第二章 崖下の洞窟にて ※写真付
はつは、鵺の家で二人の帰りを待っていた。
日が落ち、夜も更けた頃に突如として戸が引かれる。打たれたように顔を上げると、そこには草之助が立っていた。草之助の無事な姿に喜ぶはつだが、はたと異変に気づく。
鵺の姿が、どこにもないのだ。
「草之助、鵺は?」
草之助は俯いたまま、こちらを見ようとしない。その目は虚ろで、地面のただ一点を見据えている。普段の草之助からは想像もつかない姿に、暗い影が足音を轟かせて押し寄せてくるのを感じた。
「草之助、話して。鵺はどこなの」
「鵺は……」
「鵺は、どうしたの?」
「もう戻らない。かすみも、もう……」
「……どういうこと」
草之助は、崩れるように膝を着いた。そして語る。
「俺たちは、長野峠に向かう途中でかすみを見つけたんだ」
「それで?」
「かすみは、俺たちに気づくと逃げた」
「……どうして」
「わからん。俺たちはかすみを追った。そして、切り立った崖の前までかすみを追い詰めた。するとかすみは、そこから身を投げたのだ」
「え……」
「鵺は、咄嗟にかすみの手をつかんだ。そして、かすみ諸共に……」
草之助はまだ何か話していたようではあるが、はつは気持ちの置き場をはかりかねてしばし茫然としていた。草之助は微動だにすることなく、そこで項垂れている。
重い空気が支配する中で、口を開いたのははつだった。
「……死体は?」
その声に、草之助が顔を上げる。
「ねえ、草之助。鵺とかすみが崖から落ちたというけれど、二人の死体は見たの?」
「いや……。崖下を覗いたが、濃い霧が立ち込めていて見えなかった」
「なら……」
「しかし、あの高さでは……」
「草之助」
はつは、戸口で膝を着いたままの草之助のもとへと歩み寄ると、屈んで草之助と目線を合わせた。
「諦めるのはまだ早いよ」
「はつ……」
「草之助が見たのは、二人が崖から落ちるところだけでしょう? 二人が死んだことを確認したわけじゃない。少しでも望みがあるなら、諦めてはいけないよ」
草之助はしばし瞠目したのち、
「……ああ、そうだな」
頷きながらすくと立ち上がる。
「はつは、鵺と似ているな」
言われてどきりとした。
「そう?」
動揺を隠して答える。
「諦めるな、か。戦の最中、鵺にも同じことを言われた。俺は、少し潔過ぎるのかもしれないな」
「……そうかもしれないね」
「鵺とかすみを探してくる。その許可を、再度頭領から頂こうと思う」
そう言うと、草之助は普段通りの笑顔を見せ、柏原城の方へ颯爽と駆けて行った。
まるで母の胎内にでもいるかのような温もりの中で、鵺は目を覚ました。
醒め遣らぬ頭で現状把握に努める。
顔を動かそうとしたが、何やら柔らかいものに阻まれて適わなかった。
目が、暗がりに段々と慣れてくる。
いい匂いがした。
そこで、鵺ははたと温もりの正体に気づく。気づいた途端、反射的に目の前のものを己から引き離した。それと同時に、鋭い痛みが走る。鵺は、突如として襲ってきた刺すような寒さと背中の激痛に耐えかね、その場に力なく蹲った。
「……傷が開いたかい?」
「寄るな」
声とともに動いた影を、鵺が制する。動きを止めた影に、
「……着物を着ろ」
そう言った。暗がりの中に白い肌が浮かび上がる。
「俺の着物はどこだ? ……かすみ」
「濡れたから、岩の上で乾かしているよ」
かすみは、開けた合わせを正し、帯を締め直しながら答えた。
「崖下が湿地でね」
かすみが鵺へと手を伸ばす。
「傷を見せてごらんよ」
「構うな」
「その傷で……それも、そんな形でいたら死んでしまうよ」
鵺の体は小刻みに震えている。
「暖を取らないと」
その時、仄かに辺りが明るくなった。
かすみの手には打竹(携帯用ライター)が握られている。
明るくなると、己が置かれている場所が把握できるようになった。
そこは、洞窟の中だった。
奥行きはそれほどなく、かすみと距離を取ろうにも、互いに手を伸ばせば届いてしまうほどに狭い。その洞窟の中には、風が運んできたのか、枯れ木や落ち葉が隅の方に盛られていた。かすみがそれに火を灯したのだ。
洞窟の外には、深い霧に覆われた山が伺える。
「俺たちは、崖から落ちたのか……」
焚火の温もりを感じながら、鵺は混濁とする記憶を辿った。
鵺と草之助は、山中で見かけた不審な人影を追っていたのだ。追い詰めて確認すると、やはりそれはかすみだった。逃げた理由を問い質そうとした刹那、何の躊躇いもなく、かすみは背後の崖から身を投げたのである。鵺は、咄嗟にかすみの手をつかんだ。しかし、崩した体勢を立て直すことができず、かすみとともに崖を真っ逆さまに下って行ったのだった。
「どうして私を庇ったりしたんだい」
鵺は、ちらりとかすみを見遣る。それとは逆に、かすみは鵺から目を逸らした。
「大方気づいているんだろう? 私がしでかしたことにさ」
「……」
「だから、私を探しにきたんだろう?」
「やはり、そうなのか」
「……」
「お前は、下山甲斐と通じていたのか」
かすみは俄に押し黙る。それこそが、肯定の意を表しているように鵺は思った。
「いつからだ」
「……」
「いつから、その男と関わりを持ったのだ」
「……ずっとだよ」
「……どういうことだ」
「いつからも何もないよ。私はね、甲斐様に差し向けられた間者だったのよ。……ずっとね」
しばらくの沈黙ののち、鵺が口を開いた。
「あり得ないな」
確信に満ちたその言葉を、かすみは表情を変えずに聞いている。
