【弐】天道さんのお通りする街
化け物に追われて江戸の町に逃げてきた鬼の娘、魂姫。
そうして行き着いた街にて出逢い、助けの手を差し伸べたのは貧乏長屋に住む浮世絵師、心太郎であった。
このまことに奇縁な出逢いから、二人の物語が始まる――
【弐】 天道さんのお通りする街
【壱】
東雲が白み海の向こう側からまばゆい光が溢れ出す。濃紺と白黄が、滲み融け馴染みあうように夜が明ける。
娘、魂姫はせっせと玄米を炊き、飯の用意をする。
江戸といえば、白い飯だ。江戸の五白だ。しかしそれを云うと、心太朗は「もみ殻ぁ取ると、その分、腹を満たす量が減る」と返してのけた。
「…………」
水を汲みに来た井戸端――、
「あんた、見ない顔だね。どこのもんだい?」
いつの間にやら後ろに立っていた老女房。
「あ、はい……あの、あたし……その」
口ごもってしまった。由来を言うわけにもいかないし、
「ふん。あたしゃ金というもんだ。この呑川長屋の大家だよ。で、あんたなんなんだい?」
江戸の町では、それぞれの身元をきちんと証明するものが必須である。特に天下のお膝元、江戸ともなれば、“入り鉄砲に、出女”。なおさらである。昨晩、居候のくだりを許した心太朗であったが、ことはそんなに簡単ではない。勝手に、どこにでも好き放題行って、住むというわけにはいかないのである。おまけに、魂姫は化け物に追われて、ほとんど関所破りのかたちで江戸の町に入った。お上にばれようものなら――とにかく、タダではすまないのである。
「その……」
しかも相手は大家だ。大家といえば、この長屋の一切を管理する人間だ。お上との末端仲介人といってもいい。しょっぱなから難題にはち合わせてしまった。
(しまった……)
若者たちの勢いで、そういう話の流れにしてしまったが、今更になって大いなる難関と向き合うことになった。
「…………」
老女に、値踏みするように上から下まで睨まれる。
「……どうしたいんだい?」
「え?」
「おまえさんは、ここでどうしたいんだいと聞いとるんだ」
考えても仕方ない・・・かもしれない。
「その……できれば、この町で、この長屋で――」
「住みたいのかえ」
「あ……」
「空きはないがねえ」
己の出生が憾ましい。口ごもる魂姫。
「身元は?」
(来た――)
「それは、その……近々、あの……」
「……まぁ、いいわい」
「え……」
「誰か、この長屋の住人の中に請人は? そうか、金剛屋か?」
「い、いえ……その」
少し迷ったが、正直に指差した。
「あそこです」
「……!」
くわと目を見開く老女。
「まさか……中でも、あの厄介もんのろくでなしかえ……」
「は……はぁ」
「昨晩もはた迷惑なでっかい音させとったが――まさか! あいつと好き合っているのかえ!?」
「い、いえ……その……違います」
(向こうは……)
「まあ、いいわえ。それが、この長屋のならわしじゃ」
「え?」
続けて、老女は驚くべきことを云う。
「この呑川長屋の“きまり”だよ。ここにいる住人たちは、過去を問わない、無粋な詮索はしない。あんたがどっから来たか、誰なのかなどはどうでもいい」
「…………」
「名前は?」
「え……」
「まさか、名前も無いってんじゃないだろうね。さすがにここでも、名無しは困るよ。要事にゃあ、どうやって呼べばいいのかね。ごんべえ」
「た、魂姫です!」
「ふむ……で、朝飯の用意かえ」
顔を渋くする老女。
「まぁ、なんの因果であのぼんくらと一緒に住もうて奇想に至ったかは、知りたくもないが――観念してうまくやんな。……人別帳を作らにゃならんから、後であたしんちに来な。あの屋だよ」
この長屋の中で一番でかい屋だ。
「は、はい!」
頭を下げる。どういう道理かはわからぬが、不思議なくらい深く詮索されなかった。
「ほっ……」と胸をなでおろす。
行きかけた金だったが、急に引き返して来た。そして、魂姫の目の前になんぞやずずいと差し出す。
「……菜っぱじゃ」
「は、はい……菜っぱですね」
「やる」
そう言って問答無用で受け取らせるとさっさと自分の家の中に入っていってしまった。
「……ありがとうございます!」
明け六つの鐘が響く。
