第五章 迷い ※写真付
夏も近づく五月。近頃では暖かい日が続いている。だが、はつの心は、いまだ冬を抜け出せずにいた。
鵺が、まだ帰ってこないのだ。
鵺の姿を見なくなってから、もう一月あまりになる。
「鵺……」
鵺がいなくなってから、何度呟いたか知れない。
鵺をはつの目付に据えたのは、他ならぬ頭領である。そうであるならば、鵺は今もどこかではつの行動を見ているかもしれない。そう思うと、鵺の名を口にすることをやめられなかった。もしかしたら、どこからかひょっこりと現れるかもしれないと思ったからだ。しかし、鵺は一向に姿を見せなかった。
代わりに、草之助が毎日のように訪ねてきた。
この日もまた、無遠慮に戸が引かれる。
「はつ」
陽だまりのような草之助を見ていると、わずかながらはつの心は軽くなるようだった。
「毎日こなくてもいいのに」
「俺にこられては迷惑か?」
「そんなわけないよ。でも、鵺だっていないのだから……」
「鵺のことなどどうでもいいさ。俺は、はつに会いにきたのだからな」
そう言って朗らかに笑う草之助に、つられるようにはつも笑った。
「ねえ、草之助」
「なんだ」
「生まれ変わりってさ、あると思う?」
唐突なはつの言葉に、草之助は俄かに黙り込んでしまった。それに気づいたはつは咄嗟に手を振る。
「あ、ごめん。なんでもない。忘れて」
「それは、輪廻……というもののことか?」
「輪廻……?」
「違うのか? 明から渡ってきた教えに、そういうものがあったと思ったが」
「うん。たぶん、それのことだね」
「さあ、どうだろうな。俺は信心深い性質ではないからなあ」
「そう……」
「それが、どうかしたのか」
「うん、少しね。少し、気になっただけなんだよ」
「そうか……」
はつの言動に怪訝な表情を浮かべた草之助だったが、はつが口を噤んだので、その件についてはそれ以上何も尋ねることはなかった。
その後、草之助は半刻(約一時間)ほどもはつと他愛ない話をすると帰ったのだが、最後に、
「鵺も近々戻ってくるだろう」
と、何の根拠があるかもわからない言葉を残して行った。
――ああ……また、草之助に気を遣わせてしまったかな。
おそらくは、気落ちしているはつを気遣い、安心させるためについ発してしまった言葉なのだろう。そう思い、はつは草之助に対してどこか申し訳なく思うのだった。
辺りは一面、火の海だった。
――ああ、またか……。
はつは、ぼんやりとそんなことを思った。ここがどこかなどすぐにわかる。これは、夢の中だ。
最初にこの夢を見てから、もう四月が経つ。初めはたまにだったものの、日を追うごとにその間隔は狭まり、今ではほぼ毎日のようにその光景を見ている。
夢の中は、決まって真っ赤な炎に彩られていた。また、そこには決まって、煤けた姿の草之助と千手姫がいるのだ。そして、これも決まってそうなのだが、鵺の姿はどこにも見えないのである。
しかし、もう一人その場にいるのも確かなのだ。それは、はつの意識が入り込んでいる人物だ。はつは、この人物が誰なのか、ずっと疑問に思っていた。その謎が、このところようやく解けてきた。
その人物こそが鵺であったのだ。
――草之助、先へ行け。
これまでは気づかなかったが、その声は紛れもなく鵺のものである。
――お前はどうするのだ?
草之助が尋ねる。珍しく焦っている様子だ。それとは逆に、鵺は実に落ち着き払っていた。
――姫様をお守りするのがお前の役目だろう。……行け。
鵺と草之助は、わずかに見つめ合う。先に目を逸らしたのは草之助だった。草之助はくるりと踵を返すと、千手姫の手を強く握り走り出す。驚いた千手姫が声を上げた。
――草之助様……っ。お待ち下さい。……待って。草之助様、どうして……っ?
