第一章 新たな命 ※写真付
七月の終わり、謹慎中の身であった小次郎が姿を消した。頭領は小次郎を抜け忍と見做しやむなく追手をつけたのだが、その任を与えられたのが兄である弥助であった。
命を受けて弥助はすぐに里を出た。そして、月が変わり八月になっても、里に戻ってくることはなかったのである。
織田との戦がいつ起きてもおかしくない状況下で抜け忍を出してしまった滝野の里……。里人らの胸にも少なからず影を落としていく。だが、そんな中にあって、喜ばしい知らせがはつと鵺にもたらされた。
桔梗が、無事に女を出産したというのである。
「ねえ、鵺。桔梗さんの所に行かなくていいの?」
「なぜ、俺が……」
「まあ、鵺と浅葱の関係は知っているけれど、桔梗さんとは仲が悪いわけではないでしょう?」
「仲がよいわけでもない」
「でも、鵺はずっと気にしているよね、桔梗さんのこと」
「……」
「私の思い違いではないと思うのだけれど」
はつは、十月前に桔梗の身に起きたことを何も知らない。鵺が口を開きかけたところで、家の戸が叩かれた。
「草之助……?」
はつが戸の向こうに声をかける。だが、草之助ならば戸を叩いたりなどはしないだろう。我が家同然にずけずけと上がり込んでくるはずだ。
「あたしだよ」
戸の向こうから聞こえた声に、はつは驚きつつも土間へと下りて戸を引いた。そこには、癖の強い赤い髪を靡かせた女が立っている。
「浅葱がここにくるなんて思わなかったよ。どうかしたの?」
浅葱は、出迎えたはつと、その向こうで背を向けている鵺を見たあとで答えた。
「姉上にね、子が産まれたんだ」
「聞いたよ。今もね、鵺とその話をしていたんだ」
「そう……」
ちらりと、浅葱の視線が鵺に向く。
「見にこないか?」
浅葱は、はつに視線を戻して言った。
「赤子なんて、そう頻繁に見られるものじゃないだろう。よかったら、抱いてやっておくれよ」
「いいの?」
浅葱の申し出に喜びながらも、はつは気づいていた。浅葱は鵺を気にしている。鵺は鵺で、背を向けたままではあるが、全身で浅葱の動向を気にかけているのが伝わってくる。はつは、そんな二人を交互に見ながら、そっと溜め息を吐いた。
「桔梗さんの所に行こう」
鵺にそう言おうとしたところで、浅葱に先を越されてしまった。
「鵺」
浅葱は、まっすぐに鵺を見据えて言う。
「お前も、くるんだよ」
鵺は答えない。浅葱は続ける。
「姉上と約束したことがあるんだろう? 姉上が待っているんだ」
「……」
「父なら、今は外に出ている。いるのは、姉上と侍女だけだよ。それに、もしもお前が望むなら……あたしも、外に出ていたって構わない」
そこまで言うと、鵺がようやくこちらを向いた。
「浅葱……」
「左ノ兄のこと、姉上から聞いた」
「……そうか」
「鵺、あたしは……」
「すぐに行く」
鵺は、浅葱の話を聞く間もなく腰を上げた。
「ひと足先に戻って、桔梗にそう伝えてくれないか」
そう言われ、浅葱は出かかっていた言葉を呑み込む。
「……わかった」
浅葱が出て行こうとするその背に、鵺が再び声をかける。
「お前も」
浅葱がふと動きを止めた。
「お前も、そこで待っていてくれ」
それを聞くと、浅葱はこくりと頷き、振り向くことなく去って行く。鵺と浅葱のそんなやりとりを見ていたはつは、二人の間にある蟠りがようやく溶けつつあることを感じ、そっと胸を撫で下ろしたのだった。
「ねえ、鵺。悪いけれど、先に行っていてよ」
そう言うと、土間に下りた鵺は怪訝な表情でこちらを見る。そこで、はつは着ている浅葱色の小袖の裾を見せて言った。
「ちょっと引っかけてしまってね。少し破れてしまったんだよ。このまま浅葱のもとにはいけないでしょう?」
「……着替えればいいだろうが」
「着替えて行ったら、余計に怪しまれるよ。浅葱には、この小袖を着ているのを見られているんだから」
「……」
「……もしかして、一人で行くのが嫌なの?」
言ったところで、鵺が盛大に睨みつけてきた。そのまま、鵺は何も言うことなく家を出て行く。残されたはつは、苦笑を漏らしつつも開け放たれた戸を締めたのだった。