飯の膳を二つ並べ、向かい合わせに座る。玄米飯と味噌汁。それに先ほど金に貰った菜のおひたしが、魂姫が居候を始めてから二人の初めての飯。
「……ふむ」
飯粒を箸でつまみ口に運ぶ心太。
「…………」
心中穏やかではない魂姫。ごくりと息を飲む。
「ま……悪くねえかな」
とりあえずホッと胸を撫で下ろす魂姫。
改めて家の中を見回す。無造作に散りばめられた数え切れない量の浮世絵。転がる絵筆。積み上げられた草子。何より目立つのは、昨晩魂姫自身がその身をぶつけて開けた大穴だ。とりあえず人の目線よりは少し高いが、背伸びすれば覗き込めそうだ。今は急場しのぎで大判の紙を三枚貼り付けて隠してある。
そう云えば、昨日あれほどの轟音をさせて家の壁を破ったのに、ほとんど――というか、少なくとも声をかけてくる者がいなかった。あの大家の金でさえである。
「ああ、あれくらいのこたぁ、別に珍しいことじゃねえ」
「え? ……だって壁に大きな穴まで開いたのに……」
目を丸くする魂姫。
「……ま、そういうこった」
いぶかしむ魂姫を余所に、心太は適当に話を流して有耶無耶にしてしまった。
しかし季節が春先で本当に良かった。風が冷たく寒さが厳しい冬や、雨が頻 繁に降る梅雨時などなら最悪だった。幸い今は丁度その間くらいの時期である。
『ぎゃああああああああ!』
平穏な朝を切り裂く、突然どこからか湧き上る叫び声。
「…………」
「……だろ」
(……それにしたって……)
魂姫は改めて壁に開いた大穴を見やる。
【弐】
正午すぎから、心太朗は何やら用事で街に出かけると云った。
木戸を出れば、昨晩の静かな町並みからは打って変わって賑やかな表通り。真上で照っている太陽がそのまま町を陽気にしている気がした。
(昨晩、ここらを跳び越えて来たんだ)
「おっと、ごめんよぉ!」
「どいた、どいたぁ!」
そばを通り過ぎてゆく棒手振りや屋台連らの、威勢のいい声があちこちから上がる。
「寄ってらっしゃいよぉ! 寿司だよぉ! こはだだぁよ!」
「たまごーたまごー」
「南蛮とーらい、あんまいよー」
微笑ましい人間たちの日々の営みの風景。その中に混じって、
「おーーい――」
どこからか呼ぶ声が聞こえる。
「おーい!心の字ーー!」
ばかでかい声に心太朗は身をすくめる。通りの向こうから男が手を振りながら走って来る。
「あ、あのやろぉ……」
「だ……誰ですか?」
「よぉ! 心の字」
街の中でもひときわ威勢のいい声の坊主が心太朗の肩をばしんと叩く。
「ぐぁ……」
その衝撃に身をよろけさせる心太朗。
「何してんだ? どっか行くのかい?」
地にひざをついて叩かれた肩をさする。
「くっ、お前……力つえーんだよ……」
「お前の体がよえーんだ」
「……別にどこに行とかねーよ」
「そう邪険に云うない。ん?」
心太朗の傍で心配そうにおろおろしている魂姫に気がつく。
「誰? これ」
「ああ……別に何でもねぇよ」
「あの……あたし……魂姫と言います」
目を丸くする坊主。
「おお! おお! おおーーーーっ!」
「……はい?」
「可愛いね!」
通りの人々が一斉に振り返る。
「えっ? えっ?」
うろたえる魂姫、さらに――、
「いやーたまげた、こりゃべっぴんさんだぁ!」
魂姫の両手を握る坊主。
「そうかぁ、“たまき”ちゃんてえのかぁ」
ぶんぶん握手をしながら、目尻を下げて、でれでれしている。そんな様子を見兼ねてか。
「おらおら、触るんじゃねえ。お前、だいたい坊主だろうが、女の類はご法度なんじゃねーのか」
心太郎が割って入る。
「え? 別にいーんよ。だって俺もう悟り開いちまったし」
「はぁ?」
「“悟り”よ“悟り”。宇宙の真理よ!」
「宇宙の真理だぁ?」
「ああ、つまりだな……。人間あるがままが大事。往く河は流れは絶えずして、しかも元の水にあらず――人生何をしてても時間だけは平等に過ぎてくんだから、悔いの残らぬよう好き勝手生きましょーっつーこった」
呆れる心太郎と、あっけに取られる魂姫をよそに弁舌まくし立てる坊主。
「つまり! 可愛い女の子がいりゃあ迷わず口説かにゃいかんだろっちゅうこった!」
一瞬、しん……と辺りに静寂が訪れ、風がぴゅるうと吹き抜ける。
「……それ、たぶん、違うぞ」
