ以上でも、それ以下でもない。日本の、人間の造物の櫓のてっぺんだ。屋根だ。金葺きの屋根だ。
「……けえるぞ」
「は、はい」
帰り道。うむ云わさず、もときた道をまま引き返す。天を見上げれば、およそ申の刻(三時〜五時)。そして暫く、さる寺社の横を通りかかった時、
「なあんだ。ただの凧ではないか」
「いやいや、しかし、肝を冷やしましたなぁ」
先の鷹の件の者たちとは別の顔だが、同じく焦り顔の武家らに出くわした。
「む……そこのお前、怪しい奴」
たまたま近くの木の陰に腰を下ろして休んでいた、浪人の風体をした男がじきに武家らに囲まれる。
「何か知っておるのではないかぁ?」
「……」
浪人は応えない。
「お……なんだありゃ」
五人の武家らが一方的にどなりかけ、しばしの緊迫が走った、ひとりがしきりに辺りを気にするようにきょろきょろと見回す、
「お、なんか……やべぇぞ……」
心太朗が何か嫌な予感を感じ取ったそばから、一斉に侍たちが浪人に斬りかかった。しかし――、
ヒュン。
一瞬で取り囲んでいた侍たちがその場に崩れ落ちる。
「あ……?」
心太朗は己の眼を疑い、ぐしぐしとこする。再びその場を見た心太朗。
「ああ!?」
再び己の眼を疑う心太。既に浪人はそこにおらず、残されたのは倒された侍たちだけだった。思わず駆け寄る心太朗。
「いったいこりゃあ……」
「心太朗さん……」
後からついてきていた魂姫はしゃがみ、一人の侍の息を見る。
「生きてる」
「ううっ……」
うめく侍の一人。
「ああ、一人も死んでねえ……、第一一人の上下だって朱に染まっちゃあいねえ、みんな峰撃ちってわけだ」
「こんなことができるってことは」
「ああ、とんでもねえ、手練だってこった……」
【壱】
その晩、
「いるか? 心月」
「ああー、いるよーい」
しごく、軽い調子で招き入れる心太朗。入ってきたのはまだ年若い二十代後半くらいの男。
「……!」
一瞬身構える魂姫。なぜなら相手の上下、髷、雰囲気から推察するにそれは同心のものだ。身の上を改められようものなら、一体どうなるか……。
「相変わらず暇をしてるのか?」
男は臆面もなく投げかける。
「うるせえ、ばーろぃ」
心太もそれに笑いながら返す。どうやら、近しい仲。いつものやりとりであるようだ。
「……」
この絵師にしては、珍しい付き合いだと魂姫は思った。
「む……」
「どしたい?」
「この美しいおなごは誰だ?」
「あ?」
同心の視線の先には正座まします美しいおなご、魂姫。
「ああん、……こいつはただの居候だ」
「こ、こんにちは、あたし魂姫って云います」
“美しいおなご”と云われわずかに頬を染める魂姫。
「ほう……お前に女とは珍しい……」
「余計な世話だ」
「…………」
「ふん……」
しばし、三人の間に変な沈黙が生まれる。
「俺を紹介してはくれんのか?」
口を開く同心。
「んあ?」
ごほんと咳払いをする同心。にこにこ微笑んでいる魂姫。
「んー、別にいいんじゃねえか?」
「む、どうしてだ?」
「だって、俺もこいつのこと、あんま知らねーし」
「何?」
声を上げるのは魂姫。
「あ、あたしは……」
その方に向き直る心太朗。何をか言いたげな魂姫を余所に、
「魂姫、女、馬鹿、疫病神、以上」
「な……」
「それしきゃ、知らん」
「……仮にも同居人であろうに」
「じゃ、あと奴隷」
「む……それでは日夜、いかがわしきことを……」
「そりゃ、そうだ、けけけ」
「ち、違います!」
慌てて否定。ごほんと一つ咳払いの同心。
「こいつは石神惣之介だ」
「宜しくつかまつる……」
「かてえ」
おどけるように舌を出す心太朗。
「あ……、こちらこそ。よろしくお願いいたします」
