第八章 はつと鵺
弥助に伝令を託された鵺と草之助は、険しい山中を里に向かい急いでいた。
「なあ、草之助」
その道中、鵺がすぐ隣を走る草之助に尋ねる。
「父を失うとは、どういう気持ちなのだろうな」
「……弥助のことか」
「あんなに落ち着いていられるものなのか」
「さあな。俺に父はないからな」
「……」
「何を落ち込んでいる。お前とてそうだろう」
「まあ、確かにそうだが」
「それに、俺には母がいる。いや……いた、だな」
「家に残してきたと言っていたな」
「捨てたのさ。家とともにな」
かつて、草之助は貧しさを嫌い、一度も日の目を見ることなく一生を終えることを嫌った。だから、家を出たのだ。家を捨て、母を捨て、次に戻る時には武士になった時だと、そう固く誓ったのだとかつて鵺に話してくれた。
「藤吉郎という男に憧れた。百姓上がりの武士がいると聞いてな」
「今では、俺たちの敵にあたる男だがな」
「この時世ならば、俺も武士になれるのではないかと思った。まあ、しかし、こんな所で下忍に身をやつしている俺などでは、望みは薄かろうがなあ」
「……帰ってみてはどうだ」
「……」
「この山にいるのだろう。お前の母上は」
「……ああ。だが、生きているかどうかもわかりはしない。それにな、今更どんな顔で会えばいいのだ」
「……」
「俺は、もう生涯母と会うことはないだろう。……捨てるとはそういうことだ」
その後、二人は何も語ることはなかった。
昨夜に弥助と別れてから半日あまり、ほぼ休むことなく二人は走り続けた。そして、辰の刻(午前七時のから午前九時)を回った頃、ようやく滝野の里境が見えてきたのである。
滝野の里衆が出陣して行って二日が経った十八日の朝、はつは寒さに目を覚ました。
滝野の里衆が出て行ってからは、毎夜千手姫とともにお地蔵様に手を合わせるのが、はつの仕事のひとつとなっていたのだ。それが、こともあろうにお地蔵様の前で眠り込んでしまっていたらしい。
はつは、かけられた夜着(綿入りの着物の形をしたかけ布団。かいまき布団ともいう)を払う。おそらく、千手姫がかけてくれたものなのだろう。
「うわあ、どうしよう。汚れてしまったよ」
そう呟きながら、夜着についた砂埃を払う。その時、屋敷内が俄かに騒然となった。
「亀之助」
千手姫の慌てた声が聞こえる。
「亀之助、どこです」
「亀之助様っ」
千手姫の声に次いで、別の女の声もした。みな、亀之助を呼ばわっている。
がらりと縁側の戸が引かれた。
「はつ」
血相を変えた千手姫を見て、はつは姫の傍に駆け寄る。
「亀之助様がおられないのですか」
尋ねると、千手姫はこくりと頷いた。その後、戸に縋るようにその場に膝を着く千手姫を見て、はつはその背を摩ってやる。
「心配しないで。この里の中にはいるのでしょう? なら、絶対に無事ですよ」
「ですが、里の人々ともう半刻(約一時間)も探しているのですが、一向に見つからないのです」
「亀之助様が行きそうな所は、すべてあたったのですか」
「ええ……」
ふと、千手姫が顔を上げた。
「もしや……」
「……どうされました」
「亀之助は、里境にいるのでは……」
二日前、決して里境に近づいてはならないと千手姫に言われて以来、亀之助が里境に近づくことはなかった。それどころか、屋敷の中でおとなしくしていたのだ。だから安心していたというのに、今日になってこの騒動である。
千手姫は、見る見る顔を引き攣らせていく。
「たとえそうでも、里の外に出ていないなら……」
「いえ、これは里同士の争いとはわけが違います。今は、この伊賀国すべてが戦場なのです」
はつも、途端に胸騒ぎがし始めた。
「……向かいましょう」
足の裏についた土を落とすと、はつは縁側から屋敷に上がり込む。そして、千手姫の手を取って立たせた。
その時、ふと、壁に立てかけられた物が目の端に映り込む。はつは、咄嗟にそれをつかんだ。
勝手に手にすることは悪いとは思う。また、はつが持っていたところで役に立てられるとも到底思えない代物でもあった。しかし、この時のはつには、それを持って行った方がよいように思われたのだ。
はつは、それを持ち上げる。ずしりとした重みが全身に広がった。