だが、草之助は一向に止まる気配はない。千手姫は、半ば無理矢理に連れられて行く。
――鵺っ。……鵺っ。
顔だけをこちらに向けながら、千手姫が叫んだ。その目にきらりと光るものがある。それを見て、鵺は笑った。それは、これまでにはつが見たこともないような……きっと、とても優しい笑顔をしていたことだろう。
――泣かないで……。
鵺の意識がはつに流れてくる。
――千手姫様。どうか、逃げ延びて……。そして、草之助とともに、幸せに生きて行って……。
二人の姿が見えなくなるまで見送ると、鵺も踵を返した。
眼前に広がる炎。その向こうから、鬨の声が近づいてくる。だが、鵺の心は、凪いだ湖面のように実に穏やかだ。
鵺は、腰に下げた刀を抜く。そうして、焔立つ中を風の如く突き進んで行ったのだった。
目覚めたはつは、もう驚きはしなかった。頻繁に見る夢に、すっかり慣らされてしまっていたのだろう。
布団から出てひとつ伸びをする。そして、今しがた見た夢のことを考えた。これは、もはや日課と言ってもよい。夢を見た朝は、はつはこうして、その夢が意味するところを考えるのだった。それを繰り返していたはつは、近頃ひとつの仮定が脳裏に浮かんだ。
「やっぱり、鵺って、もしかして……」
そこまで呟いて、口を噤む。あるはずがないとは思っていても、一度はっきりと認識してしまったその考えを、はつは完全に追い払うことができなかったのである。
雑木林の薄暗がりの中、鵺の手にした刀が青白い輝きを放つ。鵺はそれを振り上げると、上段から振り下ろした。太い枝がどさりと落ちる。次いで、その隣の木にも斬りかかった。また、斬られた枝が落ちる音が、静かな林の中に響いた。
鵺は荒い呼吸を繰り返す。刀を振るうたびに鵺の呼気は早くなる。ぶんと横薙ぎに払った。その時、何かに当たった手応えとともにがきんという金属音が上がり、鵺は途端に動きを止める。驚いてそちらを向けば、抜き身の刀を手にした男と目が合った。
「……草之助」
「随分と荒い太刀筋だな」
そう言いながら、草之助は手にした刀を鞘に収める。
「それでは、動かぬ木の枝を落とすことはできても、雑兵一人倒すことはできないぞ」
「……何をしにきた」
「お前の様子を見に」
「今、俺は修行中だ。帰れ」
「しばらく帰っていないようだな。はつが案じていたぞ」
「……」
「少しやつれたのではないか? 随分と酷い顔をしているな。いくらなんでも、髭ぐらい剃ったらどうだ」
「……帰れと言っているだろう」
「何の修行をしているか知らないが、そんな乱れた精神ではろくな結果にならないぞ」
一向に去る気のない草之助を、鵺はひと睨みする。しかし、草之助が怯む様子はない。鵺は深く息を吐くと、腰に下げた鞘に刀を収めた。
鵺は、手近にあった切り株に腰を下ろす。その後、項垂れた様子でぼそりと呟いた。
「はつが、俺を案じていたか……」
「ああ。だいぶな」
「そうか」
「お前が帰ってこないのは、己のせいかもしれないと思っているようだ」
「……どういうことだ」
「夢に見たことをお前に話したせいだとな。それを聞いて以来、お前は家に戻っていないそうではないか」
「……ああ」
「実のところどうなのだ」
「はつのせいではない」
「それはわかる。俺が知りたいのは、二月もの間、一度も家に戻ることなくこんな所にいる理由だ」
鵺はおもむろに天を見上げた。その先には、木の葉の合間から青空がぼんやりと覗いている。
「もうじき戦が起こる」
「だろうな」
「これまでのような、里同士の小競り合いとはわけが違う」
「ああ」
「伊賀全土を巻き込む戦だ」
「恐れているのか?」
草之助の言葉に、鵺は天から地へと目線を落とした。
「俺は、いざとなれば、死ぬ覚悟ぐらいはある」
「違う」
草之助が言う。
「死ぬことではない。人を殺めることをだ」
「……」
「戦となれば、誰かの命を奪わねばならないこともあるだろう」
「そんなものは今更だ。俺とて、これまでに多くの命を奪ってきた」
「そうだな。そのたびに傷ついてきたのだろう、お前は」
「……」
「恐れるなというのは、お前にとっては難しいことなのかもしれないな。だが、敵の身を案じて迷えば、お前は死ぬ」
「……」
「迷うな、鵺。伊賀のため……いや、頭領のために。そして、千手姫のためにも」
「……ああ。だがな、躊躇いなく人を殺せるようになっては、人として終いではないか」
「そうではない」
思いのほか力強く否定され、鵺は顔を上げた。まっすぐにこちらを見据えている草之助の目とかち合う。
「俺が迷うなと言っているのはな、生きることをだ」
鵺は目を見開いた。草之助は続ける。
「お前は人の命の重さを知っているのに、己のことには疎いからな」
なぜ鵺が己の命に重みをおけないのか、その理由に草之助はおそらく気づいているのだろう。
それは、鵺が拾われ子だったからだ。
鵺は、物心ついた頃にはすでに、里中の者に蔑みの目を向けられていた。頭領に拾われ、頭領と奥方の手で育てられたというのに、なぜこうも里人に嫌われているのか。鵺にもそれはわからない。
忌み子……。
かつて、鵺が頭領の屋敷で暮らしていた頃のこと。頭領を訪ねてきていた者が、陰で鵺をそう呼んでいたのを聞いたことがあった。それが誰であったかは思い出せないが、頭領の屋敷を離れることを決意させるには充分な出来事だった。
間もなく、頭領に嫡男が誕生した。千手姫の五つ離れた弟亀之助である。それを機に、鵺は十四年間世話になった屋敷を離れ、一人で暮らすようになったのだった。
鵺の中には今もなお、「忌み子」という言葉が重くのしかかっている。
もしも、里にとって己が忌むべき者であったのだとしたら、一体何のために生きているというのだろうか。
「生きていいんだぞ」
そう言って草之助は笑った。
「頭領にも千手姫にも、それからはつにも……もちろん、俺にもな。お前が必要なのだ。だからな、鵺。生きることを迷わないでくれ」
――ああ、これだったのか……。
鵺は、長年胸の奥底に沈んだ澱みが晴れていく思いだった。
鵺はこれまで、心のどこかで、己が生きていることそのものがいけないことのように思っていた。それが、草之助は今はっきりと、生きてもいいのだと言ってくれたのだ。
不覚にも、目頭が熱くなるのを感じた。しかし、そこはぐっと堪えて草之助に笑いかける。
「草之助。俺は……最後まで生きることを諦めたりしない」
「ああ、そうだ。頼むぞ、鵺」
二人の静かな笑い声が、雑木林の中に木霊する。その時、木々の切れ間から日の光が差し込んできた。そして、朗らかに笑い合う二人の顔を照らし出したのだった。
鵺の迷いを見抜き、見事断ち切ってみせた草之助。
次回、ある男の行動が、里に不穏な影を落としていく……。




