第五章 それぞれの想い ※写真付
鵺が崖から落ちて一夜が経った九月二十一日の朝、辰の刻に差しかかろうとする時分に鵺が里へと戻ってきた。
昨夜、一人里に戻った草之助だったが、鵺を探すために再び山へ入ろうとしたところを頭領に止められたのだ。二次被害を防ぐためだろう。そこで、鵺の家にて、はつと草之助は鵺の帰りを待つことにした。鵺とかすみの無事を祈りながら……。
「はつ。はつ、起きろ」
いつの間にか眠ってしまっていたらしいはつは、草之助の慌てた声に呼び起こされた。目を開けて、がばりと起き上がる。草之助の視線を追って戸口に目を向けると、そこには半日振りに見る鵺の姿があった。
「鵺っ」
はつは駆け寄り、裸足であることも構わずに土間へ下り立つと、鵺を全身で迎え入れる。
「無事だったんだね」
喜びに声をかけるはつを前に、
「ああ」
と、鵺は短く返しただけだった。
「ねえ、鵺。かすみはどうなったの?」
ふいに、鵺に緊張が走る。
「死んだ」
鵺は一言、そう告げた。
「え……?」
俄かには信じられずに疑問を呈したはつだったが、だんだんに鵺の言葉を呑み込めるようになると、はつはその場に膝を着いて座り込んでしまった。重い沈黙が流れる。
「……助けられなかったんだね」
「……」
「崖から落ちて、鵺は助かったけれど、かすみは死んでしまったのでしょう?」
返答がないことを不審に思ったはつが、顔を上げて鵺を見遣る。当然肯定されると思っていたのだが、その予想に反し鵺は静かに首を振った。
「あの崖はそれほど高くはなかった。俺もかすみも、落ちた時点では無事だった」
「それじゃあ、かすみはどうして……?」
鵺の態度に何か感じ取ったらしい草之助が、はつの傍らに寄り添う。
「俺が、処断した」
腰に下げた刀に手をかけつつ、鵺はそう言い放った。
しばらくの間は放心していたが、俄かに我に返ったはつは、己の内から荒波の如く押し寄せる感情を制御することができずに声を荒げて尋ねる。
「どうして」
「かすみは、伊賀を裏切った下山甲斐と通じていた」
「……だから、斬ったの?」
「それだけではない。かすみは……かすみではなかった」
「どういうこと?」
「かすみは、頭領の動向を見張るためにこの里に送りつけられた下山甲斐の間者だった。真のかすみは、すでに下山の手にかかって殺されていたのだ」
「まさか……なりすましていたというのか」
草之助も驚きを隠せない様子だ。
「でも、それは、すべて下山甲斐という人のせいでしょう? どうして、かすみを殺したの」
「かすみは、下山甲斐の手先だ」
「それでも、かすみはただ利用されただけじゃないか」
「北畠との戦を引き起こしたのが、かすみが届けた書状がきっかけだとしてもか」
はつは言葉を失う。草之助も瞠目して鵺を見据えていた。
「ただ利用されただけ、か。だが、そのために戦は起きた。そして、伊賀の者も死んだのだ」
「……」
「お前は、それでもかすみに罪がなかったと言うのか」
はつは目を伏せる。
「どこへ行く?」
踵を返した鵺に、草之助がすかさずに尋ねた。
「……かすみの家だ」
それだけを告げると、鵺は足早に立ち去って行く。
しばらくの静寂ののち、草之助が懐紙をはつに渡した。はつは、ひとつの声も上げず、ただ涙を流している。そして、草之助から受け取った懐紙で目元を覆った。
草之助は、水瓶から柄杓で水を汲むと、はつに差し出す。はつはそれを、一気に喉の奥へと流し込んだ。その後、二度三度と咳き込んだところで、大きく息を吐き出す。
「少しは落ち着いたか」
草之助が心配そうにこちらを伺っていた。
「鵺はな、たとえ敵だったとしても、些細な理由で人を殺せるような男ではない」
「わかっているよっ」
はつの剣幕に呑まれ、草之助は俄かに口を噤む。
「そんなこと、わかっているよ」
「……」
「私は、勝手だ」
「……?」
「鵺が与一という抜け忍を斬るのは仕方がないと思えたのに、かすみを斬ったことは受け入れられないなんて……」
「はつ……」
「信じていたんだ。鵺なら、きっとかすみを助けてくれるって。なんとかしてくれるって。私は……本当に勝手だ」
はつは、目尻を濡らす涙を懐紙で拭き取ると、すくと立ち上がった。
「どこへ行く?」
先程、鵺に尋ねたことと同じことをはつにも問いかける。はつは敷居を跨ぎながら振り向くと、
「鵺のところ」
そう言うなり、鵺のあとを追ったのだった。
「こんなところにいたのか」
里に流れる川を見据えながら、鵺は川辺に佇んでいた。草之助が、普段よりも少しばかり緊張した笑顔でこちらを見ている。だが、鵺の様子を見るや否や、草之助はその笑顔を引っ込めた。
「鵺、どうした? 具合が悪そうだが」
「……たいしたことはない」