お侍の会釈に、恭しく深々、頭を垂れる魂姫。
「北町奉行の同心だ。平生ここいら深川近辺を暇そうな面してふらふらしていやがる」
「そ、そうですか……」
魂姫は、さらに内心ぎくりとした。身の上を改められはしないか。努めて平静を装った。
「こいつは問題ねー」
「え……」
まるで、心の内を覗いたかのように、心太朗が呟く。
「こいつも女にはからきしだ。心配せんでも、云い寄られるこたぁねえ」
「余計なお世辞だ」
「かかか」
「ふふふ」
冗談を言い合う、実に昵懇の仲らしい。
「して、本題だ」
きっ――と、鋭い目の光になり心太朗の顔を見る、独り者の同心、惣之介。
「あ、ああ」
「まず……、内密の話なのだがな。鷹が逃げた」
「ん……! 大事じゃねぇか」
「ああ、お上にばれたら。コレものだ」
首をぎぃと、はねる身振りをしてみせる同心。
「え……そんな」
口に手を当てて驚く魂姫。
「ああ、知らんのか? 鷹は殿さんの持ちもんだからな、そいつを逃がしたとあっちゃあ、それくれーは覚悟せにゃあならん」
「うむ……、しかし、これは私には直接関わりない話だ。あくまで、もし何か手がかりがあれば一報をという“上”からの達しだからな」
「…………」
「もう一つ、こちらが俺の件だ。実は昨今江戸の日陰で、或る事件が頻発しておる――」
「辻斬り事件だな」
「ん、知っていたか」
「ああ、条さんから聞いた」
「ふむ、瓦版屋のか」
納得した様子で頷く惣之介。
「一つ、わかったことがある」
「あん?」
「目撃した民らの話しによれば、その辻切りのあった場には、常に一人の長身の浪人の姿があったとのことだ」
「浪人だぁ?」
「ああ、今まで起きた事件をそれぞれ見た菜売り、木挽き、両替商の三人の話を総合するとだな、同じ風体の男の存在を浮かび上がってきた」
「ほう……」
「身の丈は先も言ったが、六尺ばかりはあろうかという長身、厚みはお前と同じように、やや痩せ型、髪は長い総髪を風にまま従わせ、灰色染めの着流し、刀身だけで三尺ほどもある大刀を携えている。これだけ見ても、明らかに堅気のものでないとわかり、目に付くはずなのだがな……、不思議なことに足取りが一向につかめん」
「ふむ……」
何か考え込むようにしばらく押し黙る心太朗。こうなると長い――、と思った惣之介はおもむろに立ち上がった。
「では、何か手がかりがあれば、報せてくれ」
「ああ、わかった」
「では、失礼する」
「ああ、茶も出せねえですまんかったな」
「ふふ、はなから期待しておらん」
戸の前で微笑しながら一礼をし、出てゆく惣之介、魂姫も慌てて頭を小さく下げて見送る。朴訥だが、非常に感じのいい人だと思っていた。
【弐】
翌日、
魂姫は気になっていたが、容易に言い出せなかったことを聞いてみた。
「そういえば……その、あの力は何ですか?」
「あん?」
「その……わたしを追ってきた、化け物を滅ぼした」
「あー?」
「…………」
「知らねぇ」
「……っ」
すっとぼけた表情の心太朗。適当に、はぐらかされた。どうにも、じれったい気持ちの魂姫である。
「知らね」
立ち上がると、戸を開けて出ていってしまった。
「よぅ、心の字」
「お、蓮慈さん」
心太朗は気晴らしにどこぞぶらぶらほっつき歩こうとして、木戸から入ってきた三十半ばくらいの男とはち合わせになる。
「いやぁ、十日ぶりだねぇ。何してたんだい?」
「ああ、ちょいと品川界隈でなー、宿の女らと遊びまくって、つい長居しちまったぃ」
「やぁ、相変わらず豪快」
蓮慈と呼ばれた男は、着流しの不良浪人、はっきり云って博徒風。髪は月代を切り剃っておらず、ざんばら。しかし、衣はよれよれに見えて、なかなか質の良さそうな黒地。しかし、やはりだらしなく感じられる着崩れ感。
