第四章 残された者たちの戦 ※写真付
滝野の里衆が出陣して一刻ほどが過ぎた。
はつが鵺の家に籠っていると、戸を叩く音が耳に届いた。
この家の戸を叩くような者は、みな戦場へと向かっている。少し不審に思いながらも戸を引くと、そこには幼女の手を引いた老婆が立っていた。話したことはないが、面識はある。幼女は菊乃の妹で、老婆は浅葱の祖母だ。
「はつや、お屋敷に参らんのか」
老婆の言葉にはつは首を傾げる。
「みな、頭領のお屋敷に集まっておるぞ」
「頭領のお屋敷に……」
「こういう時はの、ばらけてはいかん。みなが一丸となり、戦っている者らの無事を祈るのじゃ。我らは戦場に行くことはできんが、せめて我らの心だけでも届けられるようにのう」
菊乃の幼い妹は、老婆から手を離すと、代わりにはつの手を両手でつかんだ。
「行こう」
そう言って笑いかける幼女に、はつも自然に笑みが漏れる。
「一人でいるとろくなことを思わんものじゃよ」
はつの胸中を察したのか、老婆はそう言って微笑んだ。
だが、屋敷に向かう道中のこと。菊乃の妹の何気ない言葉に緊張が走った。
「ねえ、はつはまだ何も思い出せないの?」
ちらりと浅葱の祖母を見遣る。こちらを見てはいないが、全身を傾けてはつの動向を伺っている気配が伝わってきた。
「うん。まだ、何も……」
幼い子を騙すのは心苦しかったが、はつにはそう答えるしかない。
「でも、もうじき思い出せるよ」
菊乃の妹は笑う。
「ずっと思い出せないままなんてことはないんだって、姉上が言っていたもの」
そんな無邪気な笑顔を見つめながら、菊乃がどういうつもりでそんなことを言ったのかを考えた。菊乃は、今でこそはつを受け入れてくれている。……少なくとも表向きは。しかし、もともとははつに対して強い不信感を抱いていたのだ。だが、それを言うならば、鵺と草之助、そして千手姫以外の里人はみなそうであった。特に年寄り連中は、はつに対していまだに強い疑念を持っている。
「徐々に思い出していけばよいわ、のう?」
浅葱の祖母はそう言って笑った。だが、その目はまったく笑ってなどいない。
そこで、はつは理解した。
――そうか。私を監視するつもりなんだ……。
はつの目付である鵺と草之助が戦に駆り出された今、残された里のみなではつの動きを監視する……そのために屋敷に呼び寄せようというのだろう。
しかし、そうはわかっていても、はつにとってこの状況はありがたいことでもあった。一人でいるよりも、余程気分が落ち着いたからである。
屋敷に着くと、里中の子供や身重の女、年寄りらが集まっていた。上座には亀之助が堂々とした風格で座し、その傍らには千手姫が控えている。
「はつ、よくきましたね」
はつが着くと、千手姫は小走りで近寄ってはつの手を取った。
「さあ、こちらへ」
そう言って手を引きながら、みなのもとへと連れて行く。その場にいたのはみな見たことのある顔触れではあったが、浅葱の祖母同様にほとんど口を利いたことのない者たちばかりであった。はつが知っていると言えるのは、千手姫と桔梗ぐらいのものである。桔梗は子を産んだばかりだったために、今回の戦には出ていなかったのだ。
「少し見ない間に、また大きくなったね」
はつが、桔梗の胸に顔を埋めている子を見て言った。
「ええ」
「可愛いなあ」
「はつ。よかったら、抱いてみるかい」
「え……でも、私、この間も失敗してしまったもの」
それは、桔梗の出産を聞き、大江邸に馳せ参じた時のこと。はつは浅葱同様、なかなかうまく抱けずにとうとう泣かせてしまったのだった。
「今日は調子がよさそうなんだよ」
そう言うので、はつはおそるおそる手を伸べる。桔梗はその手に、そっと我が子を託した。その子は、始めこそぐずっているようではあったが、次第に慣れてきたのか、はつの腕におとなしく身を預けている。
「そうそう。そんな感じだよ」
桔梗の指導のもと、先刻よりは幾分かましな手つきになった。その子は、安心したかのようにはつの胸にぺたりと顔を埋める。じんわりとした温かさが体中に広がった。
「子供って、こんなに温かいんだね」
言いながらはつは、一月ほど前のことに思いを馳せる。
はつが大江邸に着いた時、鵺が桔梗の子をその腕に抱いていた。
――随分と慣れた手つきだな……。
