第三章 裏切りの真実 ※写真付
吹き込んだ風が、焚火の炎を大きく揺らめかせた。
「お前は、八年もの間……かすみになりすましていたのか」
「ああ」
鵺の問いかけにこともなげに答える。
「滝野の里で暮らしながら、下山と通じていたというのか」
「ああ」
「下山は、なぜ伊賀を裏切った?」
「……」
「……伊賀惣国一揆か」
「……」
「上忍三家と十二人衆以外、評議の外に置かれることに不満を持つ者がいるという話は聞いたことがある」
「……」
「下山甲斐の話には一切答えない、か」
「鵺、ひとつ教えてあげるよ。上忍三家筆頭である服部様が抜けたことで伊賀の団結力が落ちていると、甲斐様が認められた書状を北畠に届けたのがこの私だよ」
「何だと……っ」
ふと、どさりと物音を立てながら鵺が地に伏せた。地面をかきながら起き上がろうとするが、どうにも力が入らない。かすみが近寄ってくる気配がした。
「やはり、傷口が開いていたようだね」
そう言って手を差し伸べるかすみを、
「触るな」
鵺が声を荒げて制する。
「お前は、里を……十郎様を裏切った。お前の手を借りるつもりはない」
しばし押し黙ったかすみだが、倒れ込んだ鵺に手を伸べた。
「……放せっ」
かすみは、鵺の上半身に巻かれた晒へと手をかける。
「かすみ……っ」
「聞かないよ」
鵺の叫びをよそに、かすみはきっぱりと言い放った。
「恨みたければ恨めばいい。憎みたければ憎めばいい。でも、私は、この傷を放ってはおけない」
「なぜ……」
「鵺。それは、私の言うことだよ」
「……」
「どうして、私を庇ったんだい。私が伊賀の裏切り者と繋がっているかもしれないと気づきながら、どうしてさ」
そう問い質す間もかすみの手は動く。かすみは懐から蛤の貝殻を取り出すと、中に入れられた金創膏(刀傷などに効く膏薬)を鵺の背中の傷口に塗り始めた。
「……甲斐様は、おそらくもう生きてはいない。だからさ、私の命ももう要らないんだよ。捨てようとしたのに。……なぜ、邪魔をしたんだい。余計なことをしなければ、こんな怪我を負うことだってなかったはずだろう」
傷のためか、鵺は虚ろな眼でかすみを見据えている。
「けれど、そうだよね。敵とか味方とか関わりなくさ……鵺に、命を見捨てることなんてできるはずがなかったんだ」
かすみは、手早く膏薬を塗ると晒をしっかりと巻き直した。
そこへ、突風があった。
焚火は大きく煽られ、突如として静寂が訪れる。
暗闇の中、唐突に唇を塞ぐものがある。その正体に気づくと同時に、口内へと何かが流し込まれた。鵺は、朦朧とする意識の中で必死にそれに抗う。
抑えつける細腕を払い、目の前のものを引き離した。そして、逆にそれを己の下へと組み敷く。そうした上で、今しがた口内に注ぎ込まれたものをすべて吐き出した。目が慣れてくると、鵺の下でおとなしくしているかすみの姿がはっきりと見て取れるようになる。その口元は濡れて光っていた。
鵺は、夜目が利くことを少しばかり後悔した。かすみの動きを封じるために組み敷いたはいいが、激しく動いたためかかすみの着物の合わせが開けかけている。鵺は深く息を吐いたのち、かすみを解放した。
しばらくは鵺の意図をはかりかねている様子のかすみだったが、それに気づいたのかふっと笑った気配がした。
「仕方ないじゃないか。私の身に着けていた晒は、すべて鵺に使ってしまったのだから」
「……何を含ませた」
「附子(トリカブトの塊根を干したもの。「ぶし」と読めば薬に、「ぶす」と読めば猛毒の意味になる)」
俄に青褪めた鵺を前に、かすみはまたもふっと笑った。
「嘘だよ。ただの眠り薬さ」
「俺を眠らせておいて、どうするつもりだったのだ」
「殺すつもりだったなら、それこそ毒を含ませただろうね」
「……死ぬつもりか」
「……裏切り者の末路は決まっているさ」
「伊賀を裏切ったは下山甲斐だ」
「私はその手先だよ」
