第二章 投獄 ※写真付
はつが連れてこられたのは、生い茂る木々の奥に隠れるようにしてある村だった。
「伊賀の里のひとつだ」
「伊賀の里……」
肩で息をしながら男の言葉を繰り返す。険しい山中を長いこと歩き続けたはつは、全身にじっとりと汗をかいていた。一方、傍らの男は、汗どころか息ひとつ乱れた様子はない。男が里に入ろうとするので、笑う膝を叱咤してはつも後を追った。
あと数歩で里に入るというところで、前を行く男の腕が、はつが先を行くことを制するように伸びる。
「なに……」
なぜ止めるのかと尋ねようとした時、はつの足元に一本の矢が射かけられた。突然のことに声を呑むはつの耳に、威勢のよい女の声が届く。
「ちょっと、あんた。何者だい?」
「菊乃か」
代わりに答えたのは、傍らにいる男だった。はつにはどこにいるのかまるで見えないが、男には見えているのだろう。近くに聳え立つ木の一点をまっすぐに見据えていた。
「鵺、何だって知らない奴を連れてきたりしたんだい」
鵺と呼ばれた男が、はつの足元に刺さったままの矢を抜き取った。
「それに、あんたは任務に出ていたはず。務めは果たしたのかい」
「いや」
「だと思ったよ。やはり、あんたには荷が重過ぎたようだね」
「菊乃。とにかくここを通せ。そのことは頭領に直に話す」
「通せるわけがないだろう。あんたはともかく、後ろの妙な奴を通すことはできないね」
「ならばどうする?」
「里の場所を知られたんだ。死んでもらうしかないだろうよ」
ふいに、ぴりりと全身の毛が逆立つような感覚を得た。
――殺気……?
初めてのことに呼吸も忘れて呆然としていると、鵺が手にした矢を木の向こうへと投げる。それとほぼ同時に、木の葉を散らしながら飛んでくるものがあった。鵺の投げた矢と飛んでくるものとがかち合い、それぞれがあらぬ方向へと落ちて消える。
「鵺っ」
「菊乃、里での私闘は掟破りだぞ。頭領の判断を仰がず、勝手に殺すことはならぬのが決まりだろう」
舌打ちが聞こえたような気がした。ふと、金縛りが解けたように体が楽になる。そして、一気に多量の汗が全身から吹き出した。額を流れた汗は、頬を伝い地面に染みを作っていく。
「鵺、よく戻ったな。首尾はどうだ」
里に入ってすぐに、明るい男の声が近寄ってきた。
「よくないな。邪魔が入った」
「ふうむ。そうか」
「今から頭領のもとへ向かう」
「まあ、それはいいが……」
その男は、明らかにはつを警戒している。
「鵺、この者は……」
「言ったろう。邪魔が入ったのだ」
「なるほど……」
里に入ってからというもの、鵺の歩く速度がさらに増した。頭領とやらのもとへ急ごうとしているのだろう。だが、散々山道を歩かされたはつの体力はほぼ限界であった。足を縺れさせたはつがその場に倒れ込む。咄嗟にそれを支えたのが、鵺と親しいらしい男だった。
「おい、無事か」
「はい……」
答えてはみるものの、はつの足はがくがくと震えが止まらず、まともに立つことも難しい状態であった。
「駄目だな、これは」
「まったく面倒な……」
鵺がはつを背負おうと腰を屈めたところで動きを止める。
「帰ったか、鵺よ」
しわがれた、されど威厳のある声が耳に届いた。
「頭領」
目の前の老人に、鵺ともう一人の男が跪く。
「鵺、仔細を話すがよい」
「はっ。私は、ご命令通りに奴を追いました。奴は、私の目を晦まそうと考えたのか、林の奥へと逃げ込みました。それを追い林に入ったのですが、今一歩で捕らえられると思った矢先に、この者が私と奴との間に降って参ったのです」
鵺がはつを指し示した。
「その期に、奴には逃げられてしまった次第にございます」
「むう。降って参った、とな」
「私も何と説明申し上げればよいのか……。しかし、それ以外に申し上げようもないのです」
「さて、鵺の申すことは真か。弥助、浅葱」
「はっ」
「ここに」
いつの間にそこにいたのか、音もなく現れたのは中年男と若い女だった。
「弥助」
「は。鵺の申すことは真にございます。鵺は、奴を林の中で追い詰めました。しかし、今ひとつというところでその者が降って参ったのです。それさえなければ、鵺は奴を捕えていたでしょう」
「ふむ。浅葱」
「はい。結果だけを申し上げるならば、弥助の言うことに間違いはございません。ですが、鵺が真に奴を捕えようとしていたかは疑わしくもあります。奴との間に距離を保って追っていたようにも見受けられました。私には、邪魔が入ったのを好機と、敢えて奴を逃がしたのではないかと思われます」
「ふむ。なるほどのう。草之助、今の三人の話を受け、お前はどう見る」
鵺の傍らで跪き、ことの次第を伺っていた男に向かって頭領が尋ねた。
「はい。私は、この者が降ってきたという次第のことはわかりません。三人の申すところはそれぞれに筋が通っております故、いずれも偽りのないところかと存じます。ただ、私が言えることは、鵺が手を抜いて奴を追っていたのだとしたら、鵺の腕はたいしたものだということです。そのようなこと、並の者にできることではございませぬ」
浅葱が、きっと草之助を睨んだのがわかった。
「ふむ。お前たちの申すことは相わかった。林の向こうは甲賀領。それならば、奴も近々捕らえられよう。すでに甲賀には知らせを送っておるでのう。さて、今の話の中で最も不審な点は其方のようじゃな」
頭領が、立ち尽しているはつに目を向けた。
「其方が突如降って参ったとみなが申しておるのじゃが、どういうわけか説明してもらえるかのう」
「えっと……私は……」
説明を求められたところで、はつにも何が何だかわからないのだ。答えようもない。しかし、この場で答えなければ命に関わるようなことにもなりかねない。そう思えるほどに、頭領の周りにはぴりぴりと張り詰めた空気が流れていた。
「頭領」
しどろもどろとなったはつの言葉を割って、鵺が口を挟む。
「この者は、おそらく記憶を失くしておるのでしょう」
「ほお」
「そんなことがあるはずありません。記憶を失くしたなど言い逃れです」
鵺の言葉に異を唱えたのは浅葱だ。
「鵺、そいつが記憶を失くしたなどと何でわかるんだい。大体、もしもそうなら、そんな奴など放っておけばよかったじゃないか。何だって連れてきたりしたのさ」
「俺は、突然降ってきた此奴が何者か探ろうといくつか尋ねた。だが、はつという名以外、要領を得ない答えばかりが返ってくる。それをすべて偽りだとは俺には思えなかった。だが、それでも里の周辺をうろついていたのは事実。そのまま野放しにもできまいと思い、頭領の判断を仰ぐために連れてきたのだ」
「間者にしては、随分と目立つ格好をしております。それに、山道にはまるで慣れていない様子です」
鵺と浅葱が言い合う中、その間を縫うように草之助も自らの見解を語った。
「ふむ。間者か、否か……。いずれにしても、この里のことを知られては、おいそれと里の外へ出してやるわけにはいかぬな」
頭領の言葉に応じるように、鵺はすぐさま動くとはつの腕を後ろ手に縛り上げた。
「な、なに……」
「おとなしくしていろ」
そのままはつは、半ば抱えられるような形で歩かされ引き立てられて行ったのだった。
捕えられたはつ。
はつに待ち受ける運命とは……?
次回、牢獄内よりはつの様子をお届けします。