「そういやぁ、最近長屋に新入りがあったんだってな」
「え……あ、ああ」
心太朗は、それが魂姫のことだと思いあたった。
「ああー……、ああ、近々顔出さすよ」
「おう、もう親しいんか? わかった。んじゃあな、心の字」
「えっ、どこに行くんだい?」
「おいらぁ、今度は日暮里ん方へ行ってくらぁ。年に一度かってえくれーの闘鶏の賭け事があんだ」
「へえ……」
「土産話、楽しみにしてろよ。じゃあなっ」
そう云うと、再び駈け出して行ってしまった。大変にせわしない男だ。
今日は、曇りがちの空であった。雨は降らないものの、どこか空気が重く感じられた。浅草の裏手までほてほて歩き、奥山界隈をぷらぷらし、やはり見るべきものが何もなくて、たらたら引き返してきた頃には既に陽が傾き、夕刻になっていた。
「…………」
西の山の稜線に陽が落ちた。酉の刻(七時くらい)。
「しまった……」
今日は幾頭もの雲の鯨が天を泳ぎ、月をほぼまったく覆い隠しており、時折切れ間からちらと覗く程度であった。して辺りは闇の中。
「うぅー、まぁ、なんとか帰れねえこともねえか」
手探り足探りしながら近道の、とある寺社の中を横切って通り過ぎようとした時、ふいに、心太朗はぼうと浮かび上がる五つの提灯に囲まれた。
「……なんだぁ?」
その内の一つが前にせり出してきて、そして唐突に、
「……貴様が、昨今巷を騒がしている辻斬り魔であるな?」
言葉を放った。
「な……なんだぁ?」
顔は頭巾に覆われて人相が隠されているが、武家であるらしいことはわかった。それにしても、全くの云いがかりだ。
「……成敗いたす。覚悟せい」
全くの問答無用だ。鞘から抜かれた刀の切っ先が、心太朗の目の前に、ぎらりと光る。
ぶん――、
「くっ!」
必死に刀の軌道を避わす心太朗。
「ええい、早く斬られてしまえ!」
「やなこった……!」
必死に身をひねり避わす。相手も提灯を他に預けてであるから、半ばあてずっぽう状態に、時折の月明かりをたぐって刃を放ってくる。
「くっ……なんだって俺が」
向こうから、提灯たちのひそひそ声が聞こえてきた。
「こいつを斬って、件の犯人にしたてあげれば――」
「俺たちは――、金だけ頂戴して、うまく逃げ仰せ――」
「それに例えそれが叶わずとも――、昨今巷間を騒がせておる辻切りに紛れて、我らの所業とはわかるまい――」
なんとか闇に乗じて身をくらますが、足場が見えずに不安極まりない。そして、いかんせん疲れてきた。
「はぁ、はぁ……」
ぱきんと小枝を踏んだ乾いた音。
「む、そこかっ!」
ザシュ――、
「ううっ!」
突如、頭巾の一人が前傾に崩れ落ちた。
「あ……あん? なんだぁ――?」
背中に惨らしい赤い斬痕。転がった拍子に、頭巾がはがれ落ちた。先に、峰打ちで伸ばされた輩の中にあった顔であった。そして、五の人数が符合した。おそらくそのまま、奴らであろう、
「うッ……わぁーっ!」
ブシュウゥゥゥゥ――!
血煙が吹き上がる。
「ど、どうした!? 一体、何がっ!?」
「わ、わからぬ!」
一糸乱れる侍ら。
「うわっ――」
ぼんという音がして提灯が飛ぶ。心太朗の目の前に落ちて形が崩れ、燃え上がる。腕だけが無残に残った。
「…………」
「ぎゃあぁぁぁ、痛いっ、いだいぃぃ……」
ジュビャッ――!
「ぐふぅッ」
大きな肉片がゴロリと転がる、また一つ息吹がきえた。
「…………」
じとりと、嫌な汗が額を滑る。もはや、理解できた。この闇からの襲撃こそが辻斬りの下手人であろう。
(やべえ……こりゃ、ちとやべえぞ……、どうする? 逃げられるか?)
