序章 時を超えて ※写真付
風が吹いていた。
甘い香りを乗せた清々しい風が鼻孔をくすぐる。
香りを辿ると、隣の家に咲き誇った鮮やかな橙色の花が目に入った。
金木犀である。
四季の中で秋は最も短命だ。呆けていると見逃してしまいそうなその季節を、毎年欠かさずに芳しい香りで知らせてくれる……それが、金木犀であった。
鹿島初音は、宮城県某市に住むOLだ。涼しげな短髪で飾り気がなく、三十一歳にして独身である。また、実家暮らしなので、毎日を悠々自適に暮らしていた。
初音の職場は仙台市にある。電車を乗り継ぎながら、毎日一時間半かけて勤務先に通っていた。仙台市北西の外れにある眼鏡店が初音の職場であった。
接客業であるので、来店客がいる限りは閉店にできない。だが、初音の勤める店は街中から離れているためか、夜七時きっかりに閉店となることがほとんどだった。
「お疲れ様でした」
同僚に挨拶をしてロッカールームに向かう。眼鏡を外し、制服から私服へと着替えた。普段は裸眼で過ごしているのだが、会社の規定で営業中は眼鏡を着用しなくてはならないのだった。
七時を五分過ぎた頃。着替え終えたのを見計らったかのようにスマートフォンに着信があった。メールである。開かなくても相手と内容はわかっていた。開いてみると、やはり思ったとおりだ。
斉藤美雪からの食事の誘いである。
彼女は、以前勤めていた家電量販店で同時期に入社した仲間であった。大学も同じで、就職が決まった時に共通の友人が二人を引き合わせてくれたのだ。そこから考えると、もう十年の付き合いになる。
初音は三年前に退職したが、美雪は今もその職場で頑張っている。初音の勤めていた家電量販店は、人員の入れ替わりが激しい。初音の同期として入社した女性で、今もなおその職場で働いているのは、美雪だけであった。男性はまだちらほらと残ってはいるようだが、三十六人いた同期は、九年の間に他県へ異動したり自主的に退職したりでほとんど残っていない。異動した人たちも、異動先で退職したという話は風の便りに聞いていた。
初音は、美雪に返信を送ると急いで店を出た。
初音と美雪は、同期や同僚という間柄だけにとどまらず、休日には旅行をしたり、カラオケに行ったり、買い物を楽しんだりと、何かと馬の合う親友同士であった。それは、退職して同僚でなくなったあとも続いている。今でも、週に一、二回は会って夕食をともにしていた。
「お待たせ」
行きつけのイタリアンレストランに入ると、美雪はもう席に着いているようだった。このレストランの最大の特徴はその安さにある。何を頼んでも、とにかく安いのだ。そうであるから、安心して毎週のように通えるのである。
「ドリンクバーは?」
「頼んだよ」
「それなら、私も頼もうかな」
金曜日の夜で、店内はいつもより賑わっていた。だが、注文を受けにくるのもその品が届くのも、普段と変わらずに早い。
初音は、コーヒーで喉を潤し、ドリアを口に運びながら尋ねた。
「あ、例の物は注文してくれた?」
「したよ」
「ありがとう。近々、必ずお支払いします」
「うん」
例の物とは、マッサージチェアのことだ。初音は、三十一にして肩こりや腰痛に悩まされていた。
そのマッサージチェアは、最近発売されたばかりの最高位機種なのだが、美雪に購入してもらうと社員割引が適用できて、なんと十五万円も安くなるのだという。初音の両親も、「あるといいなあ」と言っていたこともあり、割引が入っても高い買い物ではあったが購入を決意したのだった。
「初音さんは、明日休みでしょう? だから、明日の昼頃に届くよう指定したよ」
「何から何までありがとうございます」
「うん。別にいいよ。私もいつまでいるかわからないしね。いるうちは使っていいよ」
「そうか。もう九年だものね。転職を考えているの?」
それまで淡々としていた美雪だが、一呼吸置くと、はにかむように笑った。
「私、結婚がしたい」
「え、相手は?」
「え、わからない。これから探すよ」
男性と付き合っているという話も聞いていなかっただけに驚いたが、次の言葉に初音は肩を落とす。
「なんだ、決まっていないのね」
「決まるどころか相手もいないよ」
「そう。なかなか出会いもないよね」
「うん」
「出会うにはどうしたらいいのかなあ。合コンとかかな?」
「婚活パーティとかもあるよ」
「なるほどね。行ってみたら?」
「行った」
「行ったの?」
「うん」
「どうだった?」
「……うん」
「……よくなかったんだね」
美雪はがっくりと項垂れて見せた。だが、すぐに顔を持ち上げて言う。
「やっぱり、お金かな」
「何が?」
「私が参加した婚活パーティは、女性が無料だったの」
「え、無料で参加できるの?」
「調べたら、女性がタダというのは多かったよ。でも、四千円くらい出すとね、条件のいい人を集めた婚活パーティに参加もできるみたいなの」
「条件のいい人?」
「男性は高収入の人しか参加できなかったりね」
「そんなものがあるの?」
「うん。他にも、学歴や職業で分けられているものもあったよ」
「へえ。でも、そういうふうに分けられるのは、なんか嫌だなあ」
「まあね。けれど、女性側からすれば、安心ではあるよね」
「なるほどね」
渇いた喉を紅茶で潤すと、美雪は尋ねた。
「初音さんは? 誰かいい人はいないの?」