鵺とかすみはしばし見つめ合う。最初に目を逸らしたのは鵺だった。
「私はね、鵺と同じなのさ。幼い頃、この伊賀の山中で甲斐様に拾われたのよ」
鵺がちらりとかすみを見遣る。かすみは、思い返しているかのように宙を見据えて言った。
「父母は旅芸人でね、一座とともに旅をしていたんだ。そして、山を越えようとした時に山賊に出くわしたのさ。母が、咄嗟に私を物陰に隠してくれたおかげで殺されることはなかった。けれどね、私以外はみな殺された。父も母も、座長も、一座の仲間も……」
「……」
「私は、屍の中にいた。何をするでもなくね、ただそこにいたんだ。日が沈み、夜が更けて朝になり、また日が沈み……三日ばかしそうしていたと思う。そして、私は力尽きてその場に倒れ込んだ。そこにね、現れたのが甲斐様だったのよ」
「……」
「甲斐様は、私に水筒を差し出し、そして握り飯をくれたのさ。そこで、私は空腹だったことを知った。みなが殺されて、私も死んだ気になっていたんだね。けれど、私は生きていた。……あの握り飯を食べた時にね、生きたいって、死にたくないってさ……そう思えたんだよ」
「それで、下山甲斐に仕えることになったのか」
「仕えるなんて、そんな大層なものじゃないよ」
「身寄りをなくしたお前を、下山甲斐が拾って育てたのだろう?」
「育てた……ね」
かすみが、宙から地に視線を移す。そして、懐から打竹を取り出すと、再び木の葉に火を灯した。温かい明かりが洞窟内を照らし出す。
そこで、かすみはおもむろに着物を脱ぎ始めた。
「……何をしている……っ」
あまりに突然の行為に、鵺の声には焦りの色が伺える。だが、かすみにその動きを止める気はないらしい。上半身を開けさせたまま、鵺に背を向ける。それを見た鵺は、あまりのことに言葉を失った。
かすみの背は、その白い肌に余すところなどないように……数多の傷痕で埋め尽くされていたのである。
「拷問されたのさ」
そう話すかすみの口調からは何の感情も読み取れない。
「……まさか、下山甲斐にか?」
かすみは、こくりと頷いた。
「なぜだ。お前を拷問することに何の意味がある」
「痛みに慣れ、それに対する恐怖心をなくすため。そして、感情を消すために」
「……」
「甲斐様は、幼い私を拾い育ててくれた。けれど、それはご自身の駒として使えると思ったから。そのために私を生かしたに過ぎない。仕えているわけじゃないんだ。私は、甲斐様の捨て石にしか過ぎないのだから」
「……もういい。しまえ」
「そうだね。こんな汚いものを見せられたところで、気分が悪くなるだけだったね」
そう言い、着物を正そうとしたところで鵺の手が伸びる。鵺はかすみの背を、その傷痕をなぞるように撫ぜた。
「……痛むか?」
「まさか。すべて古傷だよ」
かすみが、首だけを巡らせて背後の鵺を見遣る。傷痕をなぞりながら目を伏せる鵺に、かすみはふっと笑った。
「鵺の方が、よほど痛みを感じているようだよ」
鵺はそれには答えない。ただ、
「汚くなどない」
そう言った。
「お前は汚くなどない。気分が悪いと感じているとすれば、それは下山甲斐に対してだ。お前にではない」
また、かすみは笑う。表情は変わらない。だが、確かに笑っていた。
「鵺の手は温かいね」
「……そうか?」
この時の鵺は、上半身には晒以外身につけていない。加えて洞窟の中だ。その手もだいぶ冷えていたと思う。
「温かい」
かすみは再度そう言った。
「……心地いい」
そう呟かれた時、鵺は反射的にかすみの肌から手を離した。そして、その手を額にあてがうと深く項垂れる。かすみから笑い声が上がった。
「鵺といると飽きないね」
「……からかうな」
「からかってなんかないよ。私にもまだ笑える心が残っていたのかと、鵺はいつもそう思わせてくれる……」
そう言うと、かすみは肌をしまい、懐から鉤縄(先端に鉤が取り付けられた縄。登器のひとつ)を取り出して鵺に渡した。
