第三章 牢獄 ※写真付
はつは、岩山を削ったような洞穴の中にある牢獄へと連れられてきた。
穴の中を進むと、下に向かってさらに穴が開いている。そこには梯子がかけられており、それを下りるとぽっかりとした空間が広がっていた。そこが、この里の地下牢である。
両腕の拘束を外されると、竹で編まれた格子戸を開けてその中に放り込まれる。岩でできた固い地面に膝を着いてしまい、痛さに加え、その冷たさに芯まで冷え込むような思いだった。
――お母さんの言うように、もう少し厚着をしてくればよかったかなあ……。
つい先程別れたばかりだというのに、母とはもう何年も会っていないような気分だった。そして、これから先、再び会えるかどうかもわからない。感傷に浸っていると、草之助と呼ばれていた男が、ここにはつを連れてきた鵺と入れ替わるようにして入ってきた。
草之助は、竹格子の隙間からはつに羽織を与えてやると、にこりと笑って言う。
「ここは冷えるだろう。俺の物で悪いが、それを着てくれ」
「……ありがとうございます」
すぐに袖を通す。冷え切った肌にその温もりが心地よかった。
「俺は、本間草之助だ。其方ははつというのだったな」
「はい」
「其方は、真に何も憶えておらぬのか」
「……」
「いや、すまぬ。そうか。憶えておらぬのでは、仕方あるまいな」
「私の見張りとしてここへきたのですか」
「ああ、そうだ」
「あの、鵺という人は……」
「頭領への報告に行っている。なんだ? 鵺の方がよかったか」
「いいえっ」
答えた声が思いのほか大きく、狭い岩牢の中に木霊した。
「あの人は、私を勝手にここへ連れてきたのです。私がこういう状況に置かれることを知っていたでしょうに……。私が、もしもここで殺されるなら、一言文句を言ってやりたい……っ」
「これは、随分と勇ましいことだな」
笑いかけたが、草之助はすぐに笑顔を引っ込めた。はつの目尻にきらりと光るものを見たからだ。
「私は、本当に何も知らないんだ……っ」
「だが、鵺が連れてこなければ、其方は今頃どうなっていたろうか」
真顔で問われ、はつは考えた。しばらく考えて、それまで波立っていた心が徐々に落ち着きを取り戻していく。
「この赤目渓谷にあるのは我らの里ばかりではない。其方は鵺に騙されたように思っているかもしれないが、この広い山中で鵺に出会ったことこそが、其方にとっての幸運であったと俺は思うがな」
「……草之助さんは、あの人と親しいのですね」
「まあ、そうだな。俺がこの里に流れ着いた、十六の頃からな」
「そうですか。そんなに前から……」
「そんなに、か。まだ五年ほどしか経っていないのだがな」
「え、五年?」
「ああ。俺は今年二十一になる。……そんなに驚くか?」
驚きのあまり口を開けたまま呆然としていると、草之助の吹き出すような笑いが耳に届く。
「いや、えっと……私はてっきり、もう少し上かと思っていたので……」
「そうか?」
現代の感覚から言うならば実年齢よりもかなり老けて見えるのだが、直接的な表現は憚られた。
「草之助さんが二十一歳ということは……」
「鵺は俺よりみっつ上でな、二十四になる」
意を汲んで草之助が答える。
「二十四……」
はつは言葉を失った。鵺と会った時、自分よりも明らかに年上だと思っていたのだ。
「はつはいくつなのだ?」
一瞬、ぎくりとした。しかし、それを知ってか知らずか、草之助がはつの答えを待たずして続ける。
「冗談だ。女に歳は聞くまいよ」
――私のことを、いくつだと思っているのだろう……。
はつはそう思った。おそらくは己と同じぐらいか、もしくは年下だとでも思っていることだろう。この礼儀正しい青年を考えるに、十歳以上も年上の者に対する対応ではないように思われたからだ。
それからほどなくして、梯子を鳴らす音が聞こえてくる。現れたのは、浅葱と呼ばれていた若い女だった。二十代半ばぐらいに見えるが、先程の草之助の話から考えるともう少し若いのかもしれない。
「草之助、交代だよ」
「そうか」
「それから、頭領がお呼びだ」
「わかった、すぐに伺おう」
わずかに言葉を交わしただけで、浅葱と入れ替わるように草之助が岩牢を出て行く。
はつは、額に浮かぶ冷たい汗を拭った。浅葱は、はつが記憶を失ったということを疑っている。今ここで余計なことを話し下手を打てば、今度こそ命を取られかねないのではないだろうか。はつに緊張が走る。
しかし、予想に反して浅葱は、一言も口を利くことなくただこちらを見据えているだけだった。
「あの……」
沈黙に耐え切れなくなったはつの方から声をかける。
「浅葱、さん……」
「浅葱でいい」
「……」
「慣れない呼ばれ方をしたくないんだ」
「わかりました」
「それで、何だい」
「浅葱は、私が敵だと思っていますよね」
「そうだね」
「でも、私は違うんです。本当に、私は何も知らないんです」
「それを信じろと言う方が、あたしには無理な話だと思うけれどね」
「でも、本当に……」
「なら、あんたが敵でないとして、あたしらの味方かい?」
「……」
「敵ではないが味方でもない、か。疑わしきは消されても仕方のないことだよ。のこのことこの山に立ち入ったあんたが悪いのさ」
「そんな……」
「まあ、決めるのは頭領だからね。あたしはただ、それに従うだけさ」
浅葱はそれだけ言うと、もう話すことはないとばかりに黙りこくった。はつも、それ以上は口を開くことはなかった。
それからどれぐらいが経ったろうか。
岩牢の中は常に薄暗く、時間の流れがまるでわからない。
再び、梯子を鳴らす音が聞こえてきた。下りてきたのは、浅葱とともにいた中年男である。はつにはそう見えたのだが、もしかしたらもう少し若いのかもしれない。少なくとも、鵺や草之助よりは年上に見えた。
「浅葱、交代だ。ここからは俺が見る」
「ああ、頼むよ。今のところはおとなしくしているが、それも策のうちかもしれないからね」
そう言い残すと浅葱は去って行った。
「夕餉だ」
弥助が、竹格子の隙間から食事を差し入れる。麦飯に山菜の和物、それに味噌汁という質素なものではあったが、昼食を抜いていた身にとってはそれはとても輝いて見えた。
思わず手を伸ばしたものの、ふと動きを止める。はつの疑念を感じたらしい弥助が、無機質な声で言った。
「毒など入ってはいないぞ」
はつは、一瞬どきりとした。この里の人々はみな、はつが何かを語る前から、その胸のうちを見通しているかのように話し出す。
「お前を殺すつもりなら、里に立ち入った時にそうしている」
言われれば、それもそうだろうという気になった。そこで、はつは味噌汁の入った椀に口をつける。冷えた体が芯から温められていく……そんな思いだった。
食事を済ませて間もなく、はつはうつらうつらと船を漕ぎ出した。
今日のこの日ほど、緊張の続く中に身を置いたことはない。心的に疲弊していたところに温かい食事を与えられ、緊張の糸が切れてしまったのだろう。
はつは、弥助の存在が気にはなったものの、荒波のように押し寄せる睡魔に抗うことができず、まるで気を失うように眠りの中へと落ちていったのだった。
ひとときの安らかなる眠りを……。
しかし、この時、里でははつの処遇を巡る話し合いが取り行われようとしていたのだった。