大衆娯楽のマニア(オタク)
自らのテーマに自問自答するって馬鹿に見えると思う。だって衆知となるほど有名な論の作者でもないのに。ただ私は自己満足だが自分のレベルは日本の中でトップクラスだと思ってる。理由は私が他者の論で感銘を受けたことがほとんど無いからだ。のーなしだから理解できないのでは?いや部分部分ならなるほどと納得してる部分がある。
例えば東氏のキャラ論なんかも納得できるが、全体は批判的なんだ。確かにキャラ消費時代になったは納得できるが、その背景に大きな物語喪失論がある。だがこれは私は的外れだと見てたら綺麗にSAOが出てきて大外れになった。全く新しい斬新な世界観が大ブームになった。
以前から社会学系のオタク論はゴミだと見てて、社会背景と比例的に発展する漫画アニメに批判的だった。これは水源さんが今回同じような論を展開してるので筋道は全く違うが私の話に納得できない人は参考にして欲しいとは思う。漫画アニメは根本的に現実的じゃない題材が多い。その中でどうして社会背景と綺麗に一致する進化をするのか?
社会学系は漫画アニメを通して集団心理の様なものを語るのが目的であって、漫画アニメの本質的論を展開しようって気概があるわけじゃないんだ。そこでほぼ例外なく漫画アニメ全体を見ないで一部の有名な漫画アニメを参考に社会背景だけを中心に強引な論を展開する。皆同じミスをするのにミスが自分の収入に直結しないためなのか考えられないレベルの人間が跋扈する事になる。
この連中を相手に自分の方が上だと言えないなら論を語るなんて止めた方が良い。プロとは言えない低レベルだ。ぱっとマウントおじさんかよってレベルに見えると思うが、その根拠が明確であり、マウントが目的じゃないこれをレベルが低いと言えないとスタートし無いと見てるからだ。
マニア評価と大衆評価を分けようってのが私の自論になる。それは大衆文化とマニア文化は求めるものが違うからと見ている。マニアが絶対数が取れない事を数を理由に大衆に批判されるのだが、そもそもその数を土台にする批判が間違ってるんじゃないの?ってなる。ただここで多数派批判を単純にしてはならない。
それがまさに今のなろうだ。どちらも正しいのに同じ土俵で接点を持つのが可笑しいんだ。目的が違うから創ってるものも違う。それを同じ面白いと言う言葉でざっときってしまうから可笑しくなる。
全く別の物は両立して存在するベキなんだ。それを面白いと言う言葉で統一的に片付けてしまうと数の暴力にさらされてしまう。数を無視すると多数派には納得できないものを高い評価にされてしまう。別の集団が求める別の刺激であるから別物として評価すべきだと私は思っている。
ただなろうで起きてることは注意すべきだ。これはラノベのせいとはっきり言い切れる。これまであった本文化の中でやや大衆向けの一般ってカテゴリーはまあ通用していたと思うが、ラノベが出た事でこれは崩壊したと思う。明らかに一般の方が文学よりだ。ラノベは根本的にアニメ漫画文化で発展してきたものを取り入れてるので、ものすごく文字表現として異質なんだ。
だが同じ文字表現としてみてしまうため分離しにくいんだ。だがこれは分離すべきだ。根本の価値が全く違うんだ。絶対に数の論理で非ラノベはラノベに勝てない。サイトを分けろってほどじゃない。ランキングを工夫するだけで良い。導線となるランキングを混ぜたら駄目となる。そしてランキングの裏にある価値を混ぜて比較してはならないという事。
ここまでは私がずっと語って来た事で、自問自答となるのが、じゃ大衆文化の中で目の肥えた人の評価ってのは違う価値を持つのか?でこれが困ったものなんだ。今までのオタク評論家が間違っていたのは、それまでのエリート層の価値でアニメ漫画論を語るのが多かったからだ。考えて楽しみすぎるんだ。かといって感覚的なアクションや映像を芸術的感性で評価しろと言ってるわけじゃない。
目の肥えた大衆娯楽という点で、評価は止めた方が良いと思う。なんと言うか分析どまりじゃないかな?と思う。どう違うの?で評価ってのはやっぱり個人の主観だと思う。それをそのまま大衆の代表として良いのか?なら無理だと思う。だが視点として言及ぐらいなら言える。自分の評価とは違うけど、こういうのが受けそうだって言及。
じゃそれをそのまま評価にすれば良いのじゃないか?だが正直それをそのまま個人の評価にしてしまうとその人は評価者としてまともに成り立たないと思う。根本的な面白さってのが何か分からなくなってしまう。ただ分析的言及なら出来ると思う。
評価としては大衆娯楽限定でさらに目の肥えたマニア評価が成り立つか?なら成り立たないと見てる。どうしてもそういう接し方は大半の人間は考えてしまうんだ。最初から文学やアカデミー賞の視点で中身を評価するならその視点で面白いものを選べば良いと思う。中途半端なものになってしまうと見ている。
ただ敢えていうなら、ランキングの弊害として知ってる作品だけ好んでしまうって問題がある。コナン君やサザエさんの知名度がそのまま反映されてしまうことはありうるという事。この問題をどうすれば良いか?は分からない。コレはある程度は、上位ランキング作品は知名度に比例するのを避けられないと思ったほうが良い。
目の肥えたランキングでごちうさってのが典型的だと思う。日常系の頂点ぐらい進化した作品。作品としての王者はけいおんで間違いない。だが進化って点ではゴールや理想のようなものが詰まってる。何故こういった違いが生じるか?と言うと面白さ自体は初期の頃の方が高いから。こういうのは冷静に評価しちゃ駄目。大衆娯楽の面白さが損なわれる。
ごちうさは問題作だなと思うのは、好みに異常の特化してるから。頭使わないから好みの刺激が先鋭化するのは当たり前。だから良いんだけど、ごちうさぐらい先鋭化すると極端に人を絞ってしまう。あれが上位に来るのが当たり前のランキングって何か違和感がある。確かに大衆娯楽の土台は失ってない。決して考え込んで楽しい作品じゃない。
だがなんだろう大衆娯楽の目の肥えたランキングって意味があるのか?とごちうさは考えてこんでしまうんだ。もちろん実写などと分けてアニメ部門で良い。大衆娯楽の目の肥えたランキングって結局普通に多数決の人気作で良いと私は思ってしまうんだ。知名度が先行する問題さえ目を瞑ればほぼ納得できる結果になると思う。
ごちうさを上位にしなくちゃいけないランキングってあんまり価値が無いと思う。これはようするにオタクとは何か?に直結するのだが、多分今までのオタクは崩壊すると見てるんだ。BD販売と言う方法がむしろゆがみで、アニメの面白さを捻じ曲げていたと見てて、今までのオタクには不愉快な時代が多分やってくる。
知名度の問題が致命的だから本当にやっかいなのだが、目の肥えた漫画アニメマニア=オタクの評価なんかより普通に見て面白い多数決の方が目の肥えた別の視点を持つ私が納得できるランキングになると思う。それはアニメ漫画という大衆娯楽は本質的にエリート層マニア向けに合って無いからだ。
その歪みをオタク自身が納得できるか?がすべてだと思う。