「これを使って登るといいよ。この崖は、それほど高くはないと思うから」
「お前はどうするのだ」
「鵺は帰らないとね。里に、鵺を待つ人たちがいるんだから」
かすみは、鵺の問いには答えずに言う。
「草之助は鵺が崖から落ちるところを見ているから、きっとよくないことを考えて不安がっていると思う。はつも心配しているだろうね」
「お前の帰りを待つ者もいる。浅葱と菊乃も、お前のことを案じていたぞ」
「……心配など必要ないのにね。私は、みなを欺いていたのだから。浅葱と菊乃を騙していたし、はつのことだってそうさ。それを知れば、誰も私を許しはしないよ」
「……」
「だから、私のことなど気にかけることはないんだよ。私はここで死ぬ。けれど、鵺は戻って。草之助やはつだけでない。千手姫様もね、きっと鵺の無事を願っていると思うよ」
そこで、かすみはまっすぐに鵺を見据える。
「鵺は、姫様のことを好いているんだよね」
鵺は俄に眉間に皺を寄せた。
「まったく、何なんだ。お前といい、草之助といい……」
「草之助?」
「草之助も、お前と同じことを言っていた」
「……そう。草之助は、千手姫様をいつも見ているからね。鵺が姫様を気にかけていることに、どうしたって気づいてしまうのだろうね」
「あのな……俺は、姫様をそんな目で見たことは一度とてないぞ」
「へえ?」
「真のことだ」
「そうかい」
「……お前、信じてないだろう」
「そうだねえ。けれどさ、鵺が姫様を気にかけているのだって真のことだろう?」
「……もういい。わかった」
鵺は深く息を吐く。
「できれば、誰にも言わないでもらいたいのだがな」
そう前置くと、鵺は語り出した。
「俺がまだ十郎様のお屋敷に身を寄せていた頃のことだ。俺が九つになった年に、姫様がお産まれになった。待望のお子の誕生に、里中が湧いていた。姫様は、十郎様や奥方様だけにとどまらず、正に里の宝だった」
「……」
「それをな、あろうことか、十郎様は俺などを姫様の守役に据えたのだ」
「……九つの子に守役を?」
「ああ。信じ難いことだがな」
少しばかり考えたあとで、かすみは首を振った。
「いいや。頭領のお考えが信じ難いとは、私は思わないよ」
わずかに驚いた表情の鵺に、かすみは続ける。
「兄が妹の守をするのは、普通のことじゃないか」
「な、兄などと……。確かに姫様は俺をそう呼んだこともあるが、そんなものは戯れに過ぎない」
「頭領は、鵺をご自身の子と同じく思われていると私は思うね。そうでなければ、それこそ説明のつけようがないよ」
「……今にして思えば、俺はお二人に心配をかけていたのかもしれないな。あの頃、俺は外に出ることを嫌い、一日中屋敷に籠もっていたからな」
「へえ。今では家にいることの方が珍しいのにね」
「そうだな。だが、あの頃はまだ、外に出ることを恐れていたのだ」
「何をさ?」
「忌み子と……俺は、そう呼ばれていたからな」
「……」
「書物だけが心の拠り所だった。しかし、十郎様が読まれる書だ。難しいものが多かったが、その中で、俺は薬学書に興味を持って読み耽った」
「その頃から薬に関心があったんだね」
鵺はひとつ頷く。
「だが、姫様の守役を任されてからは、そうそう屋敷に籠もってもいられなくなった。ご幼少の頃の姫様は活発で、よく外に行きたがっておられたからな」
「へえ……」
「それに、姫様はよくお泣きになった」
「どうしてさ?」
「不安に思うのだろう。誰かが傍にいないとな。俺が片時でも傍を離れると、大声を上げて泣くのだ」
「……」
「……」
「……嬉しかった?」
「……ああ、そうだ」
鵺は素直に頷いた。
「初めてだったからな。……誰かに必要とされたのは」
「……」
「俺は、里にとって忌むべき存在で、十郎様の枷でしかないのだと思っていた。そんな俺でも、姫様は必要として下された」
「……」