「ま、つまり……んなこたあどーでもいいから。俺っちをこちらのたいへんに可愛らしいお嬢さんに紹介しろっつーこったな。ああ」
気乗りしないながらも坊主の鼻頭を指差して、魂姫の方に向かって口を開く心太朗。
「……こいつは明珍。こん近くにある宝蝉寺の坊主だ。顔のわりにゃあ博識だが、聞いた通りにそれを加えてもおっつかんほどの馬鹿だ」
「はじめまして、魂姫です!」
ぺこりとおじぎする魂姫。
「ひでえなぁ、けけけ。よろしくねん、魂姫ちゃん♪」
「は、はい!」
「で、魂姫ちゃん連れてどこ行くの?」
「あー、こいつがこの街に来たばかりだってんで、町を案内してくれとか我がままぬかしやがるからよー。買いもんついでにそうしてやってんの」
「そ……そんな云い方――」
「なんだ、だったら俺がいろいろ案内してやんのによぉー。この町は俺の庭みてえなもんだからなぁ……って、あ! じじいに遣い頼まれてんだった!」
じじいというのは宝蝉寺住職の明宝のことであろう。
「あー、畜生! じゃあまたね、おたまちゃん!」
そう云い残して大悟僧は名残惜しそうに行ってしまった。魂姫は咄嗟に呼ばれた“おたまちゃん”という始めての呼称に嬉しくなり口元がほころんだ。心太朗と魂姫も目的の店まで歩を向けようとした、ところで――、
「で! 心太ろーー! お前、たまちゃんたぁ、どーこまでいってんだよーー!」
「あ……あのやろぉ……」
注目が集まる二人。心太朗は魂姫の手を強引に引っ張ると、さっさとその場をあとにした。
筆屋。
「いらっしゃい。ごゆるりと見てってくださいよ」
早速、手近にあった小筆を手に取り、じっと凝視する。
「おめえのせいで、細筆が壊れちまったからなあ……」
「あの、ごめんなさい……」
心太朗は無言で次々と手に取り、筆を品定めしている。やがて、中から三本ほど選り分け、
「いくらだ?」
「一本二十二文、全部で六十六文だよ」
「高え。四〇にまけろ」
「あんた、おれを殺す気か?」
「ちっ……」
店を出ようとする。
「わっかりましたよぉ。しょうがねえなぁ……心月の旦那は」
「五十五文」
「四〇文」
「四十八文」
「四〇文」
「行くぞ」
そっぽ向いて、後ろのおんなに促す守銭奴。
「う……うん」
勝手がわからず、とりあえず頷くおんな。
「わかったよぉ! 四十二文! これ以上は無理だ!」
「よし、買った」
【参】
夕刻になる。
心太朗の知り合いの居酒屋で晩飯を済ませることになった。場所は呑川長屋の表。すぐそこだ。
芳野家と書かれた緑色の暖簾をくぐる。
「ごめんよ」
「はーい」
中はいっぱいの人、人、人。さぞや繁盛していることだろう。奥でがやがや大工屋らしき客の男衆らに酒を出していた女性が振り向く。
「あら、心太さん。いらっしゃい」
歳の頃は二十代の半ばだろうか、親しみやすそうな雰囲気を振りまいてはいるが、よく見れば非常に器量の良い女将だ。
「適当になんか見繕ってくれ」
「はいはい」
なんとなく気心の知れた感じを見せる。魂姫は心太朗とこの吉乃と呼ばれた女将との関係が気になった。
しばらくして吉乃が奥から白飯と田楽、煮大根の皿を盆に乗せってやって来る。
「お待ち。あら?」
ようやく心太朗の隣りに座る魂姫に気付く吉乃。
「おかみ、ごっそさん。また世話んなるぜ」
「あ、はいはい! どうもー」
折りよく店の中がはけてゆき、残る客は 心太と魂姫とあと二、三のみになった。吉乃は二人が座る席の対面に腰を下ろした。
「……ふう」
「ごくろーさん」
「ありがと。まぁ、忙しいうちが花ってね。で……心太さん。あなたの隣りにいるそのこ、どうしたの?」
「……ん? ああ――こいつか」
いやいや忘れてたとばかりに、紹介の段に入る。
「こいつは、えーとな……」
「……魂姫」
「ああ。そうだそうだ。魂姫だったなお前」
早速名前を忘れやがった心太朗に頬を膨らます魂姫。
「始めまして。この居酒屋の女将をやってます。吉乃です」
ニッコリと微笑んでおじぎする吉乃。
「……魂姫です」
仏頂面のままでおじぎを返す魂姫。
「ちょいと、待ってなね」
少しして魂姫の分の膳も奥から持ってくる吉乃。
「あ、ありがとう……ございます」
「いえいえ、あたしゃこれが仕事。――で」
心太朗の方に向き直る。
