第二章 開戦 ※写真付
夏の暑さも遠のき、山の木々がすっかり赤く染め上げられた九月も半ばの頃。はつは、寝過ごしたことに気づいて飛び起きると、急いで支度をして外に出た。
昨夜の時点で、水瓶に残った水はかなり少なくなっていた。今日は早くに起きて、水汲みをしようと思っていたのだ。それが、普段よりもだいぶ遅く起きてしまった。空を見上げると、太陽がかなり上まで移動している。おそらく、あと一刻(約二時間)もすれば真上にきてしまうだろう。
はつは、水桶を二本持つと井戸を目指した。
鵺に小言を言われながらも水汲みを続けていたはつは、ここにきたばかりとは比べるべくもなく腕力がついていた。また、足腰も鍛えられ、体力や持久力もかなり向上したように思う。近頃では、はつが水汲みをしても薪割りをしていても、鵺は何も言わない。はつに対して、一定の信頼を寄せているからであろう。そう思うと、はつは胸が温かくなった。水汲みも薪割りも、今でははつの仕事となっていたのである。
桶を手に井戸端に着いたはつは、尋常でない雰囲気に息を呑んだ。井戸の先にある広場に、滝野の里人が勢ぞろいして控えている。その中心には、頭領の姿があった。
何やら真剣な面持ちで話しているようだが、その内容までは聞き取れない。桶を手にしたままどうしたものかと考えあぐねていると、里人たちが一斉に動き出した。どうやら解散となったらしい。
水を汲むのも忘れて呆然としていると、
「はつ」
こちらに向かってくる鵺がはつに気づいて声をかけた。
「今、起きたのか?」
「あ、うん。寝過ごしてしまって……」
「そうか」
それだけ言うと、鵺は釣瓶を井戸に落として水を汲む。そして、はつの手にした桶を取ると、それに水を注ぎ入れた。その作業をいともあっさりと終えた鵺は、水をいっぱいに張った二本の水桶を手に歩き出す。
「先に戻っているぞ」
「え、先にって……」
はつの用事は水を汲むことだけだ。それを鵺に奪われたはつは、特に他にやることもない。手持無沙汰のまま鵺のあとを追おうとしたところで、
「はつ」
背後からそう呼び止められた。
「あ、かすみ」
振り向きざまに答える。
「はつもきていたのかい?」
「違うよ。今日は寝過ごしてしまってね、集まりがあったなんて知らなかったんだ」
「そう」
「何かあったの?」
「いよいよね、戦が始まるのよ」
「え……もしかして、織田信長が攻めてくるの?」
「信長じゃない。信雄の方さ」
北畠信雄の重臣である滝川雄利と伊賀衆が一戦を交えてから、あと一月で一年になろうとしている。ついに、北畠は本腰を入れて伊賀を攻めるつもりのようだ。
「だからね、急いで仕度をしないといけないのさ」
その言葉に、はつは驚いてかすみを見据える。
「まさか、かすみも出陣するの? だって、かすみはまだ……」
十六歳なのにという言葉を呑み込んだはつだが、察したらしいかすみが言った。
「私は、今年で十七だよ。十七から五十の者には出陣の義務があるんだ。それが伊賀の掟だよ」
「そんな……」
「伊賀は強いよ。だから心配しなくていい。きっとね、負けないから」
そう言って仕度にかかろうとするかすみの腕を、はつは両手でつかんでその歩みを止めた。
「かすみ」
「なに?」
かすみが振り向く。
「私ね、最近同じ夢を見るんだ。決まって戦の夢なんだ。本当に、伊賀は勝つのかな……」
言ったあとで、はつは酷く後悔した。そして、申し訳なさのあまりに俯く。
「……これから戦いに行く人に、言うことじゃなかったね」
だが、そんなはつを一瞥すると、かすみは普段と変わらずに淡々とした調子で言った。
「頭領も仰っていたけれどね、北畠は伊賀を攻めるに充分な準備はできていないと思うよ。丸山城の一件から感情的になっているんだと思う。兵の数も一万ぐらいだろうと言うし、侵入経路も大方予測できるているもの」
「そうなの?」
「ああ。長野峠、青山峠、鬼瘤峠辺りから攻めてくるつもりだろうね」
「そうなんだ。凄いね、忍びの情報って」
「それはそうよ。諜報と情報操作こそが忍びの戦い方だもの」
「ねえ、かすみ。行く前にさ、ひとつだけ聞いてもいいかな」
「何だい」
「かすみは、生まれ変わることはあると思う?」
はつの脳裏に夢の情景が浮かんでくる。鵺の中に入り込み、戦火の中を草之助と千手姫とともに逃げている夢だ。初めこそ戸惑いはあったものの、夢の中での鵺の心情がはつにはよく理解できた。そこで、思ったのだ。もしかしたら、はつは鵺の生まれ変わった姿なのではないのかと……。
はつが鵺の生まれ変わりだとするなら、会った時からどことなく美雪に似ていると思ったこの少女は、もしかしたら美雪の過去の姿なのかもしれない。かすみといる時、はつは美雪といるような感覚を常々得ていたのだ。