「姫様が憶えてなどおられるはずもないが、あの頃、忌み子と呼ばれていた俺を救って下さったは紛れもなく千手姫様だ。俺はただ、姫様には誰よりも幸せになってもらいたいと……そう思っているのだ」
「そう……」
「だから、この思いは男女のそれとはまったく違う」
「そうかい」
話し終えると、鵺はふうと深い息を吐いたのちに項垂れた。
「まったく……。こんなことを、誰にも言うつもりなどはなかったものを」
「何でさ。いい話じゃないか」
「どこがだ。……だが、まあ、言っておいた方がよかったかもしれないな。そうすれば、草之助にもあらぬ疑いをかけられずに済んだろう」
「へえ。今の話、草之助も知らないんだね」
「ああ。誰にも話したことなどないからな」
「そうなんだね」
「……何だ?」
俄かに喜色を浮かべたかすみを訝しむように、鵺が首を傾げる。
「ねえ、鵺」
その声音も普段より幾分か明るい。
「誰にも言わないままでいておくれよ」
「なぜだ」
「何ででもさ。鵺だって、誰にも言うつもりはなかったんだろう? なら、このままさ、言わないままでいたっていいじゃないか」
「まあ、確かにそうだが……」
かすみはおもむろに腰を上げると洞窟の奥の岩まで歩み寄る。そこにかけられた鵺の着物を拾い上げた。
「まだ湿ってはいるけれど、着られなくはないと思うよ」
そう言うかすみを見据えながら、鵺はふと考える。
「……お前は、真に十七か?」
鵺は、里人の年齢などさして気にしたことはない。以前、はつにかすみの年齢を聞かれた際に、「そんなことが気になるのか」と言ったことがある。はつは、かすみの年齢を聞くと、「歳の割りにしっかりしている」とかすみのことを評していたが、鵺はそれが少しばかり気になっていたのだ。
「浅葱や菊乃と比べてみても、お前はもう少し年重なのではないかと思ってな」
「へえ。まさか、鵺が女の歳を見抜くとは思わなかったね。私は、実は二十二歳でね。こう見えて、草之助と同じ歳なんだよ」
「……驚いたな」
鵺がかすみの年齢に疑念を持ったのは、その落ち着いた物言いや雰囲気がとても十代とは思えなかったからだ。しかし、かすみの風貌は、いまだ大人の女にはなり切っていないように見えた。背丈も、二十歳の浅葱よりも頭ひとつ分は小さい。その思考を察したのか、
「私は、おそらくもう背丈が伸びることはないんだよ」
とかすみが言った。
「成長が止まってしまったのさ。……激しく痛めつけられたせいでね」
それを聞き顔を顰めた鵺のもとに、かすみは歩み寄りながら尋ねる。
「歩けるかい」
「ああ」
鵺は短く答えて言った。そして、かすみが手にした着物を鵺に渡そうとしたところで、何かがその懐から落ちる。
「……狐の牡丹?」
かすみの声に、鵺は頷きながら落ちたそれを拾い上げ、かすみへと手渡した。
「一輪だけな、まだ花を咲かせていたのだ」
「珍しいね。時季でもないというのに」
「花言葉というのがあるそうだな」
「そのようだね。はつは、珍しいことをよく知っているね」
「狐の牡丹の花言葉をな、思い出したと言っていたぞ」
「へえ、どんな言葉だい?」
「嘘を吐くなら上手に騙して」
「え……」
「いつからかはわからない。だが、お前が何か大きなものを抱えていることに、はつは気づいていたのではないか? あれでいて、なかなかに勘が働くからな」
「……」
「それを知った上で、はつはお前を受け入れていたのではないか。その言葉を聞いた時、俺はそう思った」
かすみは、途端に力を失ったようにその場に膝を着いた。
「私は、駄目だね。間者としてさ……私は、嘘を吐き通すことができなかった……」
涙は見せない。だが、かすみは確かに泣いていた。
押し殺すように咽び泣く声が、洞窟内に低く木霊していたのだった。
幼いかすみの身に起きた様々な不幸。
その一端を知った鵺だったが、それでもかすみが伊賀の裏切り者であることに変わりはない。
揺れる鵺が下した決断とは……。
次回、鵺とかすみの回が決着します。




