第六章 不穏な影
目覚めたはつは、初めに辺りの暖かさを不審に思った。次いで、ぱちぱちという薪の弾ける音が耳に届く。そこではつは、がばりと起き上がると囲炉裏の方に向いた。
「……鵺」
しばらくは目を見開いたまま固まっていたはつだが、ようやくそれだけ発する。
「鵺……だよね?」
「俺でなかったら何なのだ」
二月もの間、まったく姿を見せなかった鵺が突然戻ってきた。はつの頭には、安堵とともにわずかながら疑念が浮かぶ。しかし、鵺らしいそのひねた返しに、はつは顔を綻ばせた。そして、布団から這い出ると、乱れた寝間着をささと正しながら足早に鵺の方へと歩み寄る。
「鵺……」
「はつ」
はつの言葉を遮り、鵺が口を開いた。そして、ことりとはつの前に椀を置く。椀からは湯気が立ち昇っていた。
「まずは、朝餉だ」
「味噌汁……。鵺が作ったの?」
「ああ」
また、ことりと、金平牛蒡の乗った皿と、大根と人参の煮付け物を入れた椀が置かれる。最後に、冷めた麦飯をよそってくれた。
鵺が椀に口をつけたのを見て、はつも味噌汁を啜る。それは、味噌を入れ忘れたのではないかと思うほど、随分あっさりとした味わいだった。次いで、金平牛蒡に箸をつける。こちらは歯ごたえがしっかりとしていて、辛味がかなり利いていた。煮付け物は、大根も人参も固く、まったく味が染みていない。ほとんど生と言ってもよいものだった。
「不味いならそう言え」
食べ始めてから無言になったはつに、鵺が言い放つ。だが、はつは首を横に振った。
「そんなことない。また、鵺の作る朝餉が食べられて嬉しいよ」
はつは、ことりと椀を置くと居ずまいを正す。そして、真っすぐに鵺を見据えて言った。
「おかえり、鵺」
そこで、鵺も椀を置く。
「……ああ」
それは、たった一言だった。しかし、その一言の中に、たくさんの思いが込められているように感じて、はつは顔を綻ばせる。鵺も口元を緩めた。
「草之助から聞いた」
「……何を?」
「この二月、心配をかけたようだな。……すまなかった」
鵺から謝罪の言葉が出るなど思ってもみなかったはつは目を丸くする。囲炉裏の火のせいだろうか、俯いた鵺の頬は仄かに赤らんで見えた。
「もう、何も言わずに出て行ったりしないでよね。鵺は、私の目付なのだから」
そう言って笑うと、
「ああ」
鵺は頷く。そして、再び椀を手にすると、二人はまるで白湯のような味噌汁を啜ったのだった。
鵺が戻ってきて一月あまり経った、六月も半ばの頃のこと。ある事件が起きた。
事件と言っても、丸山城の件や甲賀が織田側についたなどという話と比べれば、それは実に小さなものである。その話をはつと鵺のもとに持ってきたのは、言うまでもなく草之助であった。
草之助は、何の前触れもなく戸を引くと、鵺の家へと上がり込むなり、神妙な顔つきで話し出した。
「小次郎が、他の里の者を屠ったらしい」
小次郎は、里の有力者である島村陣内の二番目の倅にして、弥助の実の弟である。
「抜け忍であろうと、勝手に決めてかかってな」
「小次郎?」
俄に顔を顰めた鵺を横目に、はつが疑問符を投げかける。
「お前も見たことはあるぞ」
鵺にそう言われ考えてみるが、まるで心当たりがない。そこで、鵺は左頬を指で示した。
「ここに刀傷のある男だ。憶えてないか」
そこまで言われ、はつははたと思い出した。それは八月も前のこと。投獄されていたはつが牢から出された際、牢内に入ってきた里人の中にそんな男がいたように思う。
「あの人かな……。あの日以来、一度も見かけたことはないけれど」
「見る必要はない。俺も、できることならば二度と顔を合わせたくはないのだがな」
「鵺は、その人と仲が悪いの?」
渋い表情の鵺に代わり、草之助が答えた。
「小次郎は、少し特殊でな。奴をよく思ってない里人は多い」
「どうして?」
「奴には悪癖があってな」
「悪癖?」
「……拷問だ」
「え……?」
「奴は血を好み、弱い者をいたぶることに快楽を感じるような男なのだ」
絶句するはつに、
「八月前、お前を拷問せよと評議の場で進言したのが小次郎だ」
鵺のその言葉が追い打ちをかける。
――もしも、あの場に鵺がいなかったなら……。
そう思うと、今更ながらに背筋に冷たいものが下っていくのを感じたのだった。
「しかし、他の里の者を勝手に処断するなど、頭領も黙ってはおられまい」
「ああ。大変にお怒りだ」
草之助のその言葉には重みがあった。張り詰めた空気が流れる。
「……そんなにか」
鵺が緊張した面持ちで問えば、
「俺は、あそこまで声を荒げて叱責される頭領を見たことがない」
草之助は神妙に答えた。
「小次郎が叱責されているところを見たのか?」
「ああ、見た」
「……」
「小次郎の罪は重い。屠った者が抜け忍であったならまだよいかもしれないが、もしも違っていたとしたら……」
「里同士の戦になりかねないな。伊賀が一致団結せねぱならない、大事な時だというのに」
「ああ、その通りだ。だから俺はな、もしそうなったら、頭領は小次郎の身柄を差し出すのではないかと思ったのだ」
「……頭領が、小次郎の身を?」
まさかと思った鵺だったが、少し考えてみればそれも頷ける。
「そうだろうな。頭領はお優しい。だが、小次郎一人のために伊賀の団結力を欠くようなことはできないはずだ」
「ああ。頭領には、伊賀十二人衆としてのお立場もある。だからこそ、あれほどまでに小次郎を叱咤なされたのだ。俺にはそう見えた」
「そうか……」
そんな鵺と草之助の会話を聞きながら、
――殺された人には悪いけれど、本当に抜け忍であってくれたならいいのになあ。
はつはそう思った。そうすれば、頭領は小次郎を……里の者を見殺しにしなくとも済むかもしれないのに、と。
二度と顔を合わせたくはない……そう口にしてから半月足らずだった。薬草を採りに林に向かう途中で、鵺は小次郎にばたりと出くわしてしまったのである。
「……何をしているんだ」
思わず尋ねる。小次郎は鵺を睨みつけ、舌打ち混じりに言い放った。
「お前の知ったことかっ」
この日の小次郎は、いつにも増して機嫌が悪いらしい。おそらく、半月前に頭領から叱責されたことがまだ尾を引いているのだろう。鵺はそう思い、ふと、林の向こうに悠然と佇む柏原城に目を向けた。そう言えば、小次郎も先程、柏原城を見ていなかったろうか。
しかも、まるで睨みつけるかのような、凄まじい形相で……。
鵺が小次郎を見つけて、向こうもすぐにこちらに気づいた。だから、それはただ単に鵺の思い過ごしだったかもしれない。
しかし、あの一瞬、小次郎が垣間見せた激しい憎悪の念……。鵺は、それを気のせいだったとは、どうしても振り払うことができなかった。
「まさか、お前……」
「何だ、まだ何かあるのかっ」
鵺は口を噤んだ。確証は何もない。それきり口を閉ざした鵺に、小次郎は再び舌打ちをする。そして、不機嫌を隠すこともなく去って行った。その背に鵺は、戦以外に何かが起ころうとしているのかもしれないという、得体の知れない恐怖を感じていたのだった。
小次郎は、柏原城を見て何を思っていたのか。
次回から、第六部に突入します!




