第三章 孤立
三月になると、再び里が騒がしくなった。盟約を結んでいた甲賀が、なんと織田についたのだという。これで、近隣で織田に与していない国はなくなってしまった。いよいよ織田による伊賀攻めが懸念される中、滝野の里衆は普段と変わらない長閑な生活を送っていた。
「ねえ。長閑すぎない?」
そう発したのははつだ。
「もっと警戒した方がいいんじゃない?」
「何をどう警戒せよと言うのだ」
鵺が、囲炉裏に薪をくべながらそう返す。
「はつ、案ずることはない」
草之助が穏やかに言った。
「織田は、当分の間は攻めてくることはないだろう」
「どういうこと?」
「伊賀に構っている暇などないはずだからだ。織田には、片付けなくてはならない問題が山積みなのだ」
「なら、その問題が片付いたら?」
「その時は、いよいよ戦となるだろうなあ」
「……」
「そう不安そうな顔をするな。まだ先のことだ」
「先って、どれぐらい先なの?」
「……」
「五年? それとも、十年?」
「はつ……」
「不安がるななんて、無理だよ。だって、相手はあの織田信長なんだよ?」
「そうだな。はつ、もしも戦になったなら、俺がなんとしても其方を逃してやる。元より、はつは伊賀の者ではないのだ。伊賀の戦に巻き込まれることはない」
「なに、それ……?」
はつは小刻みに肩を震わせる。
「違う、そうじゃない」
声を荒げたはつを前に、草之助は目を見開いた。そんな二人のやり取りを見ていた鵺が口を挟む。
「お前にしては珍しくしくじったな、草之助。はつが案じているのは、何も己が身ばかりではあるまい」
はつは、いまだ震える体を両手で押さえながら、こくこくと頷いた。
「それも、はつが伊賀と関わりがないようなことを」
「いや、しかしだな……」
言いかけた草之助だったが、その言葉を呑んではつに向き直る。
「はつ、すまなかったな」
「私は、自分の身も心配だよ。けれど、それ以上に鵺や草之助が心配だよ。だって、戦いに行くのは草之助たちじゃないか」
しばし二人の間には重い沈黙が流れた。しかし、鵺がそれを破る。
「北畠は、なぜこの時期に丸山城の修築を進めたのだろうな」
その問いかけに、はたと二人はそろって鵺を見た。
「今、伊賀が揺れていることを、まるで見透かしているかのようではないか」
草之助には鵺の言わんとすることがわかったようだが、はつは首を傾げる。そこで、草之助が説明した。
「伊賀には上忍三家と呼ばれる方々がいる。服部様、百地様、藤林様の御三家がそうだ。その内の筆頭であった服部様が、伊賀を抜けられたのだ」
「抜けたって、抜け忍になったの?」
「いや、そうではない。抜け忍とは、無断で抜けた者のことを言う。服部様は、他の上忍に認められた上で伊賀を抜けたのだ」
「このことが外に漏れれば、伊賀の団結力が落ちていると思う者が出てきてもおかしくない」
鵺が言う。
「まさか、内通者が……?」
草之助の言葉に、鵺は頷いた。
「もしそうならば、怪しいのは仁木だろう」
「仁木?」
はつがまたも首を傾げる。
「伊賀の守護だ」
「守護って、お殿様ということ?」
「伊賀にそんなものはいない。伊賀国は、伊賀惣国一揆によって治められている」
「え、なに?」
「伊賀惣国一揆。伊賀全土に通ずる掟だ。伊賀にはいくつもの里があり、里同士は敵にも味方にもなり得る関係にある。しかし、伊賀を揺るがす大事が起きた際には、伊賀惣国一揆に従い、上忍三家と十二忍衆がより集まって評議し決めることとなっているのだ」
「それじゃあ、仁木という人は……」
「伊賀の君主ということになっている。一応はな」
「もともと、勝手に仁木などを伊賀守護に据えたのは織田信長だ。伊賀の誰もが認めてなどいない」
草之助が言い、
「伊賀において、仁木には何の力もありはしない。名ばかりの君主なのだ」
そう鵺が締め括った。
「そうか。だから、鵺は仁木さんが怪しいと言うんだね。伊賀守護になったのが織田信長によるものなら、今も信長と通じていたっておかしくないものね」
「ああ」
頷くものの、鵺の表情はどこか暗い。
「引っかかっているのだろう?」
草之助が鵺の胸中を察したように尋ねた。
「仁木が、服部様のことをなぜ知っているのか」
「そうだ。伊賀の者が、仁木にそんな重大な情報を漏らすはずがない」
「俺もそう思う。俺たちが思うぐらいだ。頭領やその上の方々も思っているだろう」
「だとするなら、他に内通者がいるということではないか」
「そうかもしれない。だが、それは俺たちが考えても仕方のないことだ」
「やっぱり、戦は避けられないのかな……」
ぼそりと呟くと、草之助がはつに笑いかけた。
「そう不安がるな。はつのことは、俺が守ってやる」
――ああ……この笑顔に、女たちは騙されるんだろうなあ。
そう思っていると、
「はつのことはどうでもいい。お前は千手姫様をお守りしろ」
鵺がすぱっと言い放つ。
「うん。まあ、草之助には千手姫様をお守りして欲しいんだけれどさ……」
どうでもいいということはないのではないかと、はつは鵺に抗議の目を向けた。しかし、鵺はさして気にしたふうもなく続ける。
「たとえどのような戦になろうとも、俺は頭領に従うだけだ」
そう言った鵺の瞳には、確かな覚悟の色が宿っているように見えたのだった。
その夜、はつは再び夢を見た。
やはり、何かから逃げているような、そんな夢だった。
はつの他に草之助と千手姫がいるのも、以前見た夢の光景と同じだ。二人は、泥や煤で汚れた顔をこちらに向けている。
――ああ、これは、この間の夢の続きだ。
夢の中で、はつにはこれが夢であるという自覚があった。
目の前の草之助と千手姫は、酷く焦っている様子だ。だが、それを見つめるはつは、妙に落ち着いた心持ちであった。
千手姫の唇が動く。必死に、何かを叫んでいるように見える。
――なに……何と言っているの?