「どうして、心太さんがこんなに可愛らしいお嬢さんを連れてるのかしら?」
「む……」
押し黙ってしまう心太朗。まさか、この娘が昨夜壁を突き破って現れて、自分が化けもんを滅ぼして、なんやかんやあって共同生活することになった。なんか言わない。
(さあて……どうしたもんかな)
吉乃はしまった、と思った。心太朗は考え事をする際、特有のしかめっ面になる。この男、考え込むと額に血管を浮き上がらせて、どんどん地獄の閻魔のような顔になる。吉乃は慌てて遮る。
「いや。いいんだよ、言いたくなかったら」
「ん? そうか」
「いやー、わたしもねぇ。嬉しいんだよ……」
しみじみ頷く吉乃。
「心太さんはねぇ……ずっといつも女っけがなくて――」
「……吉乃」
「え?」
吉乃の言葉を遮る心太朗。
「云うな……」
結局、閻魔のような形相でにらんでいる。
「……じゃあ! わたしはそろそろ店仕舞いの仕度でもしてこようかねぇ〜」
そう言ってささと引っ込んで行ってしまった。もしかしてこの吉乃という人と途中で吉乃の言葉を遮る心太朗。は男女の仲なんじゃないかと疑った魂姫 であっいたが、どうやらそれは違うと見えてほっと胸をなで下ろし た。お姉ちゃんみたいなものなのかな、と察する。そして、とりあえずは心太朗に言い寄る女は今はいないようだ。
「―― んじゃあ、帰るかねえと」
飯をたいらげた心太朗が腰を上げる。
「え? ちょっと待って……」
まだ半分も食べ終わっていない魂姫は慌てて飯をかっ込む。
「吉乃ー。勘定だー」
「はいはーい」
暖簾を仕舞うのを中断し、吉乃がやって来る。
「いくらだい?」
「そうだね、おまけで二〇文でいいよ」
「……高くねえか?」
「格安だよ?」
「んだっていつもは、一〇文とちょいぐらいじゃねえか」
「ん」
魂姫の方に目配せする吉乃。
「あ……あたし、今お金ない……」
狼狽する魂姫。
「ああ? なんで俺がお前の飯代まで払わにゃならんのだ!」
腕を組んで露骨に口をへの字に結ぶ心太朗。
「あんたってこは……」
「あの……あたし」
魂姫はおろおろするばかり。心太朗の目の前に二本の指を立てて見せる吉乃。心太朗もついに観念する。
「ちっ……貸しだからなぁ……」
「まいどー」
銭を払うと、さっさと店を出て行こうとする心太朗。最後のひと口を急いでかっこんで魂姫も立ち上がる。
「ごちそうさまでした!」
すると、そそっと近寄って来た吉乃が魂姫にしか聞こえない声で囁く。
「あんなだけど、根はいいヤツだから。根気良く付き合ってあげてね。それで、女同士また今度ゆっくりお話しましょう」
「は、はい」
心太朗を追いかけながら、魂姫は思う。
(いい人そうだな。大人の佇まいで、きれいで……)
でも実は魂姫の方が生きてる歳月は長いのだ。
呑川の門をくぐったのは、夜五つの頃だった。
金の家に顔を出し、適当に出生やその他もろもろをでっち上げて身の上を話した。金も特につっかかる様子はなく、そのままを帳面に記した。
こうして魂姫が心太朗の家に訪れてから、二日目が終わった。
魂姫は感じていた。この町の自由な気風。何ものにも縛られぬ呑川の面々。
心太朗を取り巻く人々の何気ない優しさ。何もかもが始めての感じだった。
“自分はどこへ行っても、ひとりぼっちだったから……”
畳の上にそのままの恰好で横になりながら、隣りで一枚きりの布団にくるまっている男のいびきを聞きながら、思った。
「あ、お洗濯・・・替えの着、どうしよ」
明日、さっそく、吉乃に相談しにいこう。
こうして魂姫の呑川長屋での暮らしが――、なんとなく始まったのであった。
―― 終 ――
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※当時の長屋事情
請人・・・保証人。
手形・・・寺院が発行した、檀家の宗旨と檀那寺を証明するもの。
宗旨手形、寺請証文とも。
※宵夢の設定として、一文の相場は、現在に換算して、15文くらいとお思いねえ。
ちなみに、一両は8万くらいと、思いねえ。
自サイト【大江戸八百八すとれんじあ】でも公開しております。→ http://ooedo80billion.blog20.fc2.com/
あ、登場人物らの絵も公開しております。
それでは。