第一章 出会い ※写真付
――いつの間に夜になったのだろう……。
朦朧とする頭で、初音は思った。
前のめりに転んだはずだが、なぜか不思議な浮遊感とともに後頭部に鋭い痛みを覚えた。また、これもどういうわけか、気がつくと仰向けに転がっていた。
初音は、苦痛に顔を歪めながら立ち上がり、体についた泥を払う。辺りは一面、闇に覆われていた。
ふと、前方に三日月が見えた。
――今日の月は青白いんだなあ……。
ぼんやりとそんなことを思う。だが、その直後、初音は頭を振った。俄に覚醒した頭で考える。今が夜であるはずがない。初音は、午前中に家を出たのだ。昼にすらまだ早い時間のはずである。
初音は、闇の中で目を凝らす。三日月が、こちらに近づいてきた。そして、青白く鈍い閃光を放ちながら動き、初音の首筋に当てがうようにぴたりと止まる。
「何者だ」
闇の中から声が降ってきた。聞き覚えのない男のものである。
「答えろ」
首筋に当てられたものに力が込められるのを感じた。
「……はつ……」
掠れた、あまりにも情けない声に、初音は自分でも驚いた。「鹿島初音」と名乗ったつもりではあったが、「はつ」以外の音は、喉の奥から出てくる前に消えてしまったらしい。
「お前はどこからきた。なぜ降ってきたのだ」
男の言葉に、先程の浮遊感は落ちる時のものだったのかと頭の隅で思う。
「答えろ。答えねば斬るぞ」
その言葉に、初音はようやく理解した。
首筋に感じるひやりとした感触は、おそらくは金属製の何かだろう。それも、青白い輝きから刃物であるような気がした。そして、今の男の言葉……これは、刀というものではないだろうか。
そう思った刹那、初音は全身の毛が逆立つのを覚えた。
――いや、そんなはずはない……。
浮かんだ考えを打ち消すように何度も頭を振る。しかし、一度浮かんだ考えはなかなか消えてはくれない。それほどに、首筋に当てられた刃物の感触がそれが真剣であることを伝えていた。
「私は……わからない……」
そう口にするのがやっとだった。今にも倒れそうなほどの緊張に荒い呼吸を繰り返していると、首筋から刀が引かれた。
「お前は、どこの国の者だ」
「……国?」
「わからないのか? では、どこへ行くつもりだった?」
「……」
「ここがどこかは知っているか」
「……宮城県。私は、トンネルに入ったの……」
ふと、三日月の光が消えた。おそらく、鞘に収めたのだろう。
「ついてこい」
男の声がした方に目を凝らすが、闇が広がっているだけで何も見えない。辛うじて見えるのは、木の幹ばかりである。手を伸ばすと、どこもかしこも木の幹に当たった。もしかしたら、ここは森の中なのかもしれない。
「何をしている」
手が空を切るだけで動けずにいると、再び男の声がした。
「夜目が利かないのか」
溜め息をついた雰囲気だけはなんとなくわかった。男のがっしりとした手が、初音の華奢な腕を遠慮なくつかむ。その後、初音に再び浮遊感が訪れたかと思うと、次の瞬間には男の頑丈な肩に担がれていた。
「え……ちょっと、下ろしてっ」
「お前に合わせていては日が暮れる。しばらくはそこでおとなしくしていろ」
そう言うや否や、男は初音を担いだまま、まるで何もない平地を行くような速さで闇の中を駆けて行ったのだった。
唐突に目の前が開けたような気分だった。夜から一瞬にして昼になったような錯覚を起こしつつ、初音は眩しさに目をぎゅっと瞑る。
明るさに慣れてくると、徐々に瞼を上げていった。そうして目に飛び込んできたのは、一面に広がる緑……。どこかの山中だろうか。そこには、見慣れない風景が広がっていた。
見入っていると、突如体を投げ落とされた。硬い地面に尻を強かに打ちつける。ほとんど無意識にそちらを見遣れば、鋭い光を放つ男の目とかち合った。
そこで、初音は初めて男の姿を認識する。
――なんて、おかしな格好をしているのだろう。
男への最初の印象は、こうだった。
男は、時代劇や日光江戸村、京都の映画村などで見かけるような服装をしていた。
膝丈ほどの着物を纏い帯を締めている。帯には刀を差しており、手には手甲、そして足には脚絆と呼ばれるものを身に着けていた。それから、靴の代わりに鳶職人などが履くような足袋を履いている。また、男でありながらポニーテールを結っているのが、さらに不信感を強めていた。
「お前、女だったか」
男が口を開いた。
「剃髪刑にでもあったか」
「剃髪……?」
「妙な形をしているな。旅芸人の仲間とでも逸れたのか?」
「妙なって……貴方の方がずっと妙じゃないか」
「なに?」
「そんな格好をして、刀まで差して。時代錯誤も甚だしいですよ」
「……」
「大体、会ったばかりの人にお前と言ったり、突然担いだり……失礼です」
「はつ」
初音は、まるで打たれたように男を見据えた。
「はつ、と言ったな」
男が言う。先程名乗った時にしっかり伝わっていなかったことを理解したが、言い直すのも面倒だった。どうせ、そう長く関わり合うようなことにはならないだろうとも思い、初音は「はつ」として頷く。
「ここがどこか知っているか」
「どこって、山の中でしょう」
「どこの山の中だ」
「えっと、だから、宮城県のどこか……?」
「先刻も言っていたな。お前の言うミヤギケンとは何のことだ」
「え、宮城ですよ?」
「聞いたことのない国の名だ」
「……」
「だが、ここはミヤギではない。ここは伊賀国にある赤目渓谷の山中だ」
「伊賀……赤目……?」
「真に何も知らないのか?」
一体、この男は何を言っているのだろうか。伊賀国などと……まるで時代劇の中に放り投げられたような気分だった。
「あの、確認したいことがあるのですが……」
「何だ」
「今は、二〇一四年ですよね?」
「……」
「平成二十六年、そうでしょう?」
「お前の言うことはよくわからないな。だが、今が何年かを知りたいと言うならば、天正六年。今日は九月二十二日だ」
「何を言っているの? ……今日は、平成二十六年の十一月一日でしょう?」
いよいよ男の顔が不審に満ちたものへと変わっていく。それを前に、はつは男が冗談でそんなことを言っているわけでないことを知った。
「そんな……天正って……」
歴史好きの祖父を持つはつもまた、日本史にはそれなりに詳しい。天正という年号は、戦国時代のものだと記憶していた。
「嘘だっ」
突然叫んだはつを前に、男は溜め息をつくと実に面倒そうに言う。
「……ついてこい」
歩き出しても動かずにいるはつに、男は再び声を投げかけた。
「いつまでもこんな所にいたいのか」
確かに、見知らぬ山中に置いて行かれるのは嫌だった。だが、見知らぬ男について行くこともまた不安でしかない。しかし、それでも、一人で山中を彷徨うよりはましかもしれないとはつは思った。険しい山道をすたすたと軽快に歩いて行く男の背を追って、はつも慣れない山道を懸命に歩いたのであった。
初音からはつへ。
この男との出会いこそが、戦国時代におけるはつの運命を大きく左右してゆくことになるのです。
次回、伊賀の里人たちがたくさん登場します。