「お前は滝野の里に生まれ、滝野の里で育った。任務以外では里の外に出ることは許されない。そして、お前にそんな任務は与えられていなかっただろう。お前が里の外に出たのはつい先日……北畠との戦が初めてだったはずだ」
「違うよ、鵺」
「何が違うというんだ。かすみは……」
「だから、違うよ」
「何が……」
「かすみ、じゃない」
「……」
「私は、かすみじゃない」
鵺は驚愕に目を見開き、しばし絶句する。その後、深く息を吐いて項垂れた。俄かに頭をもたげた恐ろしい考えを打ち消すように、さらに深く息を吐き出す。
「お前がかすみでないなら、何なんだ」
「さあ。何なのだろうね」
鵺は、ぎろりとかすみを睨みつける。それに気づいたかすみが、少しばかり困ったように首を振った。
「怒らせる気じゃないんだよ。わからないんだ、私にもね」
「……」
「今日からかすみと名乗れ、とね。八年前に、甲斐様にそう命じられたのよ。それから私はかすみになった。それまでは、名を呼ばれたことなどなかったんだよ」
「八年……そんなに前から入れ替わっていたのか。ならば、真のかすみは……」
「……間が悪かったのさ」
「殺したのか」
かすみはこくりと頷く。
「八年前、甲斐様は里の外にいるかすみという子供を偶然にも見つけてしまった。そして、これまた偶然にも、背格好が私と似ていたんだよ。そこで、私を滝野の里に潜入させる算段を立てたのさ」
「なぜ、かすみが里の外に……」
「おそらく、父と兄の仕事ぶりを見に付き添っていたんだろうね。甲斐様が、かすみの傍にはそれらしい者たちがいたことを話していたから」
「……」
「……間が悪い。そして、運がなかった。あの日、里の外になんて出ていなければ、甲斐様に目をつけられることもなかっただろうに」
「腑に落ちないな」
「何がだい」
「背格好が似ていて、またかすみに似せて変装をしたとしてもだ。親兄弟までも騙せるものなのか」
「ただの変装なら、気づかれていたかもしれないね」
「ただの変装ではないと言うのか」
「この顔、実はね、かすみ自身のものなんだよ」
「は……?」
「かすみの顔を私が被っている。そう言ったら、鵺は信じるかい?」
重い沈黙が流れる。だが、すぐに鵺がそれを打ち破った。
「あり得ない。そんなことができるはずもない」
「あり得ない、か。けれどさ、それをあり得るようにするのが術というものだろう?」
鵺は言葉を失くした。
忍びの術の中には、変姿の術というものがある。それは変装をすることをもってそう呼ぶが、その中に七方出の術というものもあった。諜報活動をする際に怪しまれない七つの職業に化けるというものだ。それは、虚無僧(禅宗の一派である普化宗の僧のこと。普化宗は唐の普化を祖とする。虚無僧は「僧」と称しながらも剃髪しない半僧半俗の存在。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行し、多く小袖に袈裟をかけ、深編笠を被り帯刀していたとされている)、出家、山伏(山中で修行する修験者のこと)、商人、放下師(放下とは、大道芸のひとつ。田楽法師の伝統を受け継ぐ雑芸をする者のこと)、猿楽(能楽のこと)、一般庶民の七つである。
それらは変装の基本であるが、変姿の術を得意とする者の中には独自に編み出した技法で信じ難い姿に化ける者たちもいる。身の丈を伸ばしたり縮めたりと自由自在に変える者もいれば、老若男女どんな姿にも巧みに変装して見せる者もいた。しかし、苦心して編み出した術を、多くの忍びは口外することはしない。それは、たとえ味方であっても同じことだ。
だから、皮を被ることでかすみになりすましてきたという目の前の女の話を、完全に否定することはできない。だが、信じることもまたできなかった。技法としてそのようなことができるのかということもある。しかし何よりも、それが真ならば、かすみを殺したあとで顔の皮を剥いだということになる。
――剥いだ皮を、背格好が似ているというだけの女の顔に被せたというのか……。
そこまで考えて、鵺は胃の腑から嫌なものが込み上げてくるのを感じて思考を止めた。
だが、思い返してみれば心当たりがまったくないわけでもない。
昔、かすみが里の外で消えたという騒ぎがあった。それが八年前のことだったように思う。数日後には戻ってきたのだが、かすみは顔に大怪我を負ったらしく顔中に晒が巻かれていた。
かすみはまだ幼く、里を故意に抜けようとしたとは考えられなかった。また、その時のかすみは何を尋ねても口を利くことはなく、常に放心した状態であったという。そのことから、里の年寄りを中心に山の物の怪に魅入られたのではないかと囁かれていた。
「私もね、皮を剥がされたんだ」
かすみの呟きに、鵺は深く息を吐き出した。剥いだ皮を被せたとするならば、そうではないかとなんとなく思っていたのだ。
「私は表情がないとよく言われるのだけれどね、それは仕方がないんだよ。この顔は、ほとんど表情を作ることができないんだから」
「……」
「涙の通り道も潰れてしまったみたいでね、悲しくても泣くことすらできやしない」
鵺に言葉はない。何を言ってよいのか、また何を言うべきなのか、まるで見当がつかなかった。ただ、かすみが淡々と語るその話に、静かに耳を傾けてやることしかできなかったのである。
鵺は生きていた。また、かすみも……。
薄暗い洞窟の中、濃い霧の立ち込める赤目の山を見つめながら、鵺はかすみの話に耳を傾けていた。
かすみと下山甲斐……。
どのように出会い、どうしてかすみは下山甲斐の手先となったのか。
次回、それが明らかとなります。