そう思った刹那、その子を見て笑った鵺の表情……それは、これまでにはつが見たことのないような、実に優しげなものであった。
――いや、違う。私はたぶん、見たことが……いや、感じたことがある。
はつは考える。一体、それはどこでだったろうか、と。そして、唐突に思い出した。
――夢だ……。
そう。繰り返し見るあの夢の中で見たのだ。……いや、はつはそれを見られなかった。はつの意識は鵺の中にいたのだから。だが、この上なく優しげに笑ったのを、鵺の中ではつは確かに感じていたのだった。
そして、その笑顔の先にいたのは……。
――千手姫様だ。
意識した途端に頬が熱くなる。はつは、亀之助の隣に戻っていた千手姫にちらりと目を向けた。
――そうか。鵺はあの時、桔梗さんの子に幼い頃の千手姫様を重ねて見ていたんだ……。
そこまで考え至った時、
「鵺なら心配要らないよ」
桔梗の声が、はつを現実に立ち返らせた。
「鵺は、強いからね」
子を抱いたまま黙り込んだはつをどう思ったのか、桔梗はまっすぐにはつを見据えて言う。
「そうだね。それに、草之助もついているもの」
はつがそう言って笑うと、桔梗も微笑を浮かべた。
「鵺とは、約束があるからね」
桔梗の視線が、はつの腕の中で安らかな寝息を立て始めた子に注がれる。
「この子の名……」
「ええ。早く呼んでやりたいね」
「……そうだね」
「鵺はね、一度交わした約束は必ず守ってくれる。私は、そう思っているよ」
「だから、戻ってくるって?」
「ええ」
「そうか。うん……そうだね」
「それに、里に残った私たちには、私たちなりの戦いがあるもの」
首を傾げるはつを前に、桔梗ははつの腕の中で眠る子を指し示した。
「たとえば私なら、この子を守ることだと思う。伊賀と里のため、この子を立派な忍びに育て上げるためにもね。それから、私の祖母はね、いよいよ戦になると知って、今朝は長いこと祠に手を合わせていたわ」
滝野の里境には小さな木造の祠があった。その中には道祖神が祀られている。それは、里の守り神として、年寄りを中心にして崇められていたのだった。
「それにね」
桔梗が声の調子を落とす。
「これは、万が一のことではあるのだけれど」
周囲を気遣ってこそりと話すので、はつは思わず桔梗の方に身を乗り出して聞き入った。
「この里も、絶対に安全というわけではないんだよ」
「……どういうこと?」
「もしもの話さ。伊賀全土を巻き込む戦だもの。伊賀のどこにも、絶対に安全な場所などないということよ」
「……」
「だからね、私は里に残ったのさ」
瞠目するはつを前に、桔梗は続ける。
「伊賀惣国一揆によれば、十七から五十の者には出陣の義務がある。つまり、里には満足に戦えない者たちしかいないということ。私は子を産んだばかりであり、その子は私以外に身を寄せる者がいないということで里に残れたのだけれど、その万が一のことも考えたから残った面もあるんだよ」
「万が一って……」
緊張して尋ねるはつに、桔梗はふっと笑った。
「さあね。あるかないかわからないことだもの。もしかしたらというだけの話よ。怖がらせてしまったかい?」
先程までとはうって変わって明るい口調で話す桔梗だったが、はつは俄かに俯き考え込んでしまった。
「すまないね、はつ」
はつの様子に、桔梗が実にすまなそうに言う。
「もしもの話なんて、するべきじゃなかったね」
桔梗は、はつを怖がらせてしまったと思っているようだが、それは少し違った。
――攻めてきた敵が狙うとしたら、それは一体誰になるのだろう……。
はつは思う。手当たりしだいに里人を殺すかもしれないし、冷静な者ならば頭領の嫡男である亀之助を狙ってくるかもしれない。
――そんなこと、絶対にさせない……。
はつには武芸の心得などは何もない。だが、千手姫と亀之助だけはなんとしても守ってやりたい。
はつが里にきてから一年足らずではあるが、そんな短い中でも、頭領とその二人の子らを鵺がどれほど大切に思っているかを知ってしまったから……。
――鵺を悲しませたくはないものね。
はつは目を閉じる。そうして、戦場にいるだろう鵺に思いを馳せるのだった。
里に残された者たちも、それぞれに戦っているのだ。
はつには、どんな戦い方ができるたろうか……。
次回、鵺と草之助の戦い方をお届けします。