亀之助は、里境にいた。
二日前と同じように、里境の向こうの森を見据えている。
「亀之助っ」
呼ばれて、亀之助はこちらを振り返った。見つかったことに安堵しながら、千手姫が小走りで近づいていく。
「亀之助、貴方はまたっ……」
そう言って亀之助を叱咤しようとした時、異変に気づいた。
里境の向こうから、誰かがこちらに向かってくる。それは、一人の男だった。
その場にいたはつと桔梗は、里の誰かではないかと思った。伝令を持ってきたのではないかと。しかし、それにしてはおかしいのだ。その男は、ふらふらとした足取りでこちらに向かってきていた。
手には抜き身の刀を握っている。男が歩くたびに、着込んだ甲冑ががちゃがちゃと音を立てた。
そこまできて、この男が里人でないことにみな気づいた。
「亀之助、こちらへ」
千手姫が叫ぶ。しかし、幼い亀之助は恐怖のあまりにその場を動けずにいた。亀之助と男との距離は、もう目と鼻の先だった。
「亀之助っ」
千手姫が悲痛な叫び声を上げる。桔梗が動いた。だが、それよりも先に走り出していたのは、なんとはつであったのだ。
はつの手には、先刻拝借してきた忍び刀が握られている。
はつは、亀之助のもとへと急ぎながら、鞘から刀を抜き払った。鈍い光を放つ刃が顔を覗かせる。
男は、亀之助の前へと立った。そして、その頭上に刀を振り翳したのである。
鵺と草之助の目に里境が見えてきた時、里は騒然とした空気に包まれていた。
千手姫の叫び声に、二人は俄かに色を失う。
ふと、見慣れない男の姿を捉えた。足軽隊の身に着けていた甲冑を着込んでいる。その男が、ちょうど刀を振り翳しているところであった。そして、その下には……。
「……亀之助様っ」
鵺の焦りを含んだ叫びが辺りに木霊する。
――くそっ、間に合わないっ……。
鵺は、手甲に手をやる。中から棒手裏剣を抜き取ると、構えた。
――この距離では当たるかどうかわらかない。だが、掠りでもすれば少しは時が稼げるだろう。
鵺の考えを知って草之助は先を急ぐ。わずかにでも生まれた時を無駄にしないためである。
しかし、鵺は構えた棒手裏剣を打つことができなかった。それは、亀之助と男との間に割って入った者の姿を見たからだ。
見間違いでなければ、それは、はつである。
そして、まさかと思った刹那、忍び刀を手にしたはつが男の振り下ろそうとした刀を薙ぎ払ったのだった。
忍び刀は動き易さに重点を置いているため、通常の刀よりもずっと短い。しかも、男とはかなりの体格差である。だが、そんな不利な条件などものともせず、はつの太刀筋は美しい半月を描き男を打ち負かしたのであった。
尻を着いた男は、血のひとつも出てはいなかった。はつは、刀の鍔を払うことで、男に刀を手放させたのである。
突如、先刻までの騒ぎが嘘のように静寂が訪れた。
みな、呆気に取られたようにはつを見据えている。一方のはつは、男を警戒し、刀を突きつけることをやめなかった。しかし、男は尻を着いたまま立ち上がる気配はない。完全に戦意を失っている様子だった。
「はつ」
呼ばれて、はつは打たれたように顔を上げる。そこには、二日振りに見る鵺の姿があった。
鵺はしばしはつを見たあと、亀之助に向くなり跪く。
「亀之助様、遅くなりまして大変申し訳ございません。お怪我はございませんか」
「ああ、大事ない。はつのおかげじゃ」
草之助は、亀之助を襲った男の両手を後ろ手に縛り上げた。男はと言えば、何の抵抗もなくされるがままになっている。
「鵺、俺はこの男を始末してくる。お前は、伝令を頼む」
男を引き立てて行こうとする草之助の背に、
「待って、草之助。始末って……」
はつがそう声をかけた。草之助は振り返り、普段通りの笑顔で言う。
「ここで始末しては、亀之助様と姫様のお目汚しとなる」
男を連れて行く草之助に、はつはさらに言い募ろうとした。だが、鵺がそれを制する。
「あの男は亀之助様に危害を及ぼした。許すわけにはいかないのだ」
「でも、鵺だって見たでしょう? あの人の目、もう戦う気なんてなかった」
鵺はしばしはつと見つめ合ったあと、ふと目を逸らした。そして、亀之助の前に再び跪き、弥助からの伝令を述べる。
「北畠との戦、現時点で伊賀衆が優勢。もうじき、戦は終息へと向かうことでしょう」