闇の向こうでシューシュー奇妙な息遣いが聞こえる。
「…………」
「キッ、キキッ――」
意を決した、
「“ききい”だあー? ……ぅおんどりゃあ、何もんだ!」
姿を現したのは、
「……!」
醜悪な鼠のような顔……身体は熊で……血がしたたる爪、中肉中背ほどの大きさ、嫌な湾曲の牙、どぶから這い上がってきたような臭い……、シューシュー、鼠? いや、けっしてそんなものでは――、
「キキィッ……、キーース!」
話して通じるような相手ではないことだけはわかった。
「万事休す……我、貧窮す、急須があったらてめえのどたまに投げたいなッ!」
丸腰の心太朗は、運良く地べたに余っていた提灯をつかみ取ると、それっとばかりに背を向けて、めいいっぱいの力で走り出した。
「キキーーッ!」
心太朗と化け物との数奇な追い駈けっこ――、にはならなかった。
「どわわっ!」
運悪く、すぐその先には寺社の木壁が立ちはだかっており、行き止まりになってしまったからだ。
「ひいッッ――」
振り返らんとした、首の一寸、横をかすめて、鉤爪が通過し、木の板壁にドスっと突き刺さる。
「あわわわ……」
「キッ?」
化け物は、爪が抜けずにいる。踏ん張るが深々突き刺さった爪が中々抜けない。その隙に、いざ逃げんと、方向転換し、必死に腕を左右に振る心太朗であったが、しかし、
「はあっ、はあっ……!」
この男、いかんせん脚が遅い。
「へえっ、へえっ、……へあぁ〜――!」
「グキッ! キーース!」
爪を引っこ抜いた化け物、すぐさま向きを直して、心太朗の背中に迫る。
「も、もう……あかん」
足腰がふらふらの若年寄り目がけて、化け物、跳び上がる。鋭い爪が光る。
「……ッ!」
――ギイィン!!
鈍い重金属の音がした。
「……あ、あんた」
「つい今しがた、斬り合いの音に眼が覚めるまで、そこの小屋の中で寝ておりましたもので……」
浪人であった。先に、武家たちを、ついさっき命の灯の消えた、峰打ちにした、惣之介が話していた、長身の、総髪の、三尺ほどもある大刀の、
「わたしの背後に隠れておいでなさい!」
彼の持つ大刀が、化け物を斬り飛ばしたのだ。
「う……わかった! 待ってました!」
とばかりにすたこら彼の背後に回る。
「…………」
「いや、つーか……、今の一撃で終わったんじゃねえのかい?」
「まだだ……」
「あん?」
「手応えが悪い、まるで――」
闇の中に、光る双眼が浮き上がった。
「キキッ!」
浪人、大変に重量のありそうな大刀を見事に振るい、化け物を切りつけるが、
ガイィィン――!
化け物は吹き飛んで、再び闇の中に消えた。
「鋼のような体でなッ」
グワァァン!
「……そいつぁやばいね」
風にて木の葉がざわめく、あぉぉんと八丁堀の方角から犬の遠吠えが聞こえた。
「実は、拙者、こやつと対するのは初めてでござらん……」
「なに……」
「もう四度目ほどでござろうか、しかし、この通り実に身軽で素早く、その度逃してしまい――」
突如、闇から伸びた鉤爪にざくと胸を裂かれる浪人。
「キキッ!」
「うぐっ……」
たたらを踏んだようによろめき、身をよじる。
「うぉっ……で、でえじょうぶか!?」
「いや……」
その時、
「お互い、運が悪かったですな……」
雲海が、大きく切れた。
「え……」
辺り一面が、今までになく大きい光に照らされ薄く浮かび上がる。
提灯を持った心太朗。総髪の浪人。鼠頭で、かつ猫背の化け物。
「……うぉ」
「…………」
「……キッ?」
浪人がふいに、夜空に浮かぶ美しい山吹色の月を見上げる。
「望月、ですな……」
「あん? そりゃあ、今宵は丁度満月」
「さ、下がりなさい……いや、この場から逃げろ! できるだけ遠くへ!」
「ああん?」
【参】
浪人が不可解な言葉を口にすると、急にその身体がぶるぶると震えだす。辺りの空気がキキキキ――と張り詰める。
「う”う”……あ”ぁ”ぁ”……ァ”」
うめき声を上げる浪人。苦しいのか、頭を垂れ、膝を地べたにつく。
「な、なんだぁ……? で、大丈夫か? あんた……、ハッ!」