「よし、できた」
はつは、繕い終えた小袖を満足げに眺めたあと、再び袖を通す。裁縫も、この時代にきてからかすみに教わったのだ。少し時はかかったが、まあまあの出来栄えだと思う。
準備が整い、家を出ようと戸に手をかけたところ、向こうから勢いよく戸を引かれた。目を丸くして驚いていると、戸を引いた者も同じように驚いた様子でこちらを見ている。
「なんだ。出かけるところだったか?」
戸の向こうで草之助が尋ねた。はつはこくりと頷き、
「桔梗さんの所に」
と答える。
「ああ、産まれたらしいな」
「うん。浅葱がね、見にこないかって誘いにきてくれたんだよ」
「浅葱が、ここにきたのか?」
はつが頷くと、草之助はかなり驚いた様子で尋ねた。
「それで、鵺はどうした。鵺はいなかったのか?」
「いたよ。ひと足先に、桔梗さんの所に向かったよ」
「桔梗の所とは……大江様の屋敷にか」
「あ、でもね、今は桔梗さんと侍女の人しかいないらしいよ」
「そうか」
ひとしきり驚いたあと、草之助は晴れやかに笑った。それを見たはつも微笑む。
「ねえ、浅葱のお兄さんのことって何かな」
「何のことだ」
「浅葱が言っていたんだ。姉上から左ノ兄のことを聞いたって」
「……今更か」
呟くと、草之助は俄に額に手を当てた。
「やっぱり、草之助は何か知っているんだね」
「まあな。はつは、浅葱の兄が死んだのは知っているか?」
「……うん」
「その死に鵺が関わっている。浅葱は、鵺のせいで兄が死んだのだと、長らく思っていたようだが」
「本当は、違ったんだね」
「ああ。だが、これは俺も鵺から聞いた話なのだ。俺は浅葱の兄に会ったことはない。俺が里に流れ着いたのは、それよりもあとのことだからな」
「そうなんだ」
「詳しいことは、悪いが言えないな。里人の多くは知らないだろうし、浅葱も知られたくはないだろう」
「……そう。なら、いいよ。でも、今更ってどういうこと?」
先程、草之助の呟いた言葉が気にかかって尋ねた。
「もう、十月になるのだ」
草之助が、どこか呆れたように言う。
「鵺は、左ノ助の死について桔梗に話した。桔梗から浅葱に伝えて欲しい、とな」
「もしかして、それが……」
「ああ。十月前のことだ」
しばし驚いたあと、はつはふと笑った。草之助も吹き出す。
「桔梗が今まで黙っていたとは考えられない」
「浅葱は、ずっと前に知っていたけれど、なかなか言い出せなかったんだね」
「真に頑固者だなあ」
草之助の言葉に、
「浅葱のこと?」
と尋ねると、
「どちらもだ」
と返された。
「あの二人は、よく似ている」
思い返してみれば、はつにも心当たりはある。
「だが、そんなこと、二人には決して言えないがな」
「そうだね」
草之助の言葉に、はつも笑って返した。
「草之助も行かないか?」
「ん?」
「桔梗さんの所に」
「ああ……」
少しばかり考える仕草をしたあと、草之助は首を振る。
「いや、俺は遠慮しておこう」
「そう?」
「呼ばれているのは、はつと鵺なのだろう? なら、俺はいい」
「草之助が行ったところで、構わないと思うけれど」
「そうかもしれない。だが、やはりやめておくとしよう」
そう言うと草之助は、首を傾げるはつに笑顔を向けて去って行ったのだった。
鵺は、大江邸の前で腕組みをし、何やら思案していた。
一歩進んでは立ち止まり、また一歩進んでは立ち止まる。なかなか門を潜ることができずにいたのである。そこへ、
「いつまでそうしているつもりだい」
怒ったような、それでいて呆れたような浅葱の声が、門の向こうから投げかけられた。
「さっさと入ったらどうだい」
「……」
「姉上が待っているよ」
そう言われ、鵺は浅葱に続いて大江邸の門を潜ったのだった。
浅葱に連れられてしばらく行くと、縁側に腰を下ろした桔梗の姿が見えてくる。その胸の中では、産着に包まった小さな命が微かに動いているようだった。