その知らせに、千手姫は安堵の吐息を漏らす。その場にいたはつと桔梗も、それは同じだ。亀之助は、幼いながらも凛とした態度でその話を聞き、
「鵺、よくぞ知らせてくれた」
そう言って、鵺に労いの言葉をかけたのだった。
亀之助を襲った男を連れて行った草之助が帰ってきた。
里境には、もうみなの姿はない。はつも含めたみなが、頭領の屋敷に戻っていた。いるのは鵺だけである。
「始末、したのか」
鵺が尋ねる。草之助はこくりと頷いた。そして、懐から麻布を取り出すと、それを逆さにして見せる。
「おかげで素寒貧だ」
「……始末しに行って、金子を奪われたのか」
「はつの言う通りだ。あの男には最早戦う意志などない。聞けばな、奴は元々近くの農村の百姓だったそうだ。戦が起こるということで徴兵された、忠義も何も持たぬ雑兵に過ぎない」
「なるほど。それで、銭を握らせて返したのか」
「無一文で逃がして、野垂れ死にされても目覚めが悪い。……知られれば、俺は首を斬られるかもしれんな」
「そうだろうな。だが、大事ないだろう。俺が言わなければよいだけのことだ」
そう言い、二人は久方振りに笑い合った。だが、それも束の間のこと。ふと笑顔を引っ込めた草之助が、鵺に詰め寄る。
「ところでな、はつのあれは何なのだ」
あれと聞き、鵺は先刻のことを思い返した。
「やはり、あれは常人の動きではないな」
言いながら、鵺ははたと思い出す。はつが里にきたばかりの頃に、ちょっとした騒動が沸き起こったことがあった。はつを間者と思った里の女たちに、はつが井戸端で襲われた時のことである。
鵺が駆けつけた時、はつは常人とは思えない動きで浅葱を庇った。今では、あれは偶然だったのだろうと思ってはいたが、今しがた見せた動きはそれの比ではない。
「やはり、お前もはつをどこかの間者だと思うか」
おそるおそる草之助を見遣る鵺だが、一方の草之助は瞠目した様子でこちらを見ている。その後、溜め息混じりに呟いた。
「いや、俺はそういうことを言っているわけではないのだが……」
首を傾げて見せる鵺に、再度溜め息を零して言う。
「鵺、お前ははつに刀の使い方を教えたのか」
次に瞠目したのは鵺の方だった。
「教えるわけがないだろう」
間者の疑いをかけられている者に戦い方の手解きなどするはずがないと、鵺はその目で語る。すると、三度目の溜め息を草之助が吐いた。
「では、あれは何なのだ」
草之助が先刻と同じことを口にする。
「確かに、あの時のはつの動きは常人のものでは……」
「違う、そうではない」
鵺も、先刻と同じことを言おうとして、草之助の言葉に遮られた。
「あれは、お前ではないか」
草之助の言葉が耳に木霊する。
「あの動き、あの剣裁き……。あれは、お前そのものだった」
「……何を馬鹿な……」
「馬鹿なことか。それは重々承知している。だが、俺はお前の剣については里の誰よりも知っている。俺より多く、お前の剣と対峙した者はいないだろう」
「……」
「その俺がな、あの一瞬、はつにお前が重なって見えたのだ」
「……あり得ないな」
「……ああ、そうだ。あり得るはずがない……」
腑に落ちない感情を残したまま、鵺と草之助は、はつがいるであろう頭領の屋敷を見据えていたのだった。
翌日の九月十九日。太陽が真上に昇った頃、滝野の里衆が戻ってきた。
「ねえ、かすみはどこにいるの?」
勝利の歓声の最中、はつはきょろきょろと辺りを見回している。鵺も同じように見遣った。しかし、どこにもかすみの姿は見えない。
「鵺は、何か知らないの?」
鵺は首を振りつつ答える。
「俺たちは少数で組んで行動していた。かすみは、確か浅葱と菊乃とともに動いていたはずだ」
大勝利に湧き立つ中にあって新たに芽生えた不安の影……。
はつは、祈るように両手を合わせると、胸元で力強くそれを握り締めたのだった。
ここにきて、はつに生まれた新たな疑念……。
だがはつは、鵺と草之助がそんな疑念を抱いていることなど知る由もなかった。
今、はつが気がかりに思うのは、消えたかすみの行方のみである。
次回から第七部に突入します!
そして、これが最終部……いよいよ、クライマックスです!