心太朗は、浪人の身体がなんだか一回り大きくなった気がした。次々と起こる浪人の奇異な変化に、目の錯覚か? とも思ったが、どうやらそれは本当のようであった。
しかし、いままでの奇妙な事象はただの序の口に過ぎなかったのだ。次いで、先より体毛が濃くなった気がする。頭髪やもみあげ、口周り、腕周り。
そして浪人の目がカッと見開かれる。
「うあ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”―――― !!」
身体中の筋肉がメキメキと隆起し、灰染めの着流しをびりびりと突き破る。その身体を長い体毛がざわざわと覆い尽くす。心太朗は、その現象をただただ黙って驚愕しながら見ていることしかできなかった。やがて、大きくなった手の指の先からは鋭くとがった爪が伸び、草鞋を破って肥大した足の爪先も同様に邪悪な様相になった。
「ぐルルルル……」
獣じみた低いうめき声をもらす。しかしその声になんら違和感はない。なぜなら、既にその顔は人のものではなくなっていたからだ。口元の隙間からは、のこぎりのような牙が覗き、唾液がボタボタと滴り落ちる。
それはまるで……犬……、いや――、
「お、“ 狼 ”か……?」
先まで浪人だったものは、なおもぶるぶると震え続ける肩口の両腕を、振り払うようにめいいっぱい左右に広げ、伸びをし、大きく裂けた口をさらに引き伸ばすように縦に開帳した。
『がぁ゛ア゛亜゛ア゛ア゛アア嗚呼あ゛ああAHHああ゛亞゛亞゛あぁぁぁぁ阿ァァぁァッっっッッ!!!!』
あまりにも大き過ぎる咆哮に、心太朗は耳の奥が破裂するかと思った。もはや言語として聞き取ることのできない轟音に、既に時遅しとは思われたがたまらず耳の孔を塞ぐ。
「な、なんてぇ、声出しやがる……」
「ぐるるるるる…………カフッ、カフッ……」
次の瞬間、怪物の姿がひゅんと消えた。
「え? あ!?」
さらに次の瞬間、心太朗の目に映ったものは、その業爪で横に真っ二つに引き裂かれた鼠の化け物であった。
「キッ――?」
そうか、こいつがいたっけ……、それにしても、殺られたことにさえも気づかずに、奴は逝ったのだろう。ある意味幸せなことだ――、等と思ったのも束の間、新たなる怪物はこちらの方にキッと向き直った。
「!!」
やばい、向かって来る、と心太朗は思った。いや、思うのと怪物が目の前に現れたのはほとんど同時だった。
(し、死ぃ……ッ)
ギイン!!
怪物の爪を弾いたのは、一振りの剣を携えた魂姫であった。
「ばっか……! おせえっ、しかしよく来た――」
ここぞとばかりに、張り詰めていた緊張を解こうとか、悪態をつこうとする心太朗であったが、
「きゃあぁぁッ!!」
弾かれたのは魂姫の方であった。圧倒的な力に軽く吹っ飛ばされて鬱蒼とした夜の木々の彼方に消える。
「お、おーいッ! 俺を置いてくなーっ!」
藁をもつかみたい表情で魂姫の消えた暗闇に手を伸ばす心太朗、
「グルルルル……グフッ……ググフッ」
怪物が、勝ち誇って笑ったかのように見えた。しかし、
「ええいっ!」
突如、怪物の背後の闇から現れ、斬りかかる魂姫。
「よっ! 待ってましたぁ!」
ギイン、キン、キィン、カイン、ギーン――、
「ああっ!」
再び弾き飛ばされる魂姫。
「ばっ……、こらっ!」
したたかに地面に打ち落とされるが、すぐさま立ち上がり刀を構える。
「よっ、引っ張るたぁ憎いね、このお。こちとら、まんまと冷や汗かいちまったぜぇ」
蚤のように小刻みに周囲を飛び跳ね、翻弄し、ふいをついて奴の背後丑寅の方角から袈裟切りで斬りかかる。しかし、即座に反応した怪物が右腕を盾に使い、斬撃を受ける。ぶしゅうっと血が噴き出す、が、もう片方の手の豪爪が魂姫に襲いかかり、とっさに身を引いた太腿をかすめる。
「ああッ」
踏ん張りながらも、わずかに平衡を崩し、よろめいた所に、
バ――、
「あ……っグぅ」
シィィン!! と、瞬座に詰め寄られ、その身の内に大きな掌をもろに叩き込まれる。
「っ、ああーーーッ!!」
再度木立ちの陰に吹っ飛ばされて消えた。
「こ……、こらーッ! この役立たずがーッ!」
目の前、やや斜め上から、湿った、生温かい息遣いが顔にかかる。
「ひぃっ……」