「戦に行く前に聞きたいことって、それなのかい?」
呆れたように尋ねられ、はつは俄かに俯いた。だが、次の瞬間、はつははたと顔を上げる。
「あるんじゃないのかね」
「え……」
「あ……違うね。あればいいと、そう思うよ」
かすみは空を見上げた。はつもつられて見上げる。雲ひとつない青天がそこには広がっていた。
「もしも、過去も未来もなく、これきりの命だって言うなら、私は何のために生まれてきたのか分からないもの」
そう言ったかすみの姿がどこか儚げに見える。
「まったく違う世の中にいて、まったく違う私がまったく違った命を生きる……明から渡ってきた教えにはね、そういうものがあるんだってさ。悟り切ったら世の中のいろんなものから解き放たれて、この世に生れてくることは二度とないのだとか。でも、もしそうなら、私はずっと悟れなくていいと思うんだ。私は、この命が尽きたら、まったく違う場所に出てね、まったく違う命を生きてみたいと思ったりするんだよ」
かすみは、空からはつへと視線を戻した。
「なんでそんなこと聞くのさ」
はつが答えに迷っていると、かすみは訝しげに目を細める。
「はつ、あんた、もしかして……」
言ったあとで、かすみは自嘲気味に笑った。
「……そんなこと、あるはずがないね」
そこで、かすみははつに背を向ける。
「あったらいいとは思うけれど、現実から逃げていても仕方がないからね。私はそろそろ行くよ」
歩き去るかすみの背を見据えながら、はつはどこかその姿に違和感を覚えていた。
はつが家に着くと、鵺はすでに仕度を終えているようだった。
「早いね」
「前々から言われていたことだからな。今さら備えるものなどたかが知れている」
「そんな軽装で行くの?」
「身軽さこそが忍びの最大の武器だからな」
「でも、そんなに急がなくてもいいでしょう? もう少しだけ、ゆっくりしていきなよ」
はつの言葉に、鵺は珍しく素直に従った。はつは鵺に白湯を淹れてやる。
「こういう時って、打ち鮑、勝栗、昆布を肴に酒を飲むものなんだってね」
「そんなこと、どこで聞いた」
「草之助だよ」
「ああ。あいつは武士に憧れているからな」
「武士がやるものなの?」
「三献の儀式のことだろう。大将が打ち鮑、勝栗、昆布の順で口にするのだ。打って、勝って、喜ぶ、という意味になる」
「そうなんだ。まあ、打ち鮑と勝栗はないけれど、昆布ならあるよ」
「なぜ、そんなものがあるんだ」
「この間ね、千手姫様から頂いたんだよ」
千手姫という名に、椀を持つ鵺の手が一瞬ぶれたように見えた。はつは、小皿に乗せた昆布巻きを鵺の前に出す。
「鵺が帰ってきたら、千手姫様は喜ぶね」
鵺がはつを見据える。その視線から逃れるように、はつは俯いた。
「こんなことを言ったらいけないのかもしれないけれど、誰も討ちとらなくていい。勝てなくてもいい。でも、帰ってきてよ。私は、帰ってきてほしい。姫様だって、きっとそう思っているよ」
ふと、再び夢の情景が襲いくる。戦の中、逃げている三人の姿を思い浮かべた。
――あれが、もしも正夢だったなら……。
もしくは、鵺がはつの過去の姿だったならば……そう思うと、はつは胸が締めつけられる思いだった。
「姫様には草之助がいる」
「もちろん草之助は大事だよ。でも、鵺のことだって大事なはずだよ」
「なぜ、お前にそんなことが分かるんだ」
「千手姫様は、鵺を兄として慕っているからだよ。兄弟がいなくなって悲しまない人はいないでしょう?」
「……」
「鵺は、いざとなったら草之助の身代わりにでもなろうとか思っているのかもしれないけれどね」
鵺は、俄かに目を見開いた。鵺のわずかな動揺を感じ取ったはつは、やはりそうかと思うと続ける。
「駄目だよ、絶対。千手姫様には二人とも大事なんだから」
鵺は気まずそうにはつから視線を外し、昆布巻きを一口で平らげると、冷めた白湯でそれを喉の奥へと流し込んでやった。そして、おもむろに立ち上がると刀を腰に差す。
「はつ。俺が帰らなかったら、その時は草之助を頼れ」
鵺は、はつに背を向けて戸に手をかける。
「だが、まあ……俺も、そう易々と殺されてやるつもりはないがな」
そう言うと、鵺は振り向くことなく出て行った。
それから間もなく、それぞれに武装した滝野の里衆は、滝野十郎吉政を先頭に長野峠へ向けて出陣して行く。天正七年九月十六日のことである。
その様子をそっと見据えていたはつが願うのは、ただひとつ……。鵺と草之助、浅葱たち、そして一人でも多くの里人らが無事に帰ってくることだけであった。
出陣していった滝野の里衆。
目指すは、滝野の里から最も近い長野峠である。
次回、浅葱たち三人組の戦いをお届けします。