はつは尋ねた、いや、そのつもりだった。しかし、言葉にはならなかった。
また、千手姫が何かを叫び、草之助が千手姫の手を引いた。手を引かれながら、千手姫はなおも叫び続けている。こちらに向けられた瞳は揺れ、滴となって流れ落ちた。
ふと、はつは笑った。いや、正確にははつではない。はつの意識が入り込んでいる体の持ち主が笑ったのだ。そして、その者の意識がはつの中へと流れ込んでくる。
――姫、泣かないで……。
――姫、逃げて……。
――どうか、無事でいて……。
はつの中に、次から次へとその者の思いが流れてきた。それを感じていると、はつは、はつが入り込んでいる者と本当に一体となってしまったかのような感覚になってくる。
だから、理解した。
この者は、千手姫のことを心から大切に思っている。千手姫を逃がすためならば、死すら厭わないと本気で思っているのだ。
だから、この窮地にありながら落ち着いていられるのだろう。
だから、これほどまでに安らかに笑っていられるのだろう。
そしてその者は、踵を返すと覚悟を決め、炎の中へと消えて行ったのだった。
はつが目を覚ました時、辺りはまだ仄暗かった。
静寂の中、他の者の息遣いを感じて身構える。だが、すぐに安堵した。
「……鵺、どうしたの?」
この時分に鵺が家にいたことはない。少なくとも、はつは一度たりとて見たことがなかった。しかし、ここはもとより鵺の家である。いたとしてもおかしくはない。だが、鵺は布団の中にいるわけでもなく、ただこちらをじっと見ているばかりである。
「それはこちらの言うことだ」
鵺を訝しんで尋ねたが、反対にそう返されてしまった。暗さに目が慣れてくると鵺の表情がつかめてくる。どこか心配そうにこちらを見据えていた。
「具合でも悪いのか」
「そんなことないけれど……?」
「なら、なぜ泣いている」
言われて目元に手を置く。ひやりとした感触とともに、指先が濡れた。
「あ、たぶん、夢のせいだよ」
はつは、目元を拭いながら起き上がると、枕元に畳まれた半纏を着込んだ。
「たぶんね、あれは戦の光景だったのだと思う。戦火の中を逃げている……そんな夢を見たんだ」
「昼間の話のせいか」
「どうかな。それだけじゃないとは思うけれど。熱を出して寝込んだ時にも同じような夢を見たから」
「戦火の中を逃げている、か。その話では、俺たちは負け戦のようだな」
「……戦は、本当に起こってしまうのかな。もう、戻れないの?」
「織田は伊賀を落としたがっている。伊賀は織田に臣従するつもりはない。ならば、戦いは避けられないだろうな」
「臣従したらいいじゃない」
「……」
「伊賀が強いのはわかる。けれど、相手はあの織田信長だよ。勝つ見込みはあるの? もしも勝てたとしても、きっとたくさんの伊賀の人たちが死ぬことになる。そうなるぐらいなら、私は、織田についてでも生き残る道を選んで欲しいと思うよ」
言ってから、はつはしまったと思った。伊賀の国人でもない身で、伊賀が国として決めたことに異を唱えるなど、分不相応の出過ぎたことであったと思ったからだ。しかし、
「お前もそう思うか」
意外にも、鵺が同意を示してきたのだ。
「十郎様も同じお考えのようだ」
「頭領も……?」
「織田と抗戦するか臣従するかの評議の際、頭領は臣従の意を示されたらしい。だが、結果は徹底抗戦と決まった」
「……」
「すでに俺たちは、丸山城の件で北畠の家臣である滝川と一戦を交えている。今さら臣従の道はない。ならば、できることをやるしかないだろう」
「できること……」
「いつ訪れるかもしれないが、戦に備えておくのだ。体を鍛え直すのもいい。武器の手入れをしておくのもいいだろう。俺は、戦で使えそうな薬を作っている」
「ああ。それで、近頃はよくごりごりとやっていたんだね。なら、私は何をしたらいいかなあ」
「お前は、まずは護身法ぐらいは身に着けておくといい。それから、逃げられるように脚力もつけておけ。……夜が明けたら教えてやる」
はつは頷くと、ほうっと欠伸をひとつ漏らす。それを見止めた鵺に促されるまま、半纏を脱いで布団の中へと潜り込んだ。途端に、先程まであったはずの鵺の気配が消える。不思議に思いながらも、押し寄せる睡魔に抗うことができず、はつは再び眠りの中へと落ちていったのだった。
はつが見た夢の光景……。
あれは、次の戦で伊賀が負けることを暗示しているのだろうか。
はつの夢語りは、鵺の心にも何かを残したようだった。
次回、鵺がはつの前から消えます。