涎がぽたりぽたりと落ちて、足首にかかる。
「グルッグ……グルル……ルル」
怪物の凶視が身をすくませる。ねとりとした粘液が不快だ。
「あわわわ――」
怪物の肩の筋肉がぴくりと動いたのが、見え。やにわ目を閉じる。
(はは、こ、これが……絶対絶命というやつか……ね)
ヒュン――……ドスゥッ、
「ぐ……あ……」
目を開けて身体をぐるりと見回す。
「死んで、ねえ……、それじゃあ!」
「ぎ、ガガ……ガ……」
心太朗の眼前に鋼の鋭い煌き飛び出していた。
「――ッッ!?」
怪物の背中に突き立った剣が、反対側の胸まで貫いていた。
「な、なんだぁ……こりゃ」
つまり、剣の柄、怪物、すんでのところで停まった剣の刃、心太朗の眉間、という図式、
「小通……連」
「た、魂姫か……」
もんどりを打ちながらも茂みの中から、咄嗟に魔剣“小通連”を投げた魂姫が手を伸ばしていた。
「くぅっ……心太朗……さま」
慌てて、その場から逃げ出し、魂姫の元に駈け寄るや否や、這いつくばる娘を盾に背後に回る心太朗。
「はぁ、はぁ……、戦況はどうでぃ?」
「っはぁ、はぁ……ッ――、逃げ……た方がいいです。きっと、奴はこれでも終わらない……」
『が……グ、フ、――ゲボッ、ボ、ボォっ』
血をボタボタと吐き出す怪物。
「い、今のうちに、さあ、早くっ……心太朗さま!」
「ああっ、……あん? おめえは!?」
『グゥゥ……ゥグゥ……』
耐えかねる痛みに、身をあちこちよじる怪物、
「わ、わたしは……無理です。置いて先に……」
どうやら見た目以上に魂姫の脚は損傷が激しいようであった。
「そうか……ならば、しょうがねえなぁっ」
「……え?」
何を思ったか、魂姫の脇に首を入れ、ぐぐと持ち上げる心太朗。
「逃げるなら、……一緒だぜ」
「え……し、しかしっ! ……あ」
そのなぜか、やたら清々しい瞳に、それ以上口を封じられた魂姫。
「あ……の」
云われたままに、身を預ける。しかし、
「くぅっ」
いかんせん遅い。
「その、やはり、わたしを置いて……一人でお逃げください」
「ああん!?」
『グルガァーー!!』
背後からの咆哮に身をちぢこめる心太朗。振り返ると、奴の位置はまだ変わらずに、苦しそうに身悶えている。
「うっひゃあ! おっかねえ……。へへ……ぞくぞくしてきたぜぃ」
「ええ?」
なぜか、急に目が輝き、生き生きしてきた心太朗。とまどう魂姫。
「ばっか、俺が一番好きなきょーぐーわなぁ……」
「……?」
「“逃げるが勝ち”ってえな! まさに今のこの場面よおっ」
「ええっ……」
「かかっ、興がノってきたぜえ!」
魂姫は、彼が変になってしまったのではないかと思った。
(やはり、一筋縄ではいかない性格だ、というか……、今はそれよりっ)
驚くべきほどに歩が進んでいない!
(わ、わたしが……なんとかしなくてはっ)
焦る魂姫、
『グルルル……グゥっ――』
その時、怪物は手を背に伸ばし、自らを深く貫いていた剣を引き抜いた、
『ギャ、ガァ”ア”ア”ア゛ア゛アアあ゛ああああ”あ”あ”あぁぁぁぁァァ!!!!』
怪物の凄まじい咆哮。どろっとした血が深い傷口からどばっと放出し、草むらを真っ赤に染め、亜剌比亜の絨毯のようにする。
「ど、どうすれば――」
刀をそこらに放り投げた怪物が、身を屈め、ばねのように身をぐぐっとしならせた、
(く、来る)
地を蹴った、
『グルルガあああぁぁぁぁァァ――!!』
その時、再び、まあるい満月が、流されてきた黒い鯨雲に飲み込まれ、姿を消した。辺りは再び闇に包まれる。
「ア”ア”ア”ア”……ぁぁ」
突然、戸惑うように弱々しく呻く怪物。
「……し、心太朗さまっ」
「あん?」
「見て……」
魂姫に次いで、心太朗も振り返る。
「あ……」
怪物の身体がみるみる縮小してゆく。そこに残されたのは元の浪人の姿であった。
「終わった……のか?」
「……お、おそらくは」
【四】
「今、大丈夫か?」
「ああ」
長屋の戸を開けたのは、惣之介であった。
翌々日の朝、戌の刻(だいたい10時頃)、
「む……いったいどうしたのだ? その切り傷は」
所々、浅い創傷の目立つ心太朗が横に寝転がっていた。