そう答える鵺の額には脂汗が浮かんでいる。
「怪我をしているのか。まさか、崖から落ちた時にか?」
「……」
「どこだ」
強く尋ねられ、
「背だ」
と鵺は答えた。
「手当てはしたのか」
「ああ。昨日よりもだいぶ調子がいい。かすみの金創膏のおかげだな」
「そうか……」
草之助は鵺に座るよう促し、自らも川辺に腰を下ろした。
「かすみのこと、伝えてきたのか?」
「ああ。ただ、戦の最中に死んだとだけ、そう伝えてきた」
草之助の問いに、鵺は答える。
「はつとは会ったか?」
「いや」
「そうか」
鵺は俯き、草之助と視線を合わせようとしない。
「その傷はどうした?」
草之助が己の唇を示して尋ねた。
「噛み傷のように見えるが」
鵺がその箇所に指を添えると、ぴりりという痛みが広がった。それが、洞窟での出来事を思い起こさせる。
「まさか、女にでも噛まれたか?」
「……ああ」
半ば冗談だったのだろう。鵺の返答に草之助は驚いた様子で、
「そうか」
と呟いた。
「お前にそんな女がいたとは思わなかったな」
「……」
「どんな女だ?」
「……いい女だった」
「……そうか」
「かすみは、俺に斬られることで俺の中に留まりたいと言った。この傷も、そういうことなのだろう」
「かすみは、お前を好いていたのだな」
「……俺は、それに気づけなかった」
「それは、致し方ないことだ。かすみが間者であることを、里の誰もが見抜けなかった。己の想いを隠す術を心得ていたのだろう」
「なあ、草之助」
「何だ」
「女にな……」
「ああ」
「抱いて欲しいと言われて手を出さないのは、男としてどうなのだろうな」
「……言われたのか?」
鵺は頷く。
「俺は、かすみが望むなら伊賀から逃がしてやるつもりでいた。それで、かすみの望みを聞いたのだ。だがかすみは、生きることはとうに諦めているようだった」
「……」
「俺は、お前のように女心に聡くはない。俺は、かすみを傷つけたろうか」
「それは、俺にもなんとも言えないな。だが、お前がお前として考えて出した答えなら、それでよかったのではないか。お前は確かに女心に聡くはない。しかし、そんなところも含めてな、かすみはお前に惚れたのだと俺は思うがな」
「……そうか」
「まあ、もしも俺ならば、惚れた女にそう言われたら抗えないかもしれないがな」
冗談めかして言う草之助だったが、その途端に鵺の鋭い視線が草之助へと突き刺さった。草之助は、目の前の鵺を宥めて言う。
「待て待て。俺は何も、姫で想像したわけではないぞ」
鵺の目つきが鋭さを増す。
「真だ。落ち着け」
ようやく鵺が視線を逸らしたことで、草之助はほうっと息を吐くとともに額に浮かんだ汗を拭った。
「かすみの想う男が俺だなどとは思いもしなかったからな。それに、どうやら俺は男女のことに疎いらしい」
「……うむ」
「それは、どんな感情なのかと聞いた。するとかすみはな、飾らないままの姿でいられることだと言ったのだ」
「飾らない……?」
「ああ。肩の力が抜けて、あるがまま、己のままにいさせてくれるような相手ということらしい」
それを聞くと、草之助ははたと黙り込んでしまった。そして、額に手を当てて項垂れる。
「草之助?」
不審に思い呼びかけた。
「おい、草之助……」
「……そうだったのか」
鵺の言葉に被せるように草之助が呟く。
「それならば、お前が好いているのは姫ではなかったのだな」
「何を今さら……。もう、ずっと前からそう申しているではないか」
鵺が呆れた声を上げた。草之助が顔を上げる。その表情は、どこか痛々しい。
「どうした、草之助」
「ああ、鵺……」
「何だと言うのだ」
「お前が想っていたのは、姫ではない」
「だから、以前からそうだと……」
「お前が真に想っていたのは、かすみだったのだな」
鵺は、瞠目して草之助を見据えた。
「は……なに……?」
「お前は、かすみのことを……」
草之助は、その後も何かを呟いていた。しかし、この時の鵺の耳にはほとんど届かなかった。鵺の脳裏に、洞窟内でのかすみの言葉が浮かぶ。
「もしかしたら、もういるのかもしれないよ。それに気づいていないだけかもしれない」と、かすみはそう言っていた。
――そうか。俺は、かすみが……。
一度自覚してしまうと、それを裏づけるように次々と記憶の断片が流れ込んでくる。
かすみは隠しているようだったが、時折、庭先の草花の手入れをしてくれていることに鵺は気づいていた。そんなかすみに寄らず離れず、遠くからそれを眺めるのが好きだった。
かすみの姿を見かけると、すっと胸が軽くなった。安堵した。穏やかな心持ちになれた。