「なんか、近所のおばさんみたいだよ」
「初音さんは結婚する気がないの?」
「うん、まあ、そうかな……」
「どうして?」
「さあ? わからないけれど、恋愛にも結婚にも興味がないんだよね」
「あのね、私たちはもう三十一だよ? 絶対に結婚しないという強い意志があるならともかく、興味がないとか言っている場合じゃないよ」
「うん。まあ、確かにそうなんだけれどね……」
「今度、一緒に行かない?」
「婚活パーティ?」
「そう」
「うん……考えておく」
そこで、話題は互いの職場でのことに移った。この一週間の近況を報告し合う。そうこうしていると、時計の針が十時を回っていた。
「もう十時かあ。早いね」
初音の言葉に美雪がうなずく。
「美雪は明日も仕事だよね?」
「うん。土日は休めないもの」
「そうだよね。なら、そろそろ帰ろうか」
「うん。そうだね」
会計を済ませると店を出る。仙台の街中の夜は、星の輝きを覆い隠してしまうほどに明るい。この日は金曜日ということもあって、居酒屋やカラオケ屋の客引きや、これから飲みに行こうとする人たちで、いまだに街は賑わっていた。
「美雪は、今日は地下鉄で帰るの?」
「ううん。今日は歩いて帰る」
「そう」
「初音さんは電車で帰るの?」
「うん。私は、それ以外に選択肢はないからね」
初音と美雪は笑い合った。そして、手を振り合って別れる。帰り際、明日届くというマッサージチェアに思いを馳せながら、初音は満員電車に乗り込んだのだった。
翌朝、初音は七時に目を覚ました。
ゆっくりと朝風呂に浸かり、身支度を整えて食卓に着いた頃には八時を回っていた。焼き立ての食パンに、母の手製のブルーベリージャムを塗りたくって口に運ぶ。
――婚活、か……。
昨夜の美雪との会話が思い起こされる。美雪の参加した婚活パーティではよい印象は得られなかったようだが、そういう活動をすることが大切なのではないだろうか。美雪も言っていたが、もう三十一歳だ。興味がないなどと言っていられる年齢でもない。
――けれどなあ、どうしてかわからないけれど、したいとは思えないんだよなあ……。
「最近、肌寒くなってきたわね」
母が、コーヒーを淹れてくれながら言った。
「今日から十一月だからね」
初音が何気なく窓の外に目を向けると、隣の家の金木犀は、花が散ってだいぶ小さくなっていた。
「もう秋も終わりかしらね」
「秋の命は短いよね」
「初音、寒くないの?」
母はトータルネックのセーターを着ていたが、初音は七分丈の藍色のカットソーに黒のアンクルパンツという、実に涼しげな服装だった。
「まあ、私は若いからね」
「三十路を過ぎたら、もう若いとは言えないのよ」
母の何気ない言葉が、先程まで婚活のことを考えていた初音の胸にちくりと突き刺さる。
「私、少し出かけてくるね」
食事を終えると、初音が言った。
「こんな朝から、どこに?」
「少しね。ただの散歩」
「朝から散歩って……。年寄りくさいわね」
「いいの。散歩は、子供の頃からの私の趣味だもの。最近してなかったから、冬がくる前に行ってくるよ」
「そう。荷物が届く前に戻ってきてよ」
「うん。昼までにはだいぶ時間があるもの。それまでには戻るよ」
そう言い残すと、初音は家を出た。
「さてと。久し振りにあの場所へ行こうかな」
子供の頃から、何かに悩んだ時には一人で散歩に出かけたものだった。そうすると、不思議と頭がすっきりとして、考えがまとまるのである。
初音の家は、警察署や市役所、病院や消防署などの公共機関が密集する、わりと栄えた場所にあった。だが、車で二十分、歩いて一時間半も東に行くと、その景観はがらりと変わる。昔ながらの家が立ち並び、田園風景が広がっているのだ。
トラック一台がようやく通れるほどの細い道が続く。その両脇には畑が広がり、青々とした葉っぱを茂らせていた。
道路のあちらこちらに点々とこびりついているのは、牛馬の糞である。近くに牛や馬を飼育している農家があるのだが、それらの糞を畑の肥やしとするために、糞を一杯に積んだトラックがこの道を走って行くのだ。トラックが揺れる度に、糞が点々と道に落ちる。これは、それが乾いて干からびたものであった。黒くて湿り気のある糞は強烈な臭いだが、乾ききった糞は臭いもなく、色もただの土くれのようである。
そんな牛馬の糞がこびりついたような細い道を行くと、右手に高い木々に覆われた民家が見えてきた。
その家の前には、初音が歩いて来た道に沿って小さな畑があった。初音は、休憩がてらぼんやりと畑を眺める。畑の奥まった所にも木々が生い茂っていた。その中に、木々が絡まり合ってできた小さなトンネルがあるのを見つけた。
「あんな所に、あんなトンネルがあったかな……」
初音は独りごちた。そして、トンネルに向かって歩き出す。他人の土地ということもあって抵抗はあったが、どうにも気にかかって仕方がなかったのだ。
トンネルの中は薄暗く、奥行きが見えない。
トンネルの前に立つと、どこか懐かしい風が吹いてきているのを感じた。
「よし」
初音は、意を決してトンネルの中へと一歩を踏み出す。
その時である。
突如、強い風が起こった。その風が、初音の背を押すようにトンネルの中へと導いたのだった。
現代編はとりあえずここまで。
次回から戦国時代へと飛んでいきます。