「ああー、いやいや、昨日のことだがな。寺の境内で昼寝してたらな、草むらからでっけえ熊みてえな野鼠が飛び出してきてなー、こいつが実に生意気なやろーでな、したたかにとっくみ合いの喧嘩しちまったぃ……」
「……そういう時は、石でも投げてすぐに逃げたほうがいい」
「そりゃ正論――いつッ……」
誰が用意したのか、傷口を拭う用の布の切れ端、水の張られた桶。中の水はわずかに朱に染まっている。
「む……何だそれは」
「当てとくといいんだとよ……」
そして、濃い緑の葉っぱを、時折要所要所に当てたりしている。
「ふむ」
「めんどくせー」
「……で、先だって話したな、鷹の事件が解決した」
「む、そうかい」
「一昨日、武家の次男坊らが寺の境内で惨殺された事件があってな」
「ああ……そんなこと確か噂で聞いたなぁ」
「うむ、その身元を調べ、その内の一人の屋敷の蔵の中にな、まさしく失われた鷹が入った鳥籠が出てきたのだ」
「ん……」
「つまりどうやら、そやつらが徒党を組んで、家督を相続できぬ身の不運の腹いせに、鷹を盗んで、鷹匠から身代金をふんだくってやろうとの動機から、起こした顛末であろう――とな、詮議の決着がついたのだ」
「ほほう……そうかそうか」
「……」
「そいつぁ……志半ばで、気の毒なこった」
「ああ」
「辻斬りの件も、今しがたのに関しちゃ、おそらくもう起こらないだろうぜ」
「ということは……、下手人は人外のものであったか」
「ああ、しっかし、でっけえ鼠公だったぜ――」
二人して、深い溜め息をつく。
「ではな。また頼む」
「ああ、茶も出せねえですまんかったな」
「ふふ、はなから期待しておらん」
戸を開ける惣之介、
「きゃっ――」
ちょうど帰ってきた魂姫とはち合わせになったようだ。
「や、これは……ご免」
「あ、はい。お気をつけて」
「…………」
「大丈夫ですか? 心太朗様」
「…………」
返事のない心太朗。
「……なんで、俺より痕の深かった、お前の方がぴんぴんしてるんだ?」
「それは……わたしが、“人”と違うから……です」
しおとうつむく魂姫、
「ちっ、便利なもんだぜ」
「…………」
『ご免、心月殿はおられますか』
割って入る戸外からの男の声。
「あん?」
「あ……出ます」
立ち上がり、戸を開ける魂姫。
「あ……」
「あ――、あんたは!」
件の、一昨日の浪人であった。
「家の場所は聞いてきました。上がらせていただきます」
「お、おい……」
心太朗、魂姫を前にして、浪人の男。三者妙な緊張感に改まっていると、
「すまなかった!」
正座で、頭を深く深く下げる浪人。
「あ、ああ、いや、いいよ。いや、よくねえか……。とりあえず、頭ぁ、あげてくんな」
「そうか……。拙者、名を空牙と申す、見た通りただの素浪人でございます」
頭の上で腕を組む心太。
「……」
ただの素浪人が、狼になるはずがない。同じく正座で二人を見守る魂姫。その瞳には未だ警戒の色が褪せていない。しかし、何より今、最も不可思議な点は、
「胸の傷ぁどうしたんだ? ありゃあ、どう見ても生きてひょいと顔出せる浅いもんじゃねえだろが……」
魂姫の撃った剣の穴だ。
「やあ、それは、何から話せばよいか……、一昨日の晩、お目にかけた通り、拙者、平素は人でありますが……、満月の夜になるとほとんど人としての理性がきかぬ怪物に変化してしまうのです」
うつむき、搾るように云う空牙という男。
「そして、その間のことは何となくは意識の外側からぼんやり見るかたちで憶えてはおるのですが……。それと、そうなって以来、どうも傷の治りが早く……」
本人にもよくわかっていないようであった。
「……そういった血筋なのかい?」
「いや、元々のものではなく……。五年前からか――、なぜかはわからぬが突然そうなるようになってしまったのです」
「ふーむ……」
魂姫の方を見やる心太。首を横に振る魂姫。
「ちなみに、こいつも化けもん――と云っちまったら、空牙さんに失礼か。こいつの場合は凶悪な鬼から、今はかろうじて人の女になっているがね」
「……!」
たちまちふくれ顔になる魂姫。