鵺を見止めると、桔梗は実に晴れやかな笑顔をこちらに向けた。鵺は驚く。こんなふうに笑う桔梗を見たのは久方ぶりのことであった。おそらくは、八年ぶりのことであろうか。嫁ぐより以前の桔梗は、よく笑う娘だったように記憶している。
「よくきたね、鵺」
「ああ……」
「私の子だよ」
桔梗が、胸に抱いた子を鵺に見せる。その子の大きな瞳と鵺の目とが、俄かにかち合った。
思わず手を伸ばしたところ、背後で浅葱の含み笑いが聞こえる。桔梗もくすくすと笑っているようだ。
「……何だ」
訝しんで尋ねると、
「鵺が子供好きだなんてねえ」
意外だとばかりに言いながら、桔梗は鵺に我が子を抱かせてやった。桔梗から鵺の腕に移された子は、初めこそ桔梗を求めて手をばたつかせていたが、すぐに安心したかのように鵺に身を預けた。
「さすがに慣れているようだね」
「べつに慣れてなど……」
「姫様がお小さい頃、鵺はよくそうやって子守をしていたものね」
「……」
「浅葱なんて、抱きたいのになかなか抱かせてもらえなくてねえ。抱こうとすると泣くのだもの」
「……姉上っ」
桔梗の言葉に、浅葱の焦ったような声が被さる。ちらりと浅葱の方を見遣ると、その頬は仄かに赤く染まっていた。
「何だよっ」
それに気づいた浅葱が鵺に怒鳴る。その声に驚いたのか、鵺の腕の中で安らかにしていた子が泣き出してしまった。
己のしでかしてしまったことに酷く狼狽える浅葱を見て、桔梗は苦笑を漏らす。そして鵺は、腕の中の子を胸に抱くと、そっとその背をぽんぽんと叩いた。
「驚かせて悪かった。大事ない」
そうその子の耳元で囁く。すると、泣きじゃくっていた子が途端に静かになり、再び安らかな表情で鵺の胸に身を預けた。
それを見ていた浅葱も、安心したようにほっと肩を下ろす。そんな二人を見てくすりと笑ったあと、桔梗が口を開いた。
「鵺、あの話なんだけれど」
あの話と聞き、七月前に大江邸を訪れた時のことを思い返す。
「考えてくれたかい?」
「いや、その話は……」
「駄目かい?」
「……」
「どうあっても?」
鵺は言葉に詰まる。桔梗から目を逸らしてうつむくと、腕の中でこちらを見上げている子と目が合った。そして、その子が鵺を見てにこりと笑ったのだ。それはまるで、花が綻ぶかのような愛らしい笑顔だった。
「……いつまでだ」
鵺の言葉に、桔梗は首を傾げる。だが、すぐにその意図を汲み取り、
「この子が寝返りをうてるようになるまでには、決めて欲しいわね。いつまでも呼び名がないのでは可哀そうだもの」
そう答えた。その時、
「はつ……?」
突然上がった浅葱の声に、鵺と桔梗はそろってそちらを見る。そこには、浅葱色の小袖に身を包んだはつの姿があった。急いできたのだろうか。はつの頬は仄かに上気し、赤く色づいているようだった。
「あ、遅れてごめんね」
そう言いながら、小走りでこちらに歩み寄ってくる。その姿に、鵺はどことなく違和感を覚えた。だが、次の瞬間、それはただの気のせいだったかと思い直す。
「うわあ、可愛いね」
鵺の腕の中の子を見て、はつは感嘆の声を上げた。
「目元が桔梗さんに似ている気がする。きっと美人になるね」
そんなはつの言葉に、
「ねえ、はつ。あたしは? どこが似てる?」
浅葱が期待を込めた声音で尋ねる。
「そうだなあ。どことなく、どっしりと構えた感じが似ている気がするよ」
「何だい、それは」
「浅葱は肝が据わっている感じがするからね。この子にも、ちょっとしたことでは動じないような、芯の強さを感じるよ」
「そんなこと、はつにわかるのかい?」
「さあ? 雰囲気だよ。そんな気がするだけ」
腑に落ちない様子の浅葱だが、
「それは頼もしい。ぜひ、そうなって欲しいものね」
桔梗がそう言って笑うので、
「まあ、確かにね。伊賀の女なら、身も心も強くないといけないね」
浅葱も笑って言う。そして、鵺の腕の中で安らかに寝息を立て始めたその子の頭を、浅葱はそっと撫でたのであった。
鵺と浅葱の蟠りか溶けたことに、安堵する周りの人々。
はつも、その内の一人だった。
次回、いよいよ鵺が恐れていた事態に……!