以前、弥助に言われたことがある。あれは確か、はつがかすみと連れ立って川辺に洗濯に向かった時のことだ。「なぜ、かすみを信用できるのか」と、弥助はそう言っていた。思えば、それは至極当然の疑問だろう。あの頃、はつを狙う里人は少なくなかった。他の者と行こうとしていたなら、決して放置はしなかったと思う。だが、はつとともに川辺に向かったのはかすみだった。かすみだからこそ、鵺はすっかり安心して任せてしまったのだ。
その時には既に、鵺の中でかすみと他の里人は明らかに違った立ち位置にいたのだった。
なぜ、その想いに今の今まで気づかなかったのかと、後悔の念が押し寄せてくる。
ふと、力強く肩を抱き寄せられた。
「よいのだ、鵺」
草之助が言う。
「こういう時は泣いてもよいのだ」
気がつけば、鵺は草之助の肩口を濡らしていた。
「これは弱さではない。お前は、決して弱くはない。人のことを思いやれる、強き男だ」
草之助は鵺に肩を貸し与え、鵺はそこに顔を埋めると、しばし声を押し殺して泣き続けたのだった。
鵺を追って行ったはつだったが、かすみの家に着いた時には既に、鵺は立ち去ったあとだった。その後、あちらこちらと探し回ったのだが一向に鵺は見つからず、仕方なしに家で待つことにしたのである。
だが、黄昏時を過ぎても鵺が家に戻ってくる気配はない。ついに業を煮やしたはつは、戸を開けると外へと飛び出した。
ふと、視界に人影が入る。
はつは、おそるおそる振り向いた。すると、その先には、家の壁に背を預けて座り込む鵺の姿があったのである。
「……鵺」
はつの呼びかけに、鵺は閉じていた瞼を上げた。
「鵺、どこに行っていたのさ」
「……」
「こんなところにいないで、中に入りなよ」
「はつ」
鵺の声に、はつは肩を震わせる。
「お前からの言伝、しかとかすみに伝えたぞ」
そう言われて、はつは狐の牡丹を思い浮かべた。鵺がかすみを探しに山へと入る前に、もしもかすみに会えたら伝えて欲しいと告げたのが、狐の牡丹の花言葉であったのだ。
「かすみは、どんなふうだった?」
「泣いていた。そして、喜んでいた」
「ふうん。そっか……」
呟きながら俯いたところで、はたと気づく。
「鵺、それ……」
はつの言葉に、その視線の先を追って鵺は己の髻に手を伸ばす。指先が何かに触れた。鵺は、それを丁寧に引き抜く。
「……たんぽぽの茎?」
疑問を呈したのははつだ。花こそ咲いてはいないが、それは紛れもなくたんぽぽだった。それを見つめて考え込む鵺に、はつは尋ねる。
「ねえ、かすみとさ、何か約束でもしたの?」
鵺は首を傾げた。しかし、ふと思い至ったようで、
「生まれ変われるなら……」
そう口にした。
「もしも来世というものがあって、生まれ変われるとしたなら、俺と真の友になりたいと……そう言っていた」
「……へえ。そうなんだ」
「お前が、かすみに吹き込んだのだろう?」
「吹き込んだなんて……。ただ、生まれ変わりがあると思うかと聞いてみただけだよ」
「それで、それには一体何の意味があるんだ」
「あ、たんぽぽのこと?」
「ああ。それにも、狐の牡丹のように何か意味があるのだろう?」
「そうだね。たんぽぽの花言葉は、『また会う日まで』」
「……」
鵺は、手にしたたんぽぽの茎を胸に抱え込んだ。
「また会う日まで、か」
「うん」
「それで、お前はあると思うか?」
「……何が?」
「生まれ変わることが、だ」
「ああ……」
はつは、まっすぐに見据えてくる鵺の視線から逃れるように、空へと視線を移した。そこには、現代ではそうそう見ることができないような、満天の星空が広がっている。見続けて明日で一年となるが、いまだに飽きることはない。
「あるよ」
それは、はっきりと、確信に満ちた声だった。
「そうか」
鵺はそう言うと、懐から懐紙に包まれたものを取り出してはつに渡す。それを開くと、中からは、黒くしなやかな髪の毛が顔を覗かせた。それが誰のものかなどはすぐにわかる。
「明日、林の中に埋めてこようと思う。かすみは、あそこから見る柏原城が好きだと言っていたからな」
はつは、込み上げてくるものを抑えようとするように上を向いた。
「はつ」
溢れ出てくる想いに耐えることに必死なはつは、呼ばれたことに気づかない。だから、そのあとに鵺が発した言葉も、はつの耳にはまったく届いてはいなかった。
「お前は、一体いつの世からここに迷い込んでしまったのだ?」
ふと、はつが鵺に振り向く。
「私さ、ここにきて最初に会ったのが鵺で、本当によかったと思うよ」
鵺はその言葉に、問い質すのはまた次の機会にしようと決めた。そして、はつと同じように空を仰ぎ見る。
陽が沈んだばかりの西の空に流れ星がひとつ、落ちて消えていった。
鵺は、はたしてはつの正体に気がついたのだろうか。
次回、戦の中のある真実が弥助の口から明かされます。
そして、弥助のもうひとつの任務も明らかに……。