「おお、そうでございますか。それは、先達として、今後ともなにとぞ教授たまわりたく候」
「い、いえ……わたしは、そんな」
「けけけ、困ってやがる」
しかし一転、一気に場の空気がほぐれた。
「早速ですが、わたくしのこの数奇な因果、わかりますか?」
空牙から魂姫へ、
「いえ……すいません。わからないです」
「そうでござるか……あい、すいません」
二人して申し訳なさそうに頭を垂れているなかに、首一つ抜きん出ている心太朗が、
「ふー……、あ、そういやぁ、なんであんた辻斬りの場所にいたんだ?」
「ああ、はい。最初から話せば長くなるのですが、それはまたおいおいとして――。
拙者、自らに課した誓いにより、人の命を脅かす化け物を滅することを生業にしております。と云っても名を売り出しておりませぬし、金も頂くことは稀ですので、内職をして、日々慎ましく糊口をしのいでおりますが……」
わかったような、よくわからないような、
「そうだ、こたびのお詫びに、困ったことがあらば是非とも拙者に云いに来ていただきたい」
「ん、あ、ああ」
「拙者にできることなら、何でも力を貸させて頂きたく所存にございますゆえ」
「ん、まぁ……、なんかあったらね」
「そうだ、とりあえず今日は拙者が作ったものでございますが……」
懐に忍ばせていた巾着の中から、何やらゴソゴソと取り出す。
「これを、おおさめくだされ」
「こ、これは!?」
「お恥ずかしながら、どうしても浪人暮らしが長いゆえ……、内職の腕ばかり向上してしまいました。はは、簡単な細工です」
簡単とは云うものの、非常によく出来た木彫りの緋牡丹にとまった蝶だ。俗に云う、根付だ。
「いや、こんなよく出来たもん――、いくらなんでもタダで貰えねえよ」
「いえ、是非」
「わかった、じゃあ、代わりに何か釣り合いの取れるもん――って、しかし……参ったな、礼をしようにも、うちにゃあ価値のあるもんなんかまるでねえ……」
何かないかと、あたりを見回す。しかし、改めて我が部屋を見ると散らかっており、汚い、ということが分かったのみであった。
「む、心月殿。この浮世絵は!?」
そぐ傍にほっぽられていた紙切れを手に取る空牙。
「あ、ああ……これは俺が描いたもんだが……」
「素晴らしい……」
「あ?」
魂姫を手本に描いた絵の習作だ。それも、少なくとも子供向けではない、少しばかり色っぽいやつ。
「…………」
食い入るように見つめている。いくら首から上は違えど、自らが手本になった絵を始めてその絵師と自分以外に見られ――羞恥にうつむく魂姫。
(男って……)
「だめだよ、そりゃあ……。描き損ないだ」
「いえ……これがいいのです。いずれ破棄するのなら、是非ともこれを頂きたい」
「あ、ああ……、わかったよ」
絵を大事そうに丸めて懐にしまうと、
「それでは、拙者はこれで」
「あ、ああ」
立ち上がり、空牙が心月屋から出て行く。
「あ、そういや、ちょっと待て! あんた!」
追いかけて、次いで外に飛び出す心太朗。
「何でも云いに来てくれったっておまえ、いったい何処にいやがる……!」
すたすたすた、
「ん……だ?」
心太朗の長屋の隣りの屋の扉を、がらがらっ――と開ける空牙。
「……ん、拙者の住まいはここですが?」
口をあんぐりと開ける心太と魂姫。
と、その前を、
「がーはははははははは!」
駆け抜けて行こうとする不良風の男。
『こらー! 蓮慈ぃっ! 貸した金返せー!』
後ろの方から、ぜいぜい息切らしながら追いかける商人の身なりの男。
「ガハハハ! やなこった! おっ、心の字、と、あんちゃんが新入りだってなー! と、……心太朗の屋から女ぁ!?」
『おらあーー! 蓮慈ぃー!』
「やべえっ、じゃあまたな! お三方!」
再び慌しく消えてしまった。心太朗は思い出した、『そういやぁ、最近長屋に新入りがあったんだってな』――、つまり新入りとは空牙のことであったのだ。
「そういうことで。今後とも、どうぞよろしくお願い致します」
「なんじゃあそりゃぁああ!」
終――
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